第3話 タイムリープ
SF小説などでよく聞くこととして、
「タイムトラベル」
というものがある。
一般的には、
「タイムマシンに乗って、過去や未来に行く」
というものであるが、中には、タイムマシンというものを使わなくても、
「ワームホール」
というものが存在し、そこに入ることで、タイムトラベルができるという、一種の、
「タイムトンネル」
のようなものだった。
タイムトラベルというと、
「何かのアイテム、ワームホールやタイムマシンのようなものを使った、自分が、そのまま他の時代に飛び出す」
というものであった。
これには、
「タイムパラドックス」
というものが存在し、
「同じ人間が、同じ時代に存在している」
ということになり、
「歴史を変えてしまう」
という問題を引き起こすことになるのだ。
しかし。これはあくまでも、
「過去に行った場合」
ということであり、未来の歴史が変わったとしても、最初に未来に着いた時点では変わりはないのだから、今の自分に影響するということはない。
だから、
「タイムトラベルで問題になるのは、過去に行くという場合のことである」
それが、一種の、
「タイムパラドックス」
というものの、一つの例
ということになるだろう。
その、
「解決法」
というか、説明するための、理屈として考えられるものに、
「タイムリープ」
という考えがある。
これはたぶん、SF小説などの発想から出てきたものではないかと思うのだが、これは、
「自分が何かのアイテムを使って、過去や未来に行く」
というものではなく。
「自分の魂が、肉体から離れ、タイムスリップを起こすことで、その時代にいる自分に憑依する」
というものである。
ということは、
「その時代に、自分が存在しないといけない」
という理屈になるので、
「生まれる前」
ということはありえない。
タイムパラドックスでよくいわれる、
「自分が生まれるのを邪魔すれば、自分が生まれてこない。生まれてこなければ、タイムマシンで過去に行くこともなく、歴史が変わらない。ということになると、自分が生まれてくるので、タイムマシンで過去に向かう……」
ということになり、
「歴史が変わってしまう」
ということになるのだ。
ということを考えると、
「タイムリープというものは、過去にしかいけない」
ということを自動的に証明していることになるわけである。
そんな、
「タイムリープ」
という考え方であるが、
「過去には行けるが、未来には、本当にいけないのだろうか?」
と考える。
ただ、一つ言えることは、タイムリプを行うという意味とすれば、
「この時代の、この時からやり直したい」
という思いが最初に来るだろう。
ずるい人からすれば、
「競馬や競輪などのギャンブルで、結果が分かっていることであれば、過去に戻って、その結果通りに馬券を買えば、必ず儲かる」
というわけである。
万馬券であれば、下手をすれば、10万円買ったとすれば、数千万円である。
もちろん、
「何か怪しい」
と思うかも知れないが、中身は別にして、外見は同じ人なのだ。
中身だって、まったく違う人ではなく、
「未来の自分」
なのだから、自分であることに変わりはない。ただ、
「未来が過去になっている」
というだけのことである。
時系列というのは面白い。自分たちは現在という軸を中心に、まるで、モグラが地底を掘って進むかのように、
「未来が現在になり、現在が過去になる」
というわけで、現在という一瞬しかないものを、綱渡りのように、進んでいるだけなのではないだろうか。
そう考えると、タイムリープも、タイムスリップも、今の時系列というのを、
「偶然としては、あまりにも都合よくできている」
と言えるだろう。
一人だけに辻褄が合うようにできているわけではない。
「生きている人間すべてに:
いや、
「生きている生命体すべてに、
「都合よくできている」
ということだ。
都合のいいというのはあくまでも、公共としての都合という意味で、
「全人類」
あるいは、
「全生物」
が幸せになるということを、
「都合がいい」
といっているわけではない。
秩序というのは、公共として辻褄が合っているという。つまりは、
「時間の進行を妨げることがない」
という意味のことである。
それでも、実にすごいことである。実際に、一つでも辻褄の合わないことがあれば、時系列は存在しなくなり、すべてが、狂ってしまう。そうなると、
「タイムパラドックス」
というものが、無限に起こってしまうということになってしまい、結果、すべてが、
「うまくいかない」
ということになるのであろう。
そんなことを考えると、
「タイムパラドックスが、ビッグバンを引き起こす」
ということになるが、それこそ、
「宇宙は一つではない」
という。
「マルチバース理論」
というものに、つながっていくことになるのではないだろうか?
