第5話 努力
名を持たぬ一般的な中級悪魔は進から悪郎と名付けられた。進にとってそれは意趣返しであり、さほど重要なことではなかったが、悪郎にとっては重要かつ特別なものであった。
ちょっとした仕返しのつもりで名付けをした進だったが、これによって悪郎のやる気に火をつけてしまうことになった。
「いつまで起きているつもりだ、さっさと寝ろ。それとスマホをベッドに持ち込むな、俺が預かる」
「いやでもまだ眠くない…」
「それはよかったな、今すぐ眠くなるぞ」
悪郎は進からスマホを取り上げると、パチンと指を弾いて音を鳴らした。すると進はがーがーと大いびきをかきながら深い眠りに落ちた。
「俺はあらゆる魔法を修めている。ま、本来は健康的な就寝に使われるものではないがな、もっといい使い道があってよかったよ」
これにより進は一切夜ふかしをすることがなくなった。そして朝は、日が昇る頃に起こされる。
「進起きろ朝だ」
「やっぱりまだ朝じゃねえって…」
「俺が優しく起こしてやっている内に起きた方が身のためだぞ」
心の底から震え上がるほど威圧感たっぷりの声に進は飛び起きる。顔を洗って口をゆすぎ身だしなみを整えた。ちゃんとできているかどうかは後ろで悪郎がチェックをしている。
そして進はジャージに着替えた。運動靴を履いて外に出る。悪郎の掛け声に合わせて準備運動を念入りにする。そしてゆっくりと走り始めた。
早朝のランニングはすっかり進のルーティーンとなっていた。悪郎によって無理やり押し付けられた習慣ではあったが、走っている内に悪くないと思う自分がいた。
最初は体が重くて動かすのが辛かった。すぐに息切れを起こし、何度も立ち止まっては大量に流れ落ちる汗が進の足元を濡らした。あまりの苦しさに涙も一緒に流れ出ていた。どうしてこんなことをしているのだろう、その考えが巡って止まらなかった。
しかしどうしてか走りきった後はいつも気分がすっきりとしていた。体は辛くて筋肉は悲鳴を上げている。それでも走り切る距離が伸びていくほど、少しずつ自信がついていった。
そんな進の姿を見守る悪郎も、今まで感じたことのない感情を抱き始めていた。本人はまだそれと気がついていないが、それは紛れもなく「やりがい」という感情だった。
悪魔として生きて、何人かを堕落させたことはあった。魔界の業火の燃料として魂を焚べたこともある。そんな悪魔としては当たり前の行動に一切のやりがいを見いだせなかった悪郎は、少しずつ変わっていく進の姿を見ることで初めてその感情の原型を知った。
まだまだ自覚には至らないが悪郎の表情は明るい。そしてトレーニングに励む進の表情もまた明るかった。まだ誰もいない公園に到着すると、悪郎は進にとび縄を渡した。
「カウントするぞ、はい始め!」
悪郎の掛け声で縄跳びを始める進、トレーナーとスポーツ選手のようなやり取りが早朝の公園で行われていた。十分にメニューをこなした後、軽いウォーキングで調子を整えながら自宅へと帰った。
進が自宅の扉を開くと、玄関で母親の「佐久間
「おかえり。今日はどうだった?」
「ただいま。うん、なんとかやってきたよ」
歩美は進が首にかけているタオルを抜き取ると、乾いていてふわふわのタオルを渡して言った。
「シャワーで汗流してくる?朝ご飯も用意できるけど」
「あー、顔だけ洗ってくる。お腹へったからご飯食べたいな」
「分かった。量は?」
「大盛り!」
「はいはい」
進の返事に歩美は嬉しそうに笑って台所へと向かった。透明化してその様子を見ていた悪郎も嬉しさに安堵の吐息をついた。
悪郎が手始めに進へ要求したことは三つあった。一つ目は早寝早起きの徹底による生活リズムの改善。
これは比較的簡単にできた。進が眠らなければ強制的に眠らせることができるし、起きなければどんな酷い目にあうか分からないという考えを植え付けた。まだまだ寝起きに文句こそでるが、起きた後の進の行動は素早かった。
二つ目はトレーニングを続けること。痩せる痩せないの問題より前に、引きこもり生活でまったく足りていない運動量の水準を引き上げる必要があった。それに習慣付けて継続することは生活リズム改善にも繋がる。
毎日の運動を続けることは、言うは易く行うは難しである。実際進は何度も音を上げそうになった。それでも悪郎は進を励ましてはトレーニングを続けさせ、あれこれと試行錯誤してメニューを見直しては改善を図った。
二人三脚で困難に挑み、ようやく習慣化させることができた。進の体は着実に引き締まってきていて、なおかつ健康的な肌つやを取り戻していた。努力を続けられた進がすごいのは勿論のことだが、あらゆる知識を洗い直して進にとって一番いい方法を見つけた悪郎の手腕が成功の要因であった。
そして三つ目は、進と家族との関係改善であった。
佐久間家は進を含めての四人家族だ、会社勤めの父「佐久間
父親の登は、いじめられて不登校になり、心身共にボロボロとなった息子に対してどう接していいのかが分からず悩んだ。進が心を閉ざしてしまったことも相まって登の苦悩は続いた。
母親の歩美も登と同様の感情を抱いていたが、こちらは過剰なまでに寄り添いすぎてしまい、進の生活環境悪化を増長させてしまった。それでも家族の中で懸命に寄り添い続けたのは歩美であった。
姉の奏は弟のことを不憫に思ってはいたが、何か行動を起こすということは難しかった。自分の学業のこともあるし、部活動やアルバイトで忙しくしていた。それに進路についても悩む時期でもあり、奏もまた思春期真っ只中であった。弟のことにばかりかまけていられない。
結果として佐久間家の家族間の空気は最悪なものとなっていた。大きな問題こそ起きなかったが、小さなきっかけであっという間に瓦解していてもおかしくない、そんな状態が続いていた。
悪郎は進に味方が必要だと考えていた。どんなことがあっても心強い味方でいてくれる存在がいて、どんなに傷ついたとしても安心して帰ってこられる場所があれば、進の心の安定に繋がると考えていた。
そのためにはまず進の方から家族に心を開く必要があった。下手の考え休みに似たり、一人部屋の中で寂しく思い悩むよりも、誰かに少しでも胸中を明かすことができた方が心も軽くなる。それに知恵を合わせれば思いがけない解決法が見つかることもある。
ある日悪郎は進の体を操って無理やり部屋から出させた。扉の近くに置いてあった食事の乗ったお盆を持ち上げ、家族が黙々と食事をしている食卓へと運ばせた。
唐突に部屋から出てきた進の姿を見て、家族全員口をぽかんと開けて驚いたが、悪郎は構うことなく進を空いている椅子に座らせた。そして歩美が用意してくれた食事を前にし、手を合わせてすうと息を吸い込むと大きな声で言った。
「いただきますっ!!」
悪郎が進の体を操っていたのはここまでで、後は行動は進に委ねられた。いきなり悪郎から梯子を外された進は、こうなればやけだと目の前のご飯をかっ食らった。そうしてガツガツと食べ進めている内に、進の目からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。
そんな進の姿を見た登は、思わず茶碗を置いて進に駆け寄りぎゅっと体を抱きしめた。歩美も登とは反対側から進のことを抱きしめて、泣きながら優しく頭を撫でた。
奏は抱きつきはしなかったが、いつの間にか進の手を握りしめていた。言葉なんて必要がない家族からの無償の愛を感じ、進は溜め込んでいた負の感情を一気にぶちまけることができた。それが家族の絆をより強固なものした瞬間だった。
それから進は毎日の食事を家族皆で取るようになり、少しずつ会話も増えていった。きちんと挨拶を交わしてコミュニケーションを取り合うことで、家族間に流れていた不穏な空気はいつしか消え去っていた。
これによりどんな失敗があっても進には帰る場所と心強い味方ができた。進が見せてくれる目覚ましい成長ぶりに、悪郎は目を細めて喜ぶのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます