第5話 死なない死ねない
浦島太郎の話だけではなく、このように、
「自分の知っている人が誰もいない世界で生きていくことが果たしてできるだろうか?」
という発想がテーマとなっている小説や物語は、意外と多かったりする。
考えてみれば、日本のおとぎ話であったり、昔からあるお話の中に、
「不老不死を目指す」
という話は出てこないではないか。
普通であれば、
「不老不死」
というものは、生物にとっても、
「永遠のテーマであり、それが実現できないだろうか?」
と考えたとしても不思議はない気がする。
例えば、中国の小説として、有名なものに、
「西遊記」
というものがある。
これは、大まかな話として、
「一人の僧侶が、中国王朝である唐の国が、国が乱れて、国民が苦しんでいるので、それを助けるために、お釈迦様に言われ、天竺まで旅をする」
という話である。
その僧侶の名前を三蔵法師というのだが、
「その時に、猪八戒、沙悟浄、孫悟空という三人の弟子を引き連れて旅に出るのだが、その途中に潜んでいる、妖怪たちに襲われるのを、弟子たちの力を借りて、危機を乗り越えながら、旅を続ける」
という話であった。
途中に潜む妖怪たちには、
「言い伝え」
というものがあって、その内容というのが、
「高貴な僧侶の肉を食らうと、不老不死の力を得ることができる」
ということで、妖怪たちは、こぞって、やってきた三蔵法師の肉を食らおうとして、襲い掛かってくるのだが、皆、
「自分だけが、不老不死の恩恵にあやかろう」
ということを考えて、他の人のことを押しのけてでも、
「三蔵法師の肉を食らおう」
と考えるのだ。
中には、
「お互いに共倒れのようになってしまったりするというオチが多い」
ということなのだが、そもそも、
「どうして、不老不死がそんなにいいことなのか?」
ということに疑問を感じないのだろうか?
妖怪というものは、その時は協力したとしても、それはあくまでも、
「利害関係」
によるものであって、一度敵対し、仲直りという発想にならなければ、
「情というものは浮かび上がってくる」
ということはなく。
「自分さえよければ」
という発想だけが残ってしまい、
「しょせんは、妖怪変化でしかない」
ということになってしまうのだろう。
それを考えると、
「妖怪というものの知能の低さ」
を知ることで、
「どれだけ人間が偉いのか?」
ということがいいたいお話なのかも知れない。
つまり、
「不老不死を望むのは人間ではなく、妖怪にしかいない」
ということになるのであろう。
ただ、妖怪というものが、
「人間以外の動物の化身」
ということであれば、
「人間が高等動物だ」
という、差別的な発想があったとしても。それは無理もないことなのかも知れない。
といえるだろう。
それだけ、人間が、
「集団で生活しないと生きていけないのか?」
ということになるのだろうが、これは、
「逆も真なり」
ということで、
「集団で行動するということを意識しながら生きているということは、それだけ、本能としては、弱い」
ということであるのだ。
だから、人間は、知能が発達している。していないとまともに生きてもいけないということであり、
「野生では生きていけない」
ということの証明でもある。
本能が欠如していることで、そのかわり備わっているのが、
「モラル」
であったり、
「倫理、道徳」
というものなのだろう。
他の動物は、そんなことを意識しなくとも、
「本能のままに生きる」
ということが、生まれながらに備わっていて、
「自分の天敵が何であって。何に対しては気を付けなければいけないかということも、誰に教えられることもなく分かっている」
ということになるのだ。
世の中で、
「学習する」
というのは、誰かに教えてもらうものではなく、自分で習得するものを、学習するということになるのであって、
「一から十まで教える」
というのは、人間だけの特性ではないだろうか。
「教えないといけない」
あるいは、
「教えないと、親の責任」
というだけ、人間には、
「自己学習能力の欠如」
というのが甚だしいということになるのだろう。
しかも、
「自分の能力が他の動物よりも劣っている」
という意識が、人間にはない。
「動物の中で、人間が一番偉い」
という発想があるから、そのうちに、
「人間の中で、差別が生まれてくるのだ」
ということではないだろうか?
「人間が、動物の中で一番偉い」
という感覚を、まるで、それこそが、
「人間の本能」
のようなものだと思っていれば、今度は、その中で、自分が一番という、
「自己顕示欲」
というものが生まれてくるのだ。
それは。
「人間の本能」
ではなく、
「人間の本性」
ということになるのであろう。
不老不死というものを、追及する人たちには、どうしても、
「病気というもに対しての意識というものがある」
という考え方もある。
今の時代であれば、
「今の医学では、特効薬やワクチンなどは、開発されていない」
ということで、
「病気を治すために、冷凍保存することで、開発された時に目を覚ます」
というようなことが行われている。
という話を小説に書いたり、ドラマ化したりしているのがあるが、それは、実際には、どこまでが許されるのであろうか?
確かに、
「命を奪う」
というわけでもなく、逆に
「今では助けることのできない命を、未来に向けて、命をゆだねる」
ということをしようというわけである。
その行為が、
「人間の尊厳」
としての意識からであれば、推奨されるべきなのか、判断が難しいところであるが、
「将来命が助かる可能性があるのであれば、冷凍保存には、賛成だ」
という医者が多いのか少ないのか、興味があるところであった。
今の時代には、特に日本では、
「安楽死」
というものは、基本的には認められていない。
だから、
「本人の意思を伝える書類の存在」
と、病状として、
「普通に目覚める可能性がほとんどない」
と言われる時くらいしか、
「尊厳死」
というのは認められていない。
もっと言えば、
「生きている」
としても、
「目が覚める可能性は限りなく低い」
と言われる中で、高額なお金を使って、生命維持装置を利用することになるわけで、それこそ、借金をしたり、身体を売ったりして、金を稼がなければいけないわけだ。
もし、
「お金がない」
といっても、
「医療倫理に反する」
ということで、何があっても、払わないといけない。
「健康保険で賄える場合はいいが、できない場合は、生活保護などになる」
ということで、家族に対する負担は、かなりのものとなる。
いくら、
「患者が生きているから」
という理由で、その負担を家族に強いるというのは、それこそ、倫理的にいいのだろうか?
そんなことを考えると、
「それこそ、理不尽ではないか?」
と思える。
「医者の自分たちの満足感というか、そういう勝手な倫理を押し付けられて、金を払わされる家族がどのような心境なのか」
ということを分かれということだ。
「政府は、外国に金をばらまいたり、属国のようになって。武器を買ったりする金があれば、全国の難病や、生命維持装置に罹っている人を全額負担するくらいのことがあってもいいのではないか?」
というのは、無理な話だろうか。
国民の血税を、まるで自分たちのもののように、自分たちの都合で使われて、
「民主主義が聞いてあきれる」
といってもいいだろう。
「不老不死」
というものは、その言葉だけを聞けば、
「誰もが憧れるもの」
という感覚があるが、もし、実際になった場合のことを想像したことがあるだろうか?
確かに子供の頃であれば、憧れのように感じるかも知れない。
しかし、
「子供の頃には、死ぬということを、目の前に見えているわけではないので、ピンとくるということはないだろう」
といえる。
不老不死というものを、もし意識するとすれば、中年以降ではないだろうか?
それくらいの年になると、
「人生の折り返し」
と言えばいいのか、たぶん、
「社会人になってからの人生の折り返し」
という感覚になるのではないだろうか。
もっといえば、社会人になってからの折り返しというと、見えている人生というのは、「定年になる前」
といってもいいだろう。
しかし、今の時代は、これもひどいもので、
「少子高齢化」
という問題が目の前に迫ってきているのに、政府は、これもまた、とんでもない状態にしようとしている。
そもそもの問題は、十数年前に起こった、
「消えた年金問題」
というものが、そのひどさを象徴しているのではないだろうか?
いや、
「国民が、税金として納めてきたものを、年金として使っている部分を、どれほど大切なものか?」
という認識を持っていなかったということだろう。
分かっていれば、そんなひどいことはしないはずで、そもそも、何をしたのかというと、
「キチンと管理していなかった」
という、ただの怠慢管理が、結局、
「誰がいくらの年金なのか?」
ということを分からなくさせてしまったということであろう。
一言でいえば、
「ずさんな管理」
という、
「人災」
だったのだ。
それが明るみに出ると。さすがに、それまでの政府与党も、それまでのように、いろいろな問題を浮かび上がらせていたのだが、それでも、今までは、
「とってかわるだけの野党」
というものがなかっただけに、
「政権交代」
というものはなかった。
しかし、
「さすがに年金を消す」
というのは、国民全員にかかわってくるという、ありえないこととして、
「国民の審判」
が下り、
「やっと」
というべきか、政権交代が実現した。
しかし、政府となった野党の政治は、
「口だけ」
だったのだ。
選挙の時は、恰好のいいことを言っていたが、実際にやってみるとひどいもので、数年で、
「これなら、前の与党の方がよかった」
という人も多かった。
それに追い打ちをかけるように、地震が発生し、その対応が、
「ひどい」
という言葉をひっくり返すくらいのひどさだった。
それを思うと、政府は、
「どのように対応すればいいのか?」
という危機管理がまったくできておらず、
「こんなひどい政府だとは思ってもみなかった」
ということである。
「大政奉還」
の時は、うまくいかなかったが、今回は、
「とってかわった政府」
が本当にポンコツだったことで、たった
「一期」
というくらいの短さで、また、以前の与党に戻ったのだ。
前の与党に戻ったことで、
「お灸を据えた」
といえるならいいのだが、
「さすがに年金を消す」
というひどさまではなかったが、昔の
「利権にまみれた政府」
というのは相変わらずで、それでも国民は、
「野党にやらせると、もっとひどい」
ということを思い知ったことで、
「政権交代の恐ろしさ」
というものを知ったのだろう。
「やはり、政治をやったことのない野党は、ただ、吠えるだけの弱い犬のようなものではないか」
ということを、国民は思い知ったのだ。
「明治維新の時は、徳川幕府は、倒幕運動を察知して、倒幕が起こらないように、大義名分をなくすという目的で、大政奉還を行った」
というではないか。
「大政奉還というのは、幕府が政権を朝廷に返すということで、それにより、倒幕の大義名分が失われる」
ということと、
「どうせ、政治をやったことのない、朝廷に、政治ができるはずがない」
という思惑があり、
「すぐに幕府に泣きついてくる」
と思っていたのだろう。
しかし、実際には、徳川政権は、倒れてしまい、問題は山積みではあったが、何とか、時代を乗り越えて、明治政府が成立した。
数十年かかって、近代国家の礎を作ることで、念願であった、
「不平等条約の改正」
というものを行うことができたというものであった。
明治では、
「とってかわった」
という明治政府が、何とか時代を作って、幕府の時代を終わらせたのだが。今回の政権交代は、あの時の徳川幕府の思惑を、
「約150年越し」
に、達成したといってもいいだろう。
案の定、政治をやったことがない野党は、いろいろと試みてはいたが、そのどれもが中途半端に終わり。
「野党は野党でしかない」
ということを証明してしまったのだ。
ただし、
「与党政府がいい」
というわけでは決してない。
ただ、昔に逆戻りしたというだけで、
「それにしても、年金を消したという、あってはならないことをした政府」
というとんでもなく最低と思われた政府よりも、さらにひどいところがあったということで、
「ここまでひどいところがあるなんて」
ということで、今の政府の恐ろしさというものが、浮き彫りになってくるのであった。
そして、戻ってきた政府だが、
「どんどんひどくなっていく」
政府を私物化するソーリばかりが出てくるのだから、それも当たり前だろう。
政権が戻ってから、
「利権にまみれ、疑惑だらけのソーリ」
これは、何度も、
「都合が悪くなると、病院に逃げ出す」
という男で、なんと、
「通算任期が第一位」
というのだから、本当に情けない。
そして次のソーリは、
「理由ははっきりとしないが、パンデミックの最中。国民の8割以上が反対だといっているオリンピック開催を強行した」
という、民主主義の根底を覆したソーリ。
さらに、次は、
「海外に、金をばらまき。自分の名前を世界に残したい」
というだけのことで、血税を、国民に使わずに、世界各国にばらまくという、
「史上最低のソーリ」
だったのだ。
「こんな世の中に誰がした」
といってもいいくらいで、そんな世の中を誰が想像したことだろう。
「すでに、亡国は始まっている」
ということになるのだろうか?
日本という国が、どんどん史上最低を更新していくうちに、十数年前に起こった、
「消えた年金問題」
がいまさらのように出てきたのだ。
政府は、こともあろうに、
「税金を使う」
ということの無駄なことだということで、
「年金」
という問題を挙げてきた。
「政府の赤字」
を理由に、
「年金「
というものを無駄だという扱いで考えているようだ。
年金というのは、そもそも、サラリーマンであれば、
「給与天引き」
ということで、
「厚生年金」
として、
「積み立てている」
というものではないか。
それが、
「無駄とはどういうことなのか?」
何も、厚生年金というのは、
「政府の金」
ではない、
政府が、定年後の国民の生活をすべて、賄ってくれるわけではないので、サラリーマンが、働ける間に、積立てておくという制度ではないか。
それを政府は、どう考えているのか。
年金を消したということは、
「銀行に入れておいた定期預金を、どれがどれか分からない」
ということにしたのと同じである。
年金を払っているのは、年金手帳があるから当たり前に分かっていることで、自分たちが積立ててきた金を、政府が、ずさんな管理をしたということで、許されることではない。
なぜかというと、
「その仕事をしている連中の給料は、我々の税金から出ている」
ということだからだ。
「我々の税金」
つまりは、やつらは、公務員である。
公務員というのは、本来であれば、その職務の重大さというのは、一般企業のサラリーマンよりも重たいわけである。
なぜなら、一般企業のサラリーマンの及ぶ、義務と権利は、その会社にだけに当てはまる。
しかし、公務員というのは、確かに管轄はあるだろうが、基本的には、国民全員の血税で賄われているわけで、少なくとも、公務員は、その思いをもって、職務に当たらなければならないということではないだろうか。
それを考えると、
「国民をいかに扱うか」
ということは、
「キチンとした職務ができて、初めていえる」
ということであろう。
「国家というのがどうあるべきか?」
というのを、
「政府だけではなく、国民ももっと知って、政治参加をすべきではないか?」
と考えるのは、いけないことなのだろうか?
そんなことを考えていると、
「生活をするということが、いかに難しい世の中なのか?」
ということである。
少なくとも、今の政府には、そんな力があるとは思えない。
それどころか。
「利権にまみれるか」
「国民の意見を無視して、民主主義の根底を揺るがす政治をするか」
「日本人が苦しんでいるのに、自分が外国に名を売りたいというだけで、海外に血税をばらまくか」
という形で、
「国家主席が、どんどんひどくなっている」
といってもいいだろう。
海の向こうの隣国など、
「大統領になれば、最後の末路は、ほとんど全員が、悲惨なことになっている」
というところもある。
任期中に、暗殺されたり、リコールを受けたり、任期が入寮しても、逮捕され、終身刑の判決を受けるが、恩赦で出てくる人もいたりするというようなことばかりが起こっている国である。
「日本なら、少なくとも、今の三人は、逮捕か暗殺があってもいいだろう」
といえるかも知れない。
と思っていたら、
「確か。誰か暗殺されたよな」
ということは、近い過去にあったような気がする・
ということである。
当時は、大問題であったが、今ではすっかり忘れられているのではないか。
まだ、
「一年くらいしか経っていないのに」
である。
一周年の時、
「ああ、もうあれから一年も経ったんだ」
と思っている人が多いことだろう。
それだけ、皆、
「すでに忘れてしまっている」
ということで、そもそも、あの時に一緒に問題になり、あれだけ騒がれた、
「悪徳宗教団体」
の話はどうなったのだ?
毎日のように、マスゴミで言われ、大問題だといっていたではないか、
それを思うと、
「政府というのは、しょせん、国民のことなど考えていない」
といってもいいのだろう。
「あの宗教団体を糾弾するということは、それまで、甘い汁を吸っていた政治家たちをあぶりだすことになる」
ということで、調査をしなければいけない連中が、甘い汁と吸っているので、どうせ、
「ほとぼりが冷めるのを待っているしかない」
ということであったに違いない。
連中にとって、
「それがどういうことなのか?」
ということが分かっているのだろうか。
保身にしか走ることを知らない彼らは、選挙の時に、その審判が下るといってもいいのだろうか。
中には、
「もう終わりだ」
という人もいるだろうが、大多数は、
「ほとぼりが冷めて、また国会議員として、できる」
ということになるだろう。
それを考えると、
「本当に、政治家も、政府も、いい加減なものだ」
と国民はため息をつくしかないのだろうか?
国会議員や政府のいい加減さが、以前には、
「消えた年金問題」
という大問題を引き起こしておきながら、それが原因で、
「政権交代」
というものを起こしたということになるのだろうが、結果として、
「すぐに復権できた」
ということで、
「他の野党では、政治を賄えない」
ということを証明することになり、
「野党は、今の政府与党よりも、もっと最悪」
というレッテルが貼られたことで、
「却って、悪い方に行ってしまっている」
ということになるのだ。
そんなことを考えていると、
「今の世の中、何が正しいのか分からない」
という、
「迷走国家」
ということになるのだろう。
ただ、これは今に始まったことではなく、ただ、今は国家元首が、ろくでもないやつで、しかも、どんどんひどくなっているという、まるで、
「蟻地獄」
のような状態になってしまったといってもいいだろう。
そんな政府が、
「今の政治の、凝り固まった悪いところを排除できるだけの力があるわけではない」
といえるだろう。
「俺たちの利権さえ守られればいいんだ」
ということで、
「保守」
というものは、自分の保守ということになれば、それでいい。
というような政府が、
「今の政府だ」
ということになるのだろう。
国家というものが、いかにいい加減なものかを考えると、
「こんな国、長生きするのも、きつい」
といえる。
「なぜ我々国民が、政府がばらまく金を税金という形で補填してやらなければいけないんだ?」
ということである。
「他にばらまく金があるなら、今の国家の借金をどうにかしろ」
と、どうして誰も言わないのか?
「不思議で仕方がない」
ということになるのである。
「タイムリープ」
と
「タイムループ」
について考えてみた。
「そもそも。タイムリープというのは、
「別の時代の自分に、憑依する」
という感覚になるので、タイムループとは、違うものなのだるか?
というのも、
「タイムループ」
をするということは、
「一度その時代に行って、やってみるが、うまくいかなかったか何かで、またやり直してみる」
というのが、
「タイムループ」
という考えではないだろうか。
つまり、
「タイムループというのが、スリップなのか、リープなのかということを考えた時、実際に起こりえる状況を考えられる」
というものではないだろうか?
