第7話 ちぐはぐ
進を含め佐久間家のものが皆寝静まった深夜、こっそりと動き出したのは悪郎だった。真夜中、真っ暗闇をものともせずスイスイと歩き、悪郎は佐久間家の玄関の扉を、なるべく音を立てないようにそっと開けた。
その先にあったのはいつもの外の景色ではなく魔界の景色であった。悪郎は一度、上司に業務報告をするために魔界へと戻ることにした。
常に暗くて淀んだ空模様の魔界、その変わらぬ様子に辟易としながら悪郎は手短に用を済ませるため足早に上司の元へ向かった。
「お久しぶりです」
「おお君か!どうやら人間界へと呼び出されていたようだが、その後調子はどうだね?」
「つつがなく…、と言いたい所ではありますが呼び出したのは14歳の少年です。契約にはこぎつけましたが、大した実入りにはならないかと」
「何と相手は子どもか…、君も運のないことだ。もし望むなら代わってもらえるけど?」
悪魔が堕落させる魂の内、子どもの魂は一番堕落が難しく実益がない。はっきり言ってハズレの部類に入っていた。
子どもの価値観はまだまだ未成熟であり、その歪みも大したことがない場合が多い、ちょっとしたことで悪に転ぶ可能性はあれど、巨悪にまで転じることは早々起こらなかった。精々が小悪党で落ち着いてしまう。
それでも根気よく時間をかければ心を悪に染め上げることはできる。しかしそれは手間もかかる上に、子どもの些細な心変わりで悪魔が跳ね除けられることもある。リスクばかりで旨味がなかった。
だから子どもが召喚者である案件は悪魔の中では嫌われていた。上司が担当の交代を提案したのも、成果を上げられていない悪郎が最悪の相手にあたってしまったことを不憫に思ったからであった。
しかし上司の心配をよそに悪郎はきっぱりと言った。
「いえ、このまま続けて取り組みたいと思います」
「ええ!?本気かい?堕落の見込みはあるの?」
「分かりません」
「…それでもやると?」
「やります。そう決めました」
いつも見せないやる気が込められた目、そして自信にみちた返事、今まで悪郎がそんな態度を取ったことはなく、上司はそれを見て目に涙をためた。
「そうかそうか、ついに君にも悪魔の自覚が芽生えたか。すまないね、こんな日を迎えられる時がくるとは思わなくてつい涙がね」
「あの、長期出張の申請書はどちらに出せばいいのでしょうか?必要であることは知っているのですが、申請したことがないので勝手がわからなくて」
「それなら私が受け付けているよ。じゃあこれ、この用紙に必要事項を書き込んでから渡してくれ。後は契約書のコピーとそれから…」
上司から諸々の説明を受けてから手続きを済ませた。堕落計画書から長期短期目標の設定、滞在理由や契約者の詳しい素性。悪郎はそれら面倒な書類仕事をすべてあっという間に片付けた。
書類への記載内容は即興で決めたでっちあげのものばかりだったが、この手の作業が昔から得意だった悪郎は、それっぽく見えて真面目に取り組んでいることをアピールできる内容を完璧に書き上げた。
悪郎の出した申請書は一つもチェックに引っかかることがなくすべて通った。人間界への長期滞在が許された。これで定期報告の回数と手間をぐっと減らすことができる。
悪郎が何故わざわざここまで面倒なことに骨を折ったかというと、それはひとえに、少しでも長い時間を進と一緒に居られるようにするためだった。進と関わることで起きた自分の変化について知りたいと悪郎は思っていた。
そのためにもっと人間界に滞在する必要があって、進と関わり合いをもつ必要があると悪郎は考えていた。そのために面倒な手続きを済ませたのだった。
「じゃあすみません。しばらく戻らないと思いますが、まあ俺なら居ても居なくても同じでしょう」
「帰ってくる時にはその評価が覆ることを願っているよ」
その言葉に対するコメントは避け、悪郎は別れの挨拶と握手を上司と交わした。何だかんだと文句を言いながらも、悪郎のことを思って叱ってくれた悪魔だった。恩義を感じないはずもない。
「いってらっしゃい。気をつけるんだよ」
悪郎は思わず「えっ?」と声を上げた。上司の言葉と姿が、一瞬進の父親である登の姿と重なって見えたからだ。佐久間家という家族の形を知った悪郎は、上司の中に父性のようなもの感じ取って、それが重なって見えたのだった。
