第10話 取引 前編

 まさかの登校拒否宣言を受けた悪郎は、進に対して失望の念を抱いていた。これまでコツコツと築き上げてきた信頼が、一気に瓦解してしまったことに対して冷たい視線を進に送る。それを受けても怯まず睨み返す進、二人の間に明らかな亀裂が入った。


「ここまでやってきたことをすべて無駄にするんだな?」

「お前に何と言われようとも行かない」

「あれだけ努力したのにか?」

「努力がなんだ。それで何が変わった。これで学校に行っていじめられないって本当に言えるのかよ、あの苦しみが終わるって本当にそう言えるのか!?」


 声を荒げた進の姿に悪郎は更に失望した。そして自分がどれだけ進に対して期待していたのかを思い知った。その期待が大きかったからこそ、進の反抗に強く心を揺さぶられていた。


「…今はまだお前の心が乱れているだけかもしれん。一日頭を冷やす時間を取ろう、俺もお前もだ」

「頭を冷やす?」

「そうだ。余計なことを考えるから心配ごとに心が支配されるんだ。とりあえず今日のトレーニングメニューだけはこなすぞ」

「…まだ続けんのかよ」

「当たり前だ、契約だからな。それとも破棄するのか?お前から契約を破棄するのならば、俺がお前の貧相極まりない魂をもらって終わりだ。いいんだな?」


 悪郎の脅しに進はたじろぐ、悪魔に魂を渡すということはすなわち死である。このままでは進はせっかく苦労して悪魔を召喚したというのに、何も成せないままに死ぬということだ。


 それだけは嫌だと渋々ながら進は立ち上がった。運動する準備を整えてから家を出る。悪郎は黙って進の後についていった。




 次の日も、その次の日も、進は登校をすることはなかった。行かないの一点張りで譲る気がない。


 悪郎はそのことを敢えて咎めることはなかった。ただしトレーニングと生活リズムを整えさせること、そして勉強だけは続けさせた。これだけは進がやりたくないとごねても突っぱねた。


 トレーニングと勉強の日々が続く、その間悪郎と進の会話は非常に言葉少なで、とても簡素なものであった。喧嘩にもならない事務的な会話だけが交わされる。


 進の様子がどことなくおかしいことは家族も感じ取っていた。しかしそれを指摘することができなかった。


 まるで引きこもりの時と同じように刺々しい態度の進、それでいて少し触れるだけで崩れてしまいそうな脆さも感じられた。せっかく開かれた心はすっかり閉じられてしまい、その急激な変化に家族は皆戸惑っていた。


 進が悪郎と一緒に登校する日を決めていたことを家族の誰も知らない、それは二人の間だけの話だった。その事情を知らない家族が、今の進の心情を察するのは無理な話だ。


 家族の間にまたギクシャクとした空気が流れ始めていた。進もそれは感じ取っていて申し訳なく思っていたが、分かっていても止められない感情があった。


 進の悪夢はずっと続いていた。教室で、校庭で、体育館で、職員室で、通学路で、我が家で、ありとあらゆる場所に一人立ち尽くす自分と、それを見て嘲笑する声、そして化け物に変貌している拓巳の姿がつきまとってきて離れない。


 心に刻み込まれた恐怖とそれが見せる幻影。進の精神状態は最悪で、自分が常に切り立った崖っぷちに立たされているように思えてしまうほど、これ以上ないくらいに追い詰められていた。


 悪郎と一緒に取り組んだ生活改善によって、ゆっくりとだが着実に頭をもたげはじめていた進の「自信」と「自己肯定」は消沈してしまっていた。


 根気よく自分に付き合ってくれた悪郎を裏切るような行為に罪悪感はあった。だがそれでも進は自分の気持ちに嘘をつくことはできなかった。


 底なしの恐怖、それが進の心を縛り付けているものの正体だった。どれだけ拭おうとも拭いきれぬどす黒いヘドロのような恐怖が心を覆い、しつこくくっついて剥がれ落ちない。もう一度失敗したらどうなる、いじめが再燃したら耐えられない、こぼれ落ちた自分に居場所があるのか、どれだけ気楽に考えようとしても負の感情とイメージが消えることはなかった。


 学校に行くと決めた時は気が重く、行かないと決めた時は一気に楽になった。どんどんと学校へ行こうという気持ちは萎えていき、気持ちは低きに流れ行く。進の気力は折れかけていた。


 しかし進には気にかかることがあった。それは悪郎のことだった。


 登校拒否を伝えた日から悪郎とは殆ど会話を交わしていない進、悪郎もまた進と会話することを避けていた。だから今の進に悪郎の心中を推し量ることはできない。


 どうして今もまだ自分について指導を続けてくれているのか、進にはこれが分からなかった。やり方は悪郎が決めると契約してしまったので、悪郎は進のことをどうとでもすることができる。


 それなのに何の変化もなく毎日の習慣を続けさせ、文句も言わず進のサポートを続けていた。悪郎が何を考えて自分にそうさせているのか、何も分からないままただただ時間だけが過ぎていった。




 深夜、眠っている進の前に立つ悪郎の姿があった。見下すような冷たい視線を向け、ぶつぶつと何かを唱えてから進の胸のあたりに手をかざした。


 やがて悪郎は、かざした手で何かを握りつぶすかのような仕草をした。その途端、静かに眠っていた進はもがき苦しみはじめ、うめき声を上げてのたうち回った。


 進がぴくりとも動かなくなった時、悪郎の姿はそこにはなかった。先程までの騒ぎが嘘だったかのような静寂が部屋を包みこんだ。カーテンの隙間から差し込む月明かりが、動かなくなった進の姿を照らしていた。




 悪郎は暗がりの中をただひたすら真っすぐに進んでいた。進めど進めど何もない暗闇ばかりで、まるで魔界の景観を思い出すようだった。


「辛気臭くて気が滅入るな」


 独り言が心地よく感じるほどの寂寥感漂う暗い世界、道もなく目印もない、やせ細りイメージに乏しい世界、今悪郎がいるここは進の夢の中の世界だった。


 淫魔、または夢魔と呼ばれる仕事を行う悪魔がいる。仕事内容はともかくその悪魔は魔法を使って人の夢の中へ入ることができる。


 しかし夢の世界とは実に不安定なものであり、適正を持ち合わせ専門の訓練を受けなければ、並の悪魔には非常に危険な世界だった。


 人の夢の中に悪魔が取り残された場合、その人の記憶と混ざり合い霧散して消滅するか、悪魔の姿を保つことができず溶けてその人物と同化する危険があった。専門的な知識と素養が必要なのが「夢入り」の魔法である。


 悪郎は悪魔としてのやる気はないが、悪魔としての才能と素質は一級品である。そのため、この危険な魔法も難なく行使することができる。他の悪魔が聞けば嫉妬で狂いかねない才能だが、悪郎からしてみると使えるから使う程度の認識でしかなかった。


 進の夢の中は本当に真っ暗だった。しかし自分の立っている場所だけは分かるという不思議な感覚を覚えさせる世界であった。


「暗く深い悲しみの中にいても、自分の立ち位置だけは見失わないよう心の中で必死に戦っている、この世界はその表れだ。しかし同じ人間同士なのに、これほどまで深く心を傷つけることができるのか…」


 夢の中を進みながら進の心を探る悪郎。傷ついた心に触れて同情の心を抱くと同時に、同じ人間で同じ空間にいるもの同士がこんなにも深く、心と精神を傷つけられる事実に怖気すら覚えていた。


 進む先にようやく何かが見えてきた。暗闇の中にぽつんと浮かぶのは学校の教室で、その真ん中に進がうずくまっているのが見えた。目を閉じ耳を塞ぎ、ぶるぶると体を震わせながら、何かに必死で耐えている進が見えた。


 悪郎はがらがらと音を立てて教室の扉を引いた。音に気が付かない進の肩を悪郎が叩いた。ようやく別の誰かの存在に気がついた進が顔を上げる、その目には涙が浮かんでいた。


「よう進」

「悪郎…どうしてここに…」

「お前と話をするために来た。悪郎としてではなく、呼び出された悪魔としてな」


 悪郎が指をパチンと弾くと、何もなかった教室に机が一つと椅子が二つ出現した。まず進を椅子に座らせ、机を挟んで対面するかたちに悪郎が座った。


「せっかくの教室だ、学生らしくいこうぜ。夢の中で個人面談だ」


 悪郎はくくっと笑い声を上げた。その様子は、悪郎が久しぶりに見せた悪魔らしい姿であった。

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