最初、忘れかけていたマルチバースが、こうやって、戻ってくるというのも、
「宇宙の辻褄が合っている」
ということの証明なのかも知れない。
「たくさんある宇宙」
というものの間は、
「何があるのか?」
という疑問であった。
明るい宇宙というものが広がっているというわけではないが、そういえば、今の宇宙の発想として、それが、学術的な発想からなのか、それとも、アニメやSF小説からの発想なのか分からないが、
「宇宙に、裏という発想がある」
というものであった。
表宇宙の裏というのは、こちらの宇宙と違って、明るい世界が広がった宇宙というものだった。
ただ、そこに繋がっている宇宙へのトンネルのようなものがあるのだが、それが、どれだけの長さなのか分からない。
しかし、そこを通りぬけると、まるで昼間の明るさがあるというのだ。
だが、その広さというのは、どうなのだろう?
そもそも、明るさというのは、
「空気が存在しているから明るい」
ということなのではないだろうか?
普通、宇宙空間というのは、空気がないので、生物が存在しないということであろう。しかし、裏宇宙というところは、人間が存在している地球のように明るくて、空気があると信じられている。
ただ、これは、あくまでも、
「人間の発想」
というものである。
そもそも、裏宇宙の存在など、証明されているわけでもなく、小説やマンガで、
「そんな世界の創造が、物語を面白くしている」
ということなのかも知れない。
そう思うと、子供の頃に見た。
「裏宇宙というものを描いた作品」
というものの内容を少し思いだしてきた。
「そのお話は、確か、裏宇宙というものが、生きている」
という発想ではなかったか、
「裏宇宙には、意識のようなものがあり、その意識によって、裏宇宙に来た人間の特性や発想が、その宇宙には反映されるのであって。その人間の思い描いたものを、視覚的な発想として描かせる」
という星であった。
もっといえば、
「裏宇宙だと思っているのは、トンネルとくぐるところからのウソであり、その発想が最初から、虚空の存在であったとすれば、そこは、無限の宇宙の中でも、唯一の有限ではないだろうか?」
ということであった。
無限の宇宙というものの創造が、却って有限を生み出そうとするのは、
「その無限というものは、果てしないということではなく、その奥の果てに、たどり着いた時、また戻ることで、そのまま続いていることを、無限の続きであるということを感じ続けている」
といってもいいのかも知れない。
だから、裏宇宙へのトンネルというのも、本当は、
「有限のトンネル」
というものが、行きついた先を意識しないことで、永遠に続いているという錯覚に行きつくのであった。
だから、
「無限を信じるということは、実は、有限であるということを信じているのに、信じたくないという意識が見せる、大いなる錯覚なのかも知れない」
ということであった。
「有限というものを、いかに無限に仕立てるか?」
ということが、
「錯覚の正体」
ではないかと思うのだった。
「タイムマシンの創造」
というものは、その無限の創造を助ける
「錯覚の理論」
というものであり、
「自分が、無限というものに、いかに追い付いていくか」
ということであった。
というのは、
「知らない世界」
というものがあり、そこにたどり着くことができる、
「タイムマシン」
というのは、その存在を肯定するということは、錯覚や矛盾を、無限にするものなのかも知れないと考える。
そこには、
「タイムパラドックス」
というものを、解決しなければ、タイムマシンというものを開発することはできない。
タイムパラドックスというものが、ひとたび、起こってしまうと、宇宙は、ビッグバンに取り込まれるという発想であった。
マルチバースというものは、
「裏宇宙という発想の延長線上にあるものだといえるのかどうか。誰にも分からない」
といえるだろう。
ただ、裏宇宙という発想と、マルチバースというものは、まったく違うものだと考える方が、辻褄を合わせるには都合がよさそうだった。
ただ、一つの問題は、
「マルチバースという、無限にある宇宙というのは、つながっているということだろうか?」
それこそ、トンネルのようなものでつながっているとすれば、そのトンネルというのは、裏宇宙ということであり、その裏宇宙の先にあるのが、また表であり、
「裏の裏が、表だ」
という発想をもってするならば、
「裏の裏が表だ」
として、その表というのが、今広がっているこの宇宙と、
「まったく同じものなのか?」
という発想が生まれてくる。
そうなると、その世界には、今のこの世界と同じだとすると、そこにも地球というものがあり、そこに、自分とそっくりというのか、同じ人間がいると考えられる。
そう考えると、マルチバースの無限の宇宙は、
「時系列のように、並列でつながっている」
と考えると、
「現在という宇宙は一つであり。未来と過去という無限に広がる宇宙が、並列しているのが、マルチバースだ」
ということになる。
ただ、ここで、前述の、
「無限」
というものが、
「無意識に、その果てを限界のように感じることで、さらなる無限を勝手に作り出しているとすれば、広がる世界のその果てが、マルチバースというものをいかに制限を与えるか?」
という発想に至るのであった。
そんな、
「タイム〇〇」
というものを、このマルチバースで考えてみるというのも、一つの考え方ではないだろうか?
特に、タイムリープというものが、基本は、
「過去に行って、その場所からやりなおしたい」
というところから始まっていることで、
「自分の過去を、未来を知った状態で、やり直すことができれば」
という実に、
「都合のいい発想だ」
ということからきているものだといえるのではないだろうか?
だが、、この、
「タイムリープ」
という発想は、本当に、
「都合がいい」
といっていいものなのだろうか?
確かに、
「未来を知っている」
ということは、
「これほど都合がいい」
といえるのではないだろうか。
ただ、その知っている未来というのは、あくまでも、
「自分が知っている未来」
というだけのことである。
というのは、
「自分が見える範囲だけの、知りえる有限のものだ」
ということであり。
その未来というのは、
「自分の現在から考えられることの、
「最良」
というものを、
「その時に判断したことから、未来が開ける」
ということではないだろうか。
だから、結果として出てきたことが、
「自分が考えた未来とは限らない」
ということであろう。
「創造するはずの未来」
というものと、
「想像した未来」
というものは、必ずしも一致しない。
時系列としてつながっている無限の想像と創造、そこには、中には、一致するものもあり、それを、
「成功だ」
と考えるのであれば、それが、目指す人生の礎となることなのかも知れない。
だが、その時は最良であっても、その先も、最良とは限らない。
だから、想像した未来とはかけ離れた未来となっていて。
「あの時点から、やり直せたらいい」
と考えるのであろう。
ただ、それが、発想として間違っているということに、誰も気づかないだろう。
というのも、
「あの時から人生が狂った」
と感じている世界というのは、あくまでも、
「想像に対しての結果が表れた時だ」
ということである。
だから、その時からやり直すということは、
「狂ってしまった過去からやり直すわけであるから、結局、最良というものを目指してもそこには、自分の求めるものにたどりつくわけはない」
ということである。
つまり、
「本来では行きつくはずの未来を、最初に想像したところからやり直さなければ、また同じ創造物ができることで、何度やり直すことができるとしても、結果は同じことだろう」
何しろ、大きな目的からは、道が外れているのだから」
ということである。
だから、本当に、タイムリープが叶って、自分のやり直したいところからやり直そうという発想になるのであれば、
「自分が戻りたいところの、想像するところからやり直さなければいけない」
という自覚を持てるかどうかで、変わってくるというものだ。
では、未来に向かってタイムリープをするということはどういうことなのだろう?
タイムリープというのは、
「自分に、憑依する」
ということである。
つまりは、未来にいる自分が、憑依されるということを分かっているのかいないのか。それは、過去の自分にも言えることで、そうなると、元々、そこにいた自分の魂はどこに行くということになるのだろう?
「どうせ自分なんだから、未来の自分が乗り移ったって、別に、未来を知っている自分になる」
というだけのことで、変わるものではないと言い切れることであろうか。
「あなたは、未来を知りたいですか?」
と聞かれた時。普通は、
「知りたい」
と答えるだろう。
しかし、中には、
「知りたくない」
と答える人もたくさんいる。
その理由は、
「未来を知ってしまうと、人生が面白くない」
と言われるが、確かにそうだろう。
「何歳で、病気、あるいは事故で死ぬ」
ということが分かったとして、それを知りたいだろうか。
確かに、知っていることは大切だろう。
例えば、リアルな話になるが、
「定年後の年金生活になると、もし蓄えがあったとして、いくつまで生きるかということが分かっていれば、使い切るまでの計画が立てられる」
ということで、リアルにありがたい。
だが、逆に知ったことでの
「デメリット」
として、精神的に、辛くなるのではないかということである。
つまりは、
「余命」
というものを知るということであるから、
「余命が分かっていると、どうしても、その間を意識せざるを得ないということで、果たして、生きる希望があるのだろうか?」
ということである。
まだ、
「30年ある」
と言われたとして、その余命をいかに過ごしていくかということは、まだまだ先があるので、正直、
「余命を知らない」
という官学と違い、精神的に余裕があるだろう。
しかし、その余命にどんどん近づいていくことで、
「俺には時間がないんだ」
ということに気づくと、その時の心境がどうであろう。
「未来が決まっているなんて、知らなきゃよかった」
と感じるだろうか。
それとも、
「余命が短いのだから、しっかりそれまで生きないと」
と感じることができるだろうか?
さすがに、今先刻されたというわけではなく、分かり切っていることを思い知るだけのことなのだろうが、
「余命というものを、本当に、まともに考えられないとするならば、本当に知らない方がいいだろう」
もっとも、
「余命半年」
ということが分かったとすれば、どう考えて生きるだろうか?
「どうせ、すぐに死んでしまうということで、お金を使いきるかのように、遊びまくって、残りの余生を、それだけに使うのだろうか?
と考えると、情けなくなるのは、知らなければよかったということの裏返しになるのだろうか?
かといって、
「何か立てた目標に行きつけるかどうか分からない」
ということになった時、
「あきらめる」
という心境になるかどうかも怪しいものだ。
といえるだろう。
総合的に考えると、
「知らぬが仏」
という言葉は、まさにその通りだということになるだろう。
やはり、
「精神的にきつくなったとすれば、それは、いくら自分が望んでいるということであっても、最終的に、自分のためにはならないことだ」
ということである。
と考えれば、そもそもの目的いである、
「あの時に戻ってやり直したい」
と考えるのは、無謀だともいえるだろう、
何といっても、まわりの大きな流れを知らないのだから、
「自分が変わったことで、まわりに与える影響がどういう程度のものなのか分からない」
ということである。
つまり、
「過去に戻って、過去を変えるということ」
それが、
「タイムパラドックス」
というものだ。
ということになるわけなので、タイムリープというのが、本当に、
「タイムスリップにおけるタイムパラドックスの解決方法だ」
ということには、なりえないといえるのではないだろうか?
つまり、
「どのような考え方をしようとも、時間をさかのぼるということは、タイムパラドックスというものから、逃れることはできない」
ということになるのではないだろうか?
その考えがあくまでも、
「タイムリープ」
という考え方を、否定的に思うことなのではないだろうか?
ということになると、そもそもの
「タイムリープ」
というものの、存在意義があるのかどうか。
ということに繋がってくる。
だとすれば、
「未来へのタイムリープ」
というものも、そもそもの考えが否定的であれば、その発想は、
「音を立てて崩れてくる」
といってもいいのではないだろうか?
ただ、ここで、遠藤は一つの考えを持っていて、その考えが、
「未来へのタイムリープ」
というものを、可能ならしめる理屈となるのではないか?
ということである。
これは、決して、
「過去に行って、やり直す」
ということを、
「タイムリープの存在意義だ」
と考える発想とは違ったところから生まれてきたということではないだろうか。
そもそもの、
「タイムリープ」
というのを考えた時、
「タイムリープというものが、ある一定の決まった発想から生まれるものではないだろうか?」
ということを考えた時、そこに、
「タイムスリップ」
のような、
「タイムマシン」
であったり、
「ワームホール」
のようなものがあるのではないか?
と考える。
それを、遠藤は、
「タイムトンネル」
というものの存在ではないか?
ということであった。
「タイムマシン」
であっても、
「ワームホール」
というものであっても、そこに、
「憑依」
という発想七位。
「肉体と一緒になってこそ、操縦できるものであり、落ち込んでしまう」
ということになる。
しかしタイムトンネルというものは、
「肉体がなくとも、その先に出てくる先には、自分の憑依できるものがある」
ということだ。
だから、そこには、自分の意志が働いていて、
「ワームホール」
のように、自分の意志によって存在するものではないので、その発想がいかに、無理のあるのであるかということが証明されているといってもいいだろう。
だから、
「タイムリープ」
というのは、
「そのすべてが、自分の意志によるものでなければいけない」
ということにあると、ここで勘違いがあっては、そもそものタイムリープはありえないということになり、
「タイムリープをしようとした魂はどこに行くのだろう?」
ということである。
「憑依する場所を間違えると、憑依される過去の魂は、憑依しようとする魂の侵入を妨げようとするだろう」
そこには、
「れっきとした意志」
というものが働いていて。意識をもって、憑依を拒否するのだから、自分の意識の中に残っていることだろう。
「俺は、誰かに乗り移られそうになった」
という意識の中で残っているのか、その思いが。いびつな形で、記憶されているということになるのかも知れない。
それが、まさか自分から乗り移られそうになっている」
ということを、その時は意識するのだろう。
しかし、
「今戻ってきても、そこが、正しい場所なのかそうか。違和感があるのかも知れない」
だから、さまよってしまう意識というのが、本当に、元の場所に戻れたのかというのは、怪しいものである。
なぜなら、時間というのは、絶えず動いているというもので、同じ場所に戻ってくるというのが、
「正しい着地点なのかどうか」
正直分からないのだった、
「慣性の法則」
というものがあるが、
「進行している電車の中で飛び上がっても、結局電車の中での正しい着地点に降りる」
ということで、この
「タイムリープ」
においても、
「タイムリープとしての世界の中でだけ通用する、着地点に降りるということは、何をおいても、正しいところに降り立つことができる」
ということである。
つまり、
「タイムリープ」
は
「タイムスリップ」
と違って、ごく狭い範囲としての、局地的な範囲でしか、存在できない発想だといえるのではないだろうか。
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