第9話 再燃

 進が取り戻すべき勉学の範囲は中学1年生の中盤手前から中学2年生の前半までだった。確かに他者より遅れてはいるが、致命的なまでの遅れではなかった。


 悪郎には十分過ぎるほどの知識がある。しかし一つ困りごとがあった。悪郎には知識があっても、それを誰かに教えるということをしたことがないというものだった。


 勉学の面で困ったこともなければテストで間違えたこともない悪郎にとって、勉強という作業は自己完結しすぎていた。誰かに教えを乞うこともなかったし、誰かに自分の知識を授けたこともなかった。


 悪郎はやればやっただけ理解した。難関なテストは確認作業に過ぎなかった。人間界の学問はすべて完璧に修めていたが、それを伝える術を知らなかった。


 悪魔の世界にも交友関係というものはある。ただし悪郎には友達はいない。それがすべてを物語っていた。悪郎は根本的に独立独歩気質だった。


 進が分からないという箇所を「何故分からないのか」という理解に変換することに悪郎は苦労した。進に勉強を教える作業を何度も何度も繰り返し根気よくこなすことで、ようやく人に教えるというスキルが身についてきた。


 そして一度コツを掴んだ悪郎の教えるスキルはめきめきと上達していった。進の疑問には次々と答え、問題の壁を突き崩す方法を伝授する。教師に勝るとも劣らない見事な指導力で進の学力は向上していった。


 ただしそれでもなお進の学力は平均からやや低い程度に収まった。ほぼほぼ無知識に近い所から、ここまでの高さに持ち上げた悪郎の手腕は確かなものではあったが、それでも詰め込めるだけ詰め込んだだけの付け焼き刃であることに変わりはない。


 学んだ知識が身につくかどうかはこれからの進のやる気にかかっていた。当然教え方というのは重要なものだが、そこから先はどこまでいっても本人のやる気次第である。


 自分のやる気のなさで業績が上がらなかったこと、それを身をもって体験している悪郎はそのことをよく理解していた。やる気と意欲がなければ身につかない、どんなことにも通ずるところがある。


 ともかく「やればできる」水準にまで学力を引き上げられたことは大きな成果であった。これでいつ学校に戻っても十分に適応できる準備が整ったからだ。悪郎はついに、進にあの話を切り出すことに決めた。




「進、ここまでよくやった。そろそろ学校に戻る日を決めないか?」


 その一言を切り出された時、進の表情は特に変化がなかった。顔に無感情を貼り付けたようにぽつりと言う。


「…うん。分かった」


 この返事を聞いた悪郎はパッと表情を明るくした。進がその気になってくれたことが嬉しかったからだ。少々の歯切れの悪さは、まだまだ戸惑いや恐れがあるのだと、そう悪郎は受け取った。


「そうか!うんうん、よかった。お前がやる気になってくれて何よりだ。お前の頑張りを俺はずっとそばで見てきた。お前ならきっと大丈夫だ」

「…そうだな、ありがとう悪郎」

「礼を言うのが早いぞ進。俺がそれを聞く時は、お前が立派に登校して小坂拓巳の奴に一泡吹かせてやる時だ」


 興奮気味の悪郎に対して、進の表情や雰囲気には相変わらず変化がなかった。覇気のないままの態度で悪郎のことをただ見ていた。


「じゃあ具体的な日取りを決めるぞ。目標を決めておけば、いつまでにどれくらいの準備しておけばいいか、その計画が立てやすいし心の準備もできる。進、お前が希望する日にちはあるか?」

「そうだな、じゃあ…」


 悪郎と進はカレンダーを机に広げて話し合った。日はいつがいいか、朝は何時に家を出るか、最初は担任教師に報告するのか、それとも直接教室に向かって堂々と席につくのか。


 そんな話し合いを続けている内に進の表情にも少しだけ明るさが戻ってきた。しかしそれは進の心境が変わったというよりも、楽しそうに話しかけてくる悪郎につられて笑みがこぼれたというのが正しかった。


