幽霊ビルの贖罪者

藍沢 理

幽霊ビルの贖罪者

 繁華街の喧騒が遠のいていく。スマートフォンの画面に映る時刻は午後11時59分。斎藤は廃ビルの屋上に佇み、煌めく夜景を見下ろしていた。LEDの光が瞬き、人々の笑い声がビルの谷間を縫って風に乗って聞こえてくる。かつては華やかだったこのビル。今は打ち捨てられ、朽ち果てようとしている。まるで、斎藤の人生のようだった。


 冷たい風が頬を撫で、思わずシャツの襟を立て、体を縮こませる。ポケットを探ると、千円札が一枚。明日の食事代だ。贅沢は言えない。でも、この場所があるだけでも幸運なのかもしれない。斎藤は苦笑した。かつて彼が専務を務めていた会社のオフィスが入居していたビルだ。倒産から5年。この5年間、彼はこの廃ビルの周辺をさまよい歩き、時折屋上で夜を明かしていた。しかし、ビルの内部には一度も足を踏み入れていなかった。過去の記憶と向き合う勇気がなかったのだ。


「にゃー」


 突然の鳴き声に振り返ると、そこには一匹の三毛猫が満月の光に照らされ、神秘的な佇まいを見せていた。不思議なことに、その目は人間のように輝いている。月光に照らされた猫の姿は、どこか神秘的だった。


「珍しい訪問者だね。君にも、家がないのかい?」


 猫は首を傾げ、意味ありげな笑みを浮かべたように見えた。その瞬間、背筋に冷たいものが走る。この猫、普通じゃない。


「にゃ、斎藤さん。今夜こそ、中に入る時が来たんですにゃ」


 突然、猫が人語を話した。斎藤は驚愕のあまり、思わず息を呑んで後ずさりする。足がふらつき、背中が手すりに当たる。高さを意識し、冷や汗が背中を流れる。


「き、君は一体何者なんだ?」

「僕はミケにゃ。あなたの案内人ですにゃ」


 ミケは優雅に前足を舐めながら答えた。


「もうそろそろ、全てを思い出す時期だと思いませんかにゃ?」


 その言葉の意味を考える間もなく、ビルの中から少女の泣き声が聞こえてきた。か細く、でも確かに。


「あれは……」


「行ってみましょうにゃ」


 ミケは促した。

 躊躇する斎藤のかかとを、ミケが軽く押す。仕方なく、斎藤は音のする方へ向かった。


 階段を下りながら、不思議なことに懐かしさを感じる。5年間、決して足を踏み入れようとしなかった場所なのに、まるで昨日まで毎日通っていたかのような感覚に襲われる。壁には古びたカレンダーが掛かっている。よく見ると、そこに印刷された年号は10年以上前のものだ。会社が倒産する前の日付だ。なぜこんなものが……?


 泣き声は三階の一室から聞こえていた。ドアには「会議室3」というプレートが掛かっている。かつてのオフィスビルの名残だろう。恐る恐るドアを開けると、そこには小さな少女が座り込んでいた。


 薄暗い部屋の中、窓から差し込む月光だけが、少女の姿を浮かび上がらせていた。膝を抱え、すすり泣く彼女の姿に、胸が締め付けられる。


「大丈夫かい?」


 声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げた。


 その顔を見た瞬間、斎藤の中で何かが弾けた。記憶が堰を切ったように押し寄せ、意識を飲み込んでいく。


 彼女は……倒産した会社の社長の娘だった。


「パパを返して!」


 少女は叫んだ。その叫び声と共に、部屋の景色が歪み始めた。壁が溶け、床が揺れる。斎藤は恐怖のあまり目を閉じた。


 再び目を開けると、そこは以前の会社のオフィスだった。倒産の日。取締役会議室で、斎藤は必死に再建案を説明していた。しかし、誰も聞く耳を持たない。


「斎藤さん、あなたが提案する再建案では、我が社を救うことはできません」


 社長が厳しい表情で言った。その目には、深い失望の色が浮かんでいた。


「むしろ、あなたの判断ミスが会社を追い込んだのです」

「そんな……」


 言葉が出ない。斎藤の脳裏に、自分の判断ミスが引き起こした一連の出来事が走馬灯のように駆け巡る。無理な新規事業の展開、ずさんな市場調査、楽観的すぎる予測……。全ては自分の過信から始まったのだと、今になってようやく気づいた。