「どうかしたかね?」
「あっと…、いえ、こちらの勘違いです。すみませんでした」
「そうかい?まあ無理はしないようにね」
「ありがとうございます。ではいってきます」
まさか魔界でこんな挨拶を交わすとは思っていなかった悪郎だが、こうして見送られるのも悪い気はしないなと思っていた。魔界を長く離れることについての未練は微塵も感じなかったが、この上司との別れだけはほんの少し名残惜しく思った。
魔界から人間界に戻った悪郎は、進の部屋へは戻らず佐久間家の屋根の上に飛び乗った。空を見上げると夜空には星が輝いていた。魔界の空は淀んでいて汚い、比較すると雲泥の差があった。
夜空を見上げていると、悪魔という立場と魔界の存在を忘れてしまいそうになった。今までも人間界に来て何度か見たことがあるはずなのに、こんな気持ちになるのは初めての経験だった。
悪郎は自分が悪魔として確実に変化していることが分かっていた。それがいい変化なのか悪い変化なのかまでは分からなかったが、進との出会いがきっかけとなったことだけは間違いなかった。
この変化の先に待つものが、果たして自分に何をもたらすのだろうかという不安はあった。それでも今は悩みを振り切り、ただ進のためにできることをやりたいと思っていた。
進の自室に戻った悪郎は、ぐっすりと眠る姿を見てふっと微笑んだ。透明化の魔法をかけて自分の姿を消すと「おやすみ」と進に小さく声をかけて、悪郎は部屋の隅にしゃがみこんで膝を抱えた。
眠り入る進は夢を見ていた。夢の中で進は学校にいて、誰もいない何もない暗い教室に一人で立ち尽くしていた。
どうして自分がそこにいるのかは分からない、ただ足が岩のように固まって動かなかった。移動することもできずただ立ちすくんでいると、くすくす、くすくすとどこからか笑い声が聞こえてきた。
一体どこから聞こえてくるのか、進は唯一動く首でぐるぐると辺りを見渡す。しかし笑い声の主は見つからず、より大きく、より沢山の人の笑い声に増えていく。
最初は控えめであった笑い声は次第に遠慮がなくなり、ついには嘲りを隠すことがなくなり進のことを笑った。耐えられなくなった進は耳を塞いでしゃがみ込む、しかしいくら耳を塞ごうとも笑い声が聞こえてきて止むことはなかった。
「やめろ…、頼むやめてくれ…」
小さく丸まってぶるぶると震える進、漏れ出る願いは誰にも聞き入れられず嘲笑は止まない。襲い来る恐怖に一歩たりとも動くことのできない進は、ただただ一人で泣きながら震えていた。
突然大雨が止んだかのように嘲笑が止まる。何が起こったのかと顔を上げた進の目の前にいたのは、いじめの主犯格である小坂拓巳の姿であった。
何も言葉を発することもなく薄気味悪いニヤケ顔を差し向ける拓巳、しゃがみこんで動けずにいる進を見下していた。その状況に憤慨する進であったが、記憶にある拓巳よりも巨大な姿にぴくりとも動けなかった。
まるで化け物のような見た目へと変貌していく拓巳、それはもう人の姿でも拓巳の姿でもなかった。恐怖に膝と手が震える、喉が張り付くように乾いて冷や汗が滝のように流れ出た。
もうだめだ。そう進が思った時聞き慣れた声が聞こえた。
「おい!おい進!起きろ!」
進が目を覚ますと目の前には悪郎の顔があった。少々怒りの色を浮かべながら悪郎は言う。
「寝坊とはいい度胸だな、最近調子づいてきたから気の緩みがでてきたか?」
「悪郎…」
「ん?進、お前どうした?びっしょりと寝汗なんかかいて、そんなに暑かったか?」
悪郎の顔を見た進は、悪夢から目を覚ましたことをはっきりと自覚した。夢から現実に帰ってきたことに、悪郎の顔を見てからほっと胸をなでおろした。
「いや…、そうじゃあないんだ。でも気持ち悪いからシャワー浴びて汗だけ流してくるよ」
フラフラと立ち上がる進はゆっくりと振り返ると悪郎の顔をしっかりと見据えてから言った。
「ありがとう。悪郎」
何に向けた謝意なのか分からない悪郎は首を傾げる他なかった。しかし悪郎のそんな様子を見た進は弱々しくも笑顔を浮かべて見せた。悪郎の何気ない声掛けに救われた進は、心許せる相手が悪魔だなんておかしな話だと思いながら階段を下りた。
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