 そうだとしても進の心はいくらか軽くなったし、悪郎はそんな進を見て「お前なら大丈夫」という気持ちを強くした。二人の間にある心境の些細なズレは、この時はまだ小さな小さな火種に過ぎず、いつ消えてもおかしくないものであった。


 話し合いの末、再登校の日にちを決めた二人。いつも通りの習慣を続けつつ、その時に向けての準備を始めた。だがくすぶる火種は、消えずにしぶとく残り続けていた。




 黒坂台中学校くろさかだいちゅうがっこう、本来ならば進が通っていてしかるべきはずの学校。2年1組の教室で窓から外を眺める物憂げな少女、如月紗奈は考え事をしていた。


「佐久間くん、もう学校に来ないのかな…」


 いじめを行ったのは拓巳のグループで、それに加担したのは紗奈以外のほぼすべての生徒。今回の件で紗奈に責任はない、しかしそのきっかけを作ってしまったことに紗奈自身が重い責任を感じていた。


 拓巳は進の一件以降ますます紗奈に入れあげていた。ことあるごとに絡もうと動いていたし、なにかにつけては取り巻き連中を使って紗奈のことを囲み、無理やり会話しようと試みていた。


 そのうち紗奈の周りからは人がいなくなっていた。紗奈に関わることは拓巳に関わることが同義となっていたからだった。拓巳たち以外のクラスメイトから腫れ物扱いを受け、紗奈はすっかりクラスから浮いた存在になってしまっていた。


「みんなの中に溶け込めないのはいい、もう慣れた。でも正直小坂くんは苦手、最近じゃもう鬱陶しく感じる」


 紗奈の容姿だけを見て好意を抱くものは今まで沢山いた。告白されることも多かった上、言い寄られることも日常茶飯事であった。


 その度紗奈ははっきりとした態度ですべて断ってきた。そのことで相手を傷つけることになったとしても、嘘で態度を濁すことの方が不誠実だと思っていたからだった。


 当然のように拓巳からの好意もきっぱりと断った。元々好きでも嫌いでもなかったが、進の一件があってからは嫌いの方へ天秤は傾ききっていた。少々酷かともためらったが「迷惑だ」ということも勇気をだしてはっきりと伝えた。


 それでも拓巳は諦めなかった。それどころか、勝手に紗奈のことを自分の彼女であると言いふらしていることもあった。紗奈本人には相手にされないので、周りからじわじわと事実を捻じ曲げることにしたのだ。


 つきまといに流言飛語、紗奈も拓巳からいじめのような扱いを受けていた。もっとも拓巳からするとこれはいじめではなく、好意を伝えるための手段である。だからこそたちが悪いことに本人は気が付かない。


「佐久間くんに会いたいな、会ってちゃんと謝りたい。謝って許してもらえることじゃないかもしれないけど、もう一度ちゃんと話がしたいよ…」


 紗奈は外の景色を眺めながらそんなことを考えていた。しかし同時に自分に今更何ができるのかという無力感も感じていた。


 いじめがあったことに気がつけなかった。手を打ったところで逆効果になってしまった。進は結局学校での居場所を失ってしまった。多の前に個は無力だと思い知った。


 紗奈は自分のかばんの中にそっと手を入れた。そしてこっそりと隠し持ってきている、特撮ヒーローのフィギュアがついたキーホルダーをぎゅっと握りしめた。紗奈にとって特別な思い出があるお守り代わりであり、進と打ち解けるきっかけになったものだった。


 現実にヒーローは現れない、だけど叶わなくとも願えば心は少し軽くなる。都合のいい考え方かもしれないが、紗奈はヒーローが現れるのを待っていた。




「お前今なんて言った?」


 悪郎は驚愕した顔で進を見た。そんな悪郎のことを進は睨みつけて言った。


「学校には…行かない。行きたくない」


 進は二人で決めた登校の日になってからそれを拒否した。散々話し合って決めたことであり、進からも同意を得ていたと思っていた悪郎は、冷水を浴びせられたように言葉を失った。


 これまでの努力をすべて無に帰す進の宣言、進の登校拒否は悪郎の背に重くのしかかった。自分は一体どこでどう間違えたのか、悪郎の頭の中にはそんな考えが巡るばかりであった。

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