タイムパラドックスというものが絡む場合に、
「ありえないことの実現」
というものが、
「果たして、矛盾を生み出すのかどうか?」
ということが、
「タイムパラソックスの考えではないか?」
ということになるのだった。
「タイムパラドックス」
というものは、一種の矛盾である。
「自分がタイムマシンで過去に行く、自分が生まれるということを阻止した場合。自分が生まれてこなくなる。生まれてこないと、タイムマシンに乗ることもなく、過去を変えることにはならない。ということは、自分が生まれてくることになる」
というのが、いわゆる、
「タイムトラベルにおける、タイムパラドックス」
というものである。
「時空のねじれ」
ともいえるものとして、タイムマシンというものの、開発において、よく言われることとして、
「メビウスの輪」
というものがある。
それが、いかにタイムパラドックスというものを描いているかということになるのであろう。
「タイムトラベル」
ということを考える時、
「不老不死」
というものを考えた人がいると、タイムマシンをどのようにして活用するだろう。
というのも、
「タイムマシンで、未来に行って。開発されているであろう、不老不死の薬と持ち帰ることにしよう」
と考えた人がいるとするだろう。
その時、
「果たして、未来において不老不死の薬というものが開発されているだろうか?」
という考えである。
理由はいくつかあるが、まず最初に考えられることとして、
「不老不死の薬など作ったら、薬が売れなあくなる」
ということである。
人というのは、
「年齢を重ねると、老化していき、寿命に近づくと、いろいろと身体にガタが来る」
というものである。
確かに気の毒ではあるが、
「それが、人間の寿命というもの」
ということで、
「形あるものは、必ず滅びる」
ということになるだろう。
ということは、
「その時に、皆が薬を使うので、その薬を生産することで、薬屋が儲かるということになるのだが、それは、別に、
「非情なこと」
でもなんでもない。
「自然の摂理」
というものの中で、避けて通れないところであろう。
まだ、弱肉強食ということで、
「他の動物に食べられる」
ということでないから、いいことではないだろうか。
それを考えると、
「寿命で死ぬのは、当たり前のことで、大往生が、人生の本懐といえるのではないだろうか」
ということである。
「種族が絶滅する」
ということと、
「一人の生物が死ぬ」
ということにおいて、
「一つの命の重さ」
というものに違いがあるのだろうか?
これが、
「自然の摂理」
ということであれば、死を迎えるのは仕方がないことになるのだろうが、その死というものが、本懐とは違うもので、たとえば、
「人間に捕まって、標本にされてしまう」
であったり、
「人間が、私利私欲のために、戦争を引き起こして、敵国の人間を多数殺してしまったり」
ということも考えられるが、
たとえば、
「核兵器」
のような、
「大量殺りく兵器」
というものを使えば、そこで死ぬのは、人間だけでなく、動物、植物、すべての生き物に言えることである。
「人間という生物のエゴで、有無も言わさずに、殺される」
その国にしか生存していない種族であれば、
「種族の絶滅」
ということになるのだ。
人間が核兵器を使うことは、
「人類を絶滅させる兵器」
ということであるが、では、巻き込まれて死んでいってしまった動物たちは、誰も供養も何もしないということなのか?
考えるとすれば、
「食糧としての生物」
がいなくなり、
「食糧不足になる」
ということで、あくまでも、
「人間中心の考え方」
ということにしかならないのである。
不老不死というものを考えた時、
「人間というのは、正直、未来に対してのことを考えるのは、政治家などの偉い人が考えることで、自分たちは、自分たちの時代を必死に生きている」
ということである。
だから、
「未来がどうなろうが、ほとんど気にしていない」
ということになるだろう。
だが、
「今のままいけば、自然破壊などが深刻になり、近い将来、人間が住めなくなってしまう」
と言われていることは分かっているだろう。
しかし、実際に今、
「世の中を動かしている」
という世代は、
「少なくとも、あと40年くらい安全であれば、どうせ俺たちは死んでしまうんだ」
ということで、いくら、世界が、
「地球温暖化問題だ」
あるいは、
「sdgsだ」
いわゆる、
「持続可能な開発目標」
というものを掲げても、
「どうせ生きちゃいないさ」
ということになるわけだ。
だが、これが、
「不老不死」
ということになればどうであろう。
「この世が今のまま、永遠に続く」
ということであれば、別に、問題はないはずだ。
しかし、
「今のままだと、数十年後には、平均気温が5度上昇する」
などと言われると、彩桜気温が、40度超え」
などということは当たり前ということになるであろう。
それを考えると、
「不老不死」
ということになると、嫌でもその時代を超えなければならず、苦しむのが分かっていると考えると、
「そんなものはいらない」
と思えるのであった。
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