「にゃ、これが現実ですにゃ」


 ミケの声が聞こえた。


「あなたの判断ミスが、多くの人の人生を狂わせたのですにゃ」


 景色が再び歪み、斎藤は廃ビルの一室に戻っていた。少女はもういない。代わりに、ミケが斎藤を見つめていた。


「何が起きているんだ?」

「あなたの過去と向き合う時が来たのですにゃ。このビルは、あなたの記憶と後悔が具現化した場所。ここで全てを受け入れ、贖罪する必要があるのですにゃ」


「贖罪……?」

「そうにゃ。あなたの判断ミスで会社が倒産し、多くの人が職を失った。社長は自殺し、その娘は孤児になったのですにゃ」


 その言葉に、胸が締め付けられる。確かに、斎藤の判断ミスがあった。しかし、それが全ての原因だったとは……。


「でも、それは僕一人の責任じゃない!」

「そうかもしれませんにゃ。でも、あなたは逃げ出した。責任を取らずに、ここに隠れてしまったのですにゃ」


 ミケの言葉に、反論できない。確かに斎藤は、全てから逃げ出してしまった。


「どうすれば……贖罪できるんだ?」

「まず、真実を受け入れることですにゃ。そして、あなたが傷つけた人々と向き合うのですにゃ」


 ミケの導きで、斎藤は廃ビルの中を歩き始めた。各階、各部屋に、斎藤が傷つけた人々の姿があった。


 四階の応接室。そこには、倒産後に離婚した妻がいた。


「あなたは仕事ばかりで、家族のことを顧みなかった。そして、会社を失った途端、私たち家族も見捨てた」


 妻の左手には、結婚指輪が光っている。二人の幸せだった日々の象徴。それが今は、痛々しいほどに輝いていた。かつての温かな家庭の記憶が、斎藤の胸を刺す。


「ごめん……」


 謝罪の言葉しか出てこなかった。しかし、その一言に、これまで押し殺してきた後悔の念が込められていた。


 五階の社員食堂。そこには、かつての部下たちがいた。


「課長、なぜ俺たちを見捨てたんですか? 倒産後、誰も次の仕事が見つからず、皆苦労したんです」


 テーブルの上には、一通の封筒が置かれていた。宛名は斎藤。差出人は、今話している若手社員だ。その中身は、倒産後に書かれた怒りと失望に満ちた手紙だった。斎藤は震える手でそれを開き、一字一句噛みしめるように読んだ。


「申し訳ない……」


 斎藤は彼らの苦労を想像して胸が痛んだ。自分の逃避が、どれほど多くの人々に影響を与えたのか、今になってようやく理解できた。


 そして、最上階の社長室。そこには、自殺した社長の幻影があった。


「斎藤君、君を信じていたのに……」


 社長の声が虚空に響く。卓上には、暗号めいた文字が書かれたメモが置かれていた。斎藤はそれを手に取り、慎重に解読していく。そこには、会社を救おうとする社長の必死の努力が記されていた。新規取引先との交渉、金融機関との折衝、従業員の雇用を守るための奔走……。全てが水の泡となってしまったのだ。


「社長……」


 斎藤は言葉に詰まる。自分の無責任な行動が、信頼してくれていた人々をこれほどまでに傷つけてしまったのかと、深い後悔の念に襲われた。


 各階を巡るたびに、斎藤の心は重くなっていった。自分の行動が、これほど多くの人々に影響を与えていたとは。逃げ出すのではなく、真摯に向き合うべきだった。


「にゃ、全てを見ましたにゃ。今、あなたはどう感じていますかにゃ?」


「後悔と悔恨でいっぱいだ。でも、どうすれば償えるんだろう。もう手遅れじゃないのか?」


「遅すぎることなどありませんにゃ。大切なのは、今からでも行動を起こすことですにゃ」


 ミケの言葉に、少し希望が湧いてきた。


「でも、どうすれば……」


 その瞬間、廊下の突き当たりに光が見えた。そこに歩いていくと、そこは現実の世界につながっているようだった。光の向こうに、見覚えのある都市の景色が見える。しかし、どこか違和感がある。建物の様子が、現代とは少し違うように見えるのだ。


「あそこに行けば、全てやり直せるのですにゃ。ただし、記憶は残りません。全てを忘れ、ただ贖罪の念だけを胸に生きることになるのですにゃ」


 迷う斎藤。しかし、ここまで見てきたものを思い返せば、答えは一つしかなかった。


「行く」


 斎藤は決意を固めた。


 光の中に足を踏み入れた瞬間、全ての記憶が薄れていく。ただ、「何かを償わなければ」という強い思いだけが残った。


 *


 目が覚めると、斎藤は繁華街のベンチで横になっていた。スマートフォンの画面に映る日付は、2024年8月2日。浮浪者となって数年が経ったはず。過去の記憶はないが、強い使命感だけが残っていた。


「何かを、償わなければ……」


 その日から、斎藤は街の清掃や困っている人の手伝いを始めた。物乞いをやめ、日雇い労働で生計を立てた。スマートフォンを手放し、SNSとの繋がりも絶った。ただ、人々のために尽くすことだけを考えて生きた。


 ある日、なぜか見覚えのある少女を見かけた。彼女はスマートフォンを片手に、困った表情で立ち止まっていた。


「どうしたの?」

「スマホのバッテリーが切れちゃって、家に帰る電車に乗れないんです。その……あたし財布を持ってなくて」


 キャッシュレス化の弊害だ。斎藤は迷わず、その日稼いだお金を少女に渡した。


「ありがとうございます! 私、将来は会社を立て直すの。パパの夢を叶えるために」


 その言葉に、斎藤の中で何かが震えた。懐かしさと共に、強い使命感が湧き上がる。


「頑張ってね。きっと、君なら大丈夫だ」


 斎藤は微笑んだ。その笑顔には、自分でも気づかない優しさが宿っていた。


 少女が去った後、例の三毛猫が近づいてきた。


「にゃ、よく頑張りましたにゃ。あなたの贖罪――――魂の浄化の旅は、ここで終わりですにゃ」


「どういうこと?」


「あなたはあの廃ビルで亡くなった後、強い自責の念で魂が残っていたにゃ。そのため贖罪の機会を与えられたのですにゃ。そして、立派に果たしましたにゃ」


 濁流のように記憶が蘇る。会社の倒産、逃避の日々、そして幽霊ビルでの贖罪の旅。斎藤は自分がいつ死んだのかまで、全てが鮮明に甦った。


「じゃあ、これから……」


「天国に行く準備は整いましたにゃ」


 不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、長い旅を終えたような安堵感があった。


「でも、まだやり残したことが……」


「心配いりませんにゃ。あなたの行いは、この世に生きる人々の心に残り、良い影響を与え続けますにゃ」


 斎藤はミケについて歩き始めた。周りの景色が霞み、柔らかな光に包まれていく。


 最後に振り返ると、繁華街の喧騒が遠ざかっていく。巨大なデジタルサイネージには、経済ニュースが流れている。「新進気鋭のIT企業、古参企業の再建に成功」という見出しが、斎藤の目に飛び込んできた。


 光の中に消えていく直前、斎藤は確かに見た。助けた少女が友人と楽しそうに歩く姿を。彼女の手には、若かりし頃の斎藤と社長が写った古い写真があった。


 光の中を進むと、懐かしい顔々が現れた。元妻、元部下たち、そして社長。彼らの表情は穏やかな微笑みに変わっていた。


「お帰りなさい、斎藤さん」


 社長が手を差し伸べる。


 ポケットから取り出したメモには、こう書かれていた。


「全ては、最期までの生き様だ」


 胸が熱くなる。


「さあ、行きましょうにゃ。新しい旅の始まりですにゃ」


 斎藤は頷き、光の中へと足を踏み入れた。


 それが、斎藤の「幽霊ビルの贖罪者」としての物語の終わりであり、新たな始まりだった。怖かったけれど、怖くなかった。人生そのものが少し怖いものだったのだと、最後に気づいたのだった。


 光の中で、斎藤は振り返った。そこには、彼の人生の軌跡が一本の線となって見えた。その線上には、数え切れない光の粒が踊っている。斎藤が出会った全ての人々だ。


「見えますかにゃ? あなたの人生が、どれだけ多くの人に影響を与えたか」

「ああ、見える。本当に、一人では生きていけないんだね」

「そうですにゃ。だからこそ、一瞬一瞬を大切に生きる必要があるのですにゃ」


 光の中で、斎藤は初めて心から微笑んだ。


「人生は、怖くて儚くてそして、美しいものだ」

「その通りですにゃ。それが人生というものですにゃ」


 斎藤は、自分の人生を形作ったすべての瞬間に感謝した。失敗も、後悔も、全てが彼を今ここに導いたのだ。


「さあ、行きましょう。天国ではどんな冒険が待っているんだろうか」

「それは、あなた次第ですにゃ」


 ミケはウインクした。


 そうして斎藤たちは、新たな光の海へと歩みを進めた。それは終わりであり、始まりでもあった。人生という名の、永遠に続く物語の新しい章が、今まさに幕を開けようとしていた。




=了=

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