第8話 兆し
悪魔の悪郎と共に日々トレーニングと生活改善に努める進。不登校からの引きこもり生活で増えてたるんだ体重は標準に戻り、適度な運動とバランスのとれた食生活、悪郎の献身的な協力もあって進は引きこもる前よりも健康な体になっていた。
悪郎が苦心して組んだ筋力トレーニングメニューによって引き締まった体にもなり、成長期も相まって身長もぐんっと伸び始めた。進は同学年でも屈指の体つきとなって、すでに小坂拓巳と並んでも見劣りはしない。
体格差のアドバンテージはなくなった。身だしなみもしっかりと整えられるようになり、清潔感のある見た目と健康的な肉体。社会復帰には十分過ぎるほどの成果を上げることができた。
しかしこれはあくまでも外見だけの話である。傷ついた心は簡単に修復することはできない。どんな力をもってしてもこればかりは絶対容易に叶うことではない。
悪郎は進の心の傷のことを理解していなかった訳ではない。理解はしていたが想像が追いついていなかった。人が人に刻み込んだ恐怖という名の傷跡。それがどれほど人の精神を蝕むものなのかを、魔界の住人である悪魔ですら知らなかったのだ。
「進の様子がおかしい」
悪郎は漠然とながらそう感じていた。ただし確固たる変化がある訳ではなく、何かが変だと感じる程度であった。
表面上では進の様子におかしなところはない、ただ何かが変だなと悪郎は思っていた。その懸念が確信に変わったのは、進の母歩美の一言であった。
「進、あなた調子悪いんじゃない?」
「え?」
「ちょっと熱あるか測ってみなさい」
体温計を受け取った進が検温をすると本当に熱があった。進自身も不調を感じていなかったのでまったく気が付かなかった。透明化してそばにいる悪郎と一緒に驚いた。
「どうして分かったの?母さん」
「顔色が悪かったし、何となくね」
進は透明化しているのに悪郎と顔を合わせてしまった。何もない空間を目を丸くして見つめる進を見て、歩美は不思議そうに首を傾げた。
「ちょっと本当に大丈夫?母さん今日は仕事休むから病院行きましょう」
「だ、大丈夫!ただの風邪だよきっと、そんなに調子悪くないし」
「でも万が一のこともあるから…」
「いいって。最近僕急に色々頑張ったでしょ?だから疲れがでたんじゃないかなあ」
「じゃあなおさら…」
「いやいやこんな風邪程度で粉薬とか出されても嫌だしさ、僕粉薬絶対飲めないし」
「錠剤にしてもらえばいいじゃない」
「嫌だ!寝てる!おやすみ!」
歩美との話を無理やり打ち切った進は、久しぶりに自室にこもるかたちで家族から離れた。罪悪感に胸が傷んだ。
自室に戻った進はベッドに潜り込むと、すっぽり布団をかぶって横になってしまった。悪郎はそんな進に声をかける。
「悪かったな進、体調が悪いことに気がつけなかった」
「別に悪郎が謝るようなことじゃあないだろ」
「いいや違う。俺は最近この家の中で一番お前と一緒にいる、それなのにお前に熱があるなんて気が付かなかった。お前の母が言う顔色の変化も俺には分からなかった。すまない、気づかぬ内に俺が無理をさせてしまったかもしれない」
悪郎は頭と心にもやもやとした苛立ちを覚えていた。その感情は「不甲斐なさ」であり、悪魔が契約者に持つ感情としては似つかわしくなく、理屈のつかない感情の乱れには内心悪郎も戸惑っていた。
狼狽えるほど取り乱してはいないが、困惑の色を浮かべる悪郎の表情。それを布団の隙間から覗き見た進は、もう一度布団の中へ潜り込んでからくぐもった声で言った。
「…悪郎のせいじゃないよ。それより今日くらい休んでもいいでしょ?」
「ああ無論構わない、調子が悪い中無理をするとそれこそ悪影響がでる。そんなことより何か俺にできることはあるか?」
「できること…?いいよ、特にないから。悪郎も毎日俺に付き合って大変だろ?ゆっくりすればいいさ」
それきり進は、どれだけ悪郎が声をかけようとも生返事をするばかりで話にならず、しまいにはすうすうと寝息を立てて寝入ってしまった。
進が寝入ってしまったことで悪郎は途方に暮れた。召喚されてから何もかも進を基準に考えて動いてきたので、指針を失うと途端にやることもできることもなくなってしまった。
悪郎は久しぶりに自らの無力さを痛感していた。すっかりやる気のなかった時期を思い出してやはり自分は少しも変わっていないのかと思った。
