第2話 探偵小説

 遠藤は、最近よく夢を見る。目が覚めてから覚えている夢はほとんどなく、夢というものを、

「気が付けば考えている」

 ということが多かったりした。

 それが、どういうことなのかというと、

「夢をどういう時に見て、どういう時に覚えているか?」

 ということであった。

「夢をいつ見るか?」

 ということについては、曖昧な感じがする。

「疲れている時」

 であったり、

「何か気になることがあった時」

 という時なのだろうと、漠然と感じるが、それは、微妙に、

「覚えている夢」

 というものと、ほぼ同じ感覚ではないかと思うのだ。

 つまりは、

「夢を見る」

 ということと、

「夢を覚える」

 という感覚は、相対していて、正比例に近い形のものではないかと思えた。

 ただ、正比例するということは、ある意味、

「平行線」

 ということでもある。

 正比例というのは、

「こっちが伸びていけば、相手も同じように伸びていく」

 ということで、基本的に、相手とは、

「交わることのない平行線だ」

 といってもいいだろう。

 だから、おいかけようとしても相手に追い付かない。そんなことを考えていると、思い浮かんできたのが、

「10分前の女」

 ということであった。

 そんなことを考えてると、

あの話も、

「10分前の女に絶対に追い付くことのできない女が、いろいろと先を歩く女のことを想像している話であったが、結局は、主人公の妄想でありながら、さらに、その部屋にいる男が、暗躍をしていた」

 という、双方からが絡む話ではなかったか。

 もちろん、小説なのだから、少々のフィクションは、

「盛った」

 としても、それはありなのではないだろうか?

 特にSF系の小説というと、その発想は、いくらでも無限にあることだろう。

 そもそも、宇宙に関しては、

「無限」

 と言われていた今までの感覚である世界が、今では、

「一個」

 という単位になるのである。

 いわゆる、

「マルチバース」

 と呼ばれる発想で、宇宙を今までの感覚としての、星雲くらいの単位にしてしまえば、本当に、

「たくさんの宇宙が存在する」

 と考えられる。

 特に、気になるのが、

「我々が今まで宇宙と呼んでいた世界と、同じ宇宙の間に存在しているものは、何なのか?」

 ということである。

 今までの、

「宇宙」

 という考え方であれば、

「宇宙の次に大きな単位として考えられる星雲と星雲の間は、いわゆる夜が広がっているというような世界を、一種の宇宙空間」

 といっている。

 つまりは、

「宇宙空間という大きな器があり、その中に、星雲であったり、ブラックホールであったり、サルガッソーと呼ばれるものが存在しているのではないか?」

 と考えていた。

 これは、実際に研究資料を見たわけではなく、

「SF映画」

 や、

「SF小説」

 などと言われるものからの発想であるので、天文学を研究している、

「お偉い博士」

 たちの発想ではない。

 だから、どうしても、

「星雲と星雲の間に広がっている世界というのは、あくまでも、夜の世界のようなものである」

 ということである、

 しかし、考えてみると、おかしな世界ではないかと思うのだ。

 何といっても、大前提として、

「宇宙空間には、空気がない」

 ということである。

 そもそも、星が光るのは、

「恒星が光を放つ」

 ということで自らが光っている場合、あるいは、

「恒星の光の恩恵」

 によって、反射して光っているものの、二種類であろう。

 どちらにしても、その光は、

「空気というものが存在し、そこを通ることで光が発せられるものだ」

 と思っていたが違うのだろうか?

 少なくとも、

「星が煌めくというのは、空気の存在によるものだ」

 ということだったはず。

 それを考えると、星が光るには、空気による、伝導というものが必要なのではないだろうか?

 ということであった。

 これも、以前に読んだ小説の中で、

「宇宙や星の特性」

 というものを創造することで、物語に人間の性格を織り交ぜた内容の話があり、それが印象的で、いまだに覚えている作品があった。

 その作品は、

「星というものの中には、まったく光らない。つまり、存在を意識させない」

 というものが存在するという考え方であった。

 その小説は、

「SF小説」

 でもなく、

「ホラー小説」

 でもなかった。

「探偵小説」

 というところが特筆すべきところであり、

「探偵小説」

 というのが、

「ヒューマンドラマだ」

 ということを示しているといってもいいだろう。

 探偵小説というのは、ある事件が起こり、その事件の捜査を、刑事であったり、探偵が行うというもので。

「事件が起こるということは、被害者と犯人がいる」

 ということだ。

 そして、

「犯行に及ぶということは、必ず、誰かを殺したり、脅迫するためには、その原因となる、動機というものがあるだろう」

 さらに、

「犯人が、自分が捕まらないようにするために、捜査陣を惑わす、トリックというものが必要になり、犯人は、完全犯罪を行うことで、自分は、助かる」

 という流れが、探偵小説の、

「起承転結」

 でいうところの、

「起承」

 の部分に当たるであろう。

 最初から、あるいは、途中からかかわることになる探偵であったり、刑事は、そのトリックと、動機の解明から、

「犯人が誰なのか?」

 ということを特定し、警察に引き渡す」

 というのが、探偵小説の流れになる。

 本来の事件というと、そこで終わりではなく、

「取り調べが行われ、検察官が、起訴を行い、それにより、事件は、警察から、司法にゆだねられることになる」

 裁判が行われ、今までは、

「容疑者」

 と言われていた犯人は、

「被疑者」

 ということになり、裁判が始まると、

「被告人」

 ということになる。

 だから、裁判の際に、裁判官は犯人がうるさかったりすると、

「被告人は静粛に」

 といって、諫めるのであった。

 裁判が進んでいくと、

 もちろん、探偵小説の中には、

「検事」

 であったり、

「弁護士」

 という司法関係の人たちにスポットライトを当てる話も結構ある。

 昭和の頃、

「現役の検事」

 という人が、小説も書いていて、

「〇〇検事シリーズ」

 などといって、今でいう、

「安楽椅子探偵」

 の走りのような小説があったものだ。

 さすがに、現役の検事。物語の中での、裁判シーンだけではなく、普段の生活なども、実際に生活感が現れていて。話もよくできていたものであった。

 いわゆる、

「社会派推理小説」

 と言われるものであるが、普段、知ることもない、

「特殊な職業」

 の裏側を、小説という形で知ることができるのは、当時としては、実に新鮮なことだったといえるだろう。

 だから、

「探偵小説」

 と言われていた、

「トリックや謎解きを中心とした、本格探偵小説」

 というものから、時代が進むと、

「社会派推理小説」

 というものがウケるようになってきたのだった。

 その星のことを書いていた小説は、

「本格探偵小説」

 と呼ばれるもので、いわゆる、

「探偵小説黎明期」

 というものから抜けたくらいの時期の作品だった。

 元々の探偵小説というと、有名なものとして、

「シャーロックホームズもの」

 であったり、

「怪盗ルパンシリーズ」

 などが有名であり、特に、

「シャーロックホームズシリーズに関しては、その後の探偵小説の礎という形になった」

 といってもいいだろう。

 その時代の小説というものに、

「本格探偵小説」

 というものに対して、

「変格探偵小説」

 と呼ばれるものを提唱した探偵小説作家がいたが、その人の考えとしては、

「謎解きやトリックを基調とした、どちらかというと、華々しいストーリーの正当性のようなものを前面に出した小説が、本格派探偵小説であり、それ以外の探偵小説を、変格派探偵小説という」

 ということであった。

 そもそも、探偵小説というものの定義も、ある程度曖昧なものに思えるので、

「それ以外のもの」

 という、さらに曖昧な判断を考えると、

「変格派探偵小説というものは、限りなく無限に近いものだ」

 といえるのではないだろうか?

 そういう意味で、

「どういうものを変格派と呼ぶか?」

 ということになると、難しいとしか言えないだろう。

 中には、

「猟奇殺人」

 であったり、

「異常性癖」

 であったり、

「耽美主義的物語」

 という代表的なものがあるだろう。

「耽美主義」

 というのは。

「モラルや道徳、倫理などというものを含めたうえで、優先順位の最先端にくるのが、あくまでも、「美」というものだ」

 というのが、

「耽美主義」

 というものである。

 つまりは、

「美しければ、それを動機ということにして、犯罪を犯す動機に十分になりうる」

 というものであった。

 そんな耽美主義というものをテーマにした、探偵小説というのもあり、それは、変格派というものをつかさどる両輪ともいえる、

「猟奇殺人」

 あるいは、

「異常性癖」

 というものに結びつくことだろう。

「猟奇殺人」

 というものは、動機が、

「復讐」

 だったりする場合に行われる。

 日本の法律は。

「加害者に甘い」

 と昔から言われている。

 何といっても、

「疑わしきは罰せず」

 という基本方針があるではないか。

 確かに、冤罪というものが起こるのは、非常にまずいことだろう。

「やってもいないのに、拷問を受けたり、泣き落としなどで、昔は、無理矢理に白状させられたりしていた」

 という時代があった。

 特に、

「大日本帝国時代」

 における、

「特高警察」

 というものは、昔の、

「治安維持法」

 というものに、則って、今では。

「やりすぎ」

 あるいは、

「ありえない」

 と言われるようなことが普通に行われていたのだ。

 特に、

「反政府」

 ということで、当時は、

「共産主義」

 であったり、

「天皇制に対しての批判などは、厳しく罰せられたものだった」

 といえる。

 今の日本国憲法では、

「集会や結社の自由もある程度は認められていて。さらには、宗教の自由も認められているということで、本当にありえないことであるが、昔であれば、国民の権利や自由は、ある程度制限され、あくまでも、国家の主権は、天皇にあったのだ」

 ということである。

 そんな時代には、警察の捜査は、昔の

「踏み絵」

 でも踏ませるように、拷問を重ねて、白状させるということが、ある程度合法だった。

 特に、

「有事」

 と呼ばれる戦時中は、国民は、

「臣民」

 であるということで、

「有事の場合は、その自由は、ある程度制限される」

 ということが、合法だったのだ。

 戦時中などは、

「政府の要人」

 あるいは、

「軍の首脳」

 であっても、

「スパイの疑いがある」

 あるいは、

「クーデターをたくらんでいる」

 などということが分かれば、

「自宅を盗聴する」

 ということを、

「政府の通信をつかさどる省庁に銘じて、行っていたということも事実のようである」

 今であれば、

「まるで社会主義国家のようだ」

 と言われることであろうが、

「そこまでしないと、国家の治安を守ることはできない」

 ということなのだろう。

 というのも、それだけ、クーデターをたくらんだり、政府転覆を狙っているという連中が普通にいたりする時代だったということであろう。

 そのいい例が、

「226事件」

 というものだったのだ。

 そんな時代では、下手をすれば、

「冤罪」

 というのも多かっただろう。

 しかし、それはあくまでも、

「今の日本国」

 という、

「平和ボケした時代」

 と当てはめて考えればということであった。

 だから、敗戦によって、

「自由主義になった日本」

 にとって、

「冤罪」

 という意識は、過去の黒歴史というものを、鑑みた時、今の平和な世の中では、

「あってはいけないこと」

 という発想になるのであろう。

 もっといえば、

「冤罪」

 というものを起こしてしまうと、その警察署であったり、刑事は、下手をすれば、

「終わりだ」

 といってもいいかも知れない。

 ただ、問題は、最近の傾向であり、最近になって多くなってきた、

「男女雇用均等法」

 であったり、

「個人情報保護法」

 などというものを考えた時、

「下手をすれば、冤罪を生んでしまう可能性というものが、大きくなっている」

 といえるのではないだろうか。

 冤罪ではないが、もっと恐ろしいものに、

「冤罪に絡みそうな場合を、逆手に取る連中もいたりする」

 ということがある。

 一つは、

「痴漢冤罪」

 になりかねないものとして、普通であれば、誰かが犯人を見つけると、大声を出して、

「こいつ、痴漢です」

 と大声を出して、訴える第三者がいる。

 しかし、そんなことをせず、こそっと駅裏などに連れ出して、

「あなた、こんなことがバレたら首になっちゃうでしょう? 奥さんとかいたら、家庭崩壊だよ」

 といって、口調はやんわりであるが、脅迫をしてくるのだ。

 そして、

「名刺か、身分証明をよこせ」

 といって、相手の情報を聞き出すのだ。

 普通だったら、

「個人情報が」

 といえばいいのだろうが、何しろ、痴漢の罪で追及されているのだから、、すぐに、

「お前は、そんなことがいえる立場か」

 と言われてしまえば、それまでである。

 言われた方は、やっていようがやっていまいが、それを証明することはできないので、従うしかない。

 被害者が、

「この男」

 というと、ほぼ、

「犯人確定」

 ということになってしまうのだった。

 だから、

「相手に従うしかないのだが、当然相手は、金を要求してくるのだ」

 そして、問題なのは、ここからで、

「一度お金を渡してしまうと。もう、どうすることもできない」

 といえる。

 相手は、完全にこっちを金づるにしてしまうだろうし、何といっても、

「金を渡した時点で、罪を認めたのと同じだ」

 と相手からいわれてしまうと、

「確かにそうだ」

 ということになってしまい、その時になって、逃げられないところに追い詰められ、

「それが最初から計画されていたのだ」

 ということになるのだった。

 つまりは、

「俺は、何もしていないのに」

 と思ってはいたが、そのうちに、

「ひょっとしたら、したかも知れない」

 という疑心暗鬼になってしまう。

 そして、濡れ衣だということが分かった時にはすでに遅く、

「相手は皆グルだったのではないか?」

 ということにも気づいてくる場合もある。

 つまり、

「痴漢の被害者」

 であるはずの女の子も、

「実はグルだった」

 ということである。

 それを思うと、

「本当の分水嶺は、金を渡してしまったところだったんだ」

 ということに気づくかどうかである。

 普通に気の小さな男性であれば、まず、気づくことはない。だから相手も、そんなに気にすることなくやるのだろう。

 しかも、

「俺の彼女が痴漢されたと思って」

 といえば、罪が消えることはないだろうが、情状酌量ということはあるだろうという計算もあったのだろう。

 たら、常習犯であることに間違いはないだろうから、

「そんな奴に引っかかった自分が悪い」

 というか、

「運が悪い」

 ということなにかも知れない。

 これが、痴漢の場合であるが、実はもっと確実なのは、別にあるのだ。

 こちらの場合は、もっと計画性があるもので、目を付けた男、つまりは、ターゲットには、妻子があり、社会的な立場が十分にあるという人であること。

 だから、

「女性を買う」

 などということを、悪いことだとは思っていないような人を狙うのだ。

「そういう連中は、金を持っている」

 というのが、当たり前のことのようにいうのであって、

 やつらが狙っている犯罪を、

「美人局」

 というのだった。

 こちらも、女を近づけるのは、痴漢冤罪と変わりはないのだが、美人局の場合は、

「完全に、被害者が、行為に及んだ」

 というところの決定的な瞬間を証拠として抑えているので、

「被害者はどうすることもできない」

 ということだ。

 というのも、

 被害者、つまり、お金を脅し取られる方は、自分には、社会的な立場があるので、

「これがバレると終わってしまう」

 ということになり、狙う方は、

「お金が取り放題だ」

 と感じることであろう。

 この場合は、

「痴漢冤罪」

 の場合と違って、もっと分かりやすい。

 なぜなら、完全に脚本は出来上がっていて、女も完全にグルであることは分かり切っていることであった。

 それを思えば、すぐに、

「だまされた」

 ということが分かるというもので、

「一回お金を渡しても、一度で終わるわけはない」

 ということは分かり切っているのだった。

 だから、余計に、

「お金を渡してはいけない」

 とは分かっているのだが、とりあえず渡すと、相手は、やはり図に乗ってくる。

 ここまでくると、被害者側も黙っているわけではない。

 痴漢冤罪の場合であれば、相手は、いきなりのことで狼狽するという、

「ただの気の小さいサラリーマン」

 などが、ターゲットになるので、目を付けられると、相手の言いなりになってしまうが、これが、社会的な立場にある、

「お金を持っている」

 という人であれば、黙っていはいない。

 これが、芸能人や有名人であれば、バックに、反政府組織のような連中がいたりして、中には、

「トラブル解決部隊」

 のようなものがあり、

「お金さえ出せば、いくらでも、解