落ち込んだ悪郎は翼を広げると部屋の窓から外に飛び立った。行く先も決めずあてもなくただ外に出て人間の営みを見てまわった。
悪郎がふらふらと空を飛んでいると、ちょうど進の通う中学校が目に入った。そこへ向かい屋上に降り立ち校庭を眺めていると、偶然進のクラスが体育の授業をしていた。
「そういや実物を見るのは初めてだな」
じっと目を凝らして悪郎が探した人物は、いじめの主犯格である小坂拓巳であった。大まかな人相しか聞いていなかったが、悪郎はすぐに拓巳のことを見つけた。
「なるほど、あれがそうか」
悪郎は拓巳の姿を見て思った。確かに拓巳はクラスメイトの中でも体格がよかった。サッカークラブの練習で鍛えられているのだろう、突出している訳ではないが筋肉質で中々に威圧感がある。
確かに体格で他者を萎縮させるような要素はあった。しかし悪郎がそれ以上に目をつけたのは、拓巳のまとう風格であった。
立ちふるまいが自信に満ちていた。周りの人間を従えているという事実に裏打ちされた自信、それが拓巳を必要以上に大きく見せていた。大勢の中にいても余裕がある、自分は絶対に他者には埋もれないという余裕が拓巳からは感じられた。
子どもの序列とは単純だ、集団の中で無個性に埋もれず、威風堂々としていられる存在はよくも悪くも畏怖の念を集める。精神や価値観がまだまだ未発達な子どもたちの中で、集団で一際目立つ存在は特別視される。
拓巳には自身を肯定するものが沢山あった。その環境も整っていた。だから自我が肥大化し傲慢になった。元々素質もあったのだろうが、思春期に入って溜め込まれていたものがよくない方向へ爆発した。
「小物も小物だが魂に濁りも見られる。堕落させるだけならあいつの方が楽そうだ」
悪郎が抱く拓巳評は一貫して最低のものだった。小さなコミュニティの中で少しだけ他のものより先んじただけの小悪党、絶対にいつか追いつかれるか抜かされるかの時が来て拓巳の前を走るものがでてくる。
あいつは砂上の楼閣で王様面をしている無意味さをいつか手痛いかたちで知ることになる、悪郎にはその確信があった。同時に進が拓巳に負ける要素がないことも確信した。
今の進なら学校に戻しても問題がない、それが分かっただけでも収穫はあったと悪郎は思った。飛び立った悪郎はまっすぐ進の部屋へ帰ろうとしたが、あることを思い立ち行き先を変えて地に降り立った。
悪郎が部屋に戻ると、進は目を覚ましていて教科書とノートを広げて勉学に励んでいた。勉強の遅れを取り戻すために二人で始めた最近の日課であった。
「おかえり悪郎」
「進、寝て無くていいのか?」
「ずっと寝てても飽きる。それに別に体調も悪くないし」
「そ、そうか…」
ならば手に入れたこれも無駄になると悪郎はさっと後ろ手に持ち物を隠した。だが目ざとくそれに気がついた進が悪郎に指摘する。
「今何を隠したんだ?」
「いや、これは…」
「何だよ、見せてくれてもいいじゃん」
不貞腐れる進の目の前に悪郎は隠していたものを置いた。それは桃の缶詰だった。
「えっ?これ、えっ?」
「…風邪をひいた時にはこれが役立つと聞いてな、それでその」
「盗んだの?」
「阿呆!買ったのだ!悪魔を見くびるなよ!」
「ごめんごめん。でも悪郎ってお金とか持ってたんだ」
「人間界へ召喚される際に支給される。俺たち悪魔がこれを使うことは早々ないがな」
使うより使わせる方がよほど堕落させやすい。その事実は進に伝えないことにした。
「必要ないなら返せ、捨てる」
「わー!待て待て!もったいないことするなよ!」
「じゃあ言う事があるだろう?」
「ありがとういただきます」
手を合わせ頭を下げる進に「よろしい」と言って悪郎は缶詰を開けてから手渡した。パチンと指を弾き、魔法でフォークを一つ出す。すると進が言った。
「一本足りないよ」
「何?二本使って食べるのか?」
「違う違う、悪郎の分。一緒に食べようよ」
「はあ?お前のために買ってきたんだぞ」
「じゃあはい、あーん」
「やめろ気色悪い!そんなことされるくらいなら自分で食う!」
悪郎はもう一本フォークを出すと、進と一緒に一つの缶詰の中身をつついた。とろけるような甘さの果肉を頬張ると自然と笑みがこぼれた。
「美味い」
悪郎から思わず漏れ出た感想に進が笑う。二人はどうでもいい言い争いをしながらも一つの缶詰の中身を分け合って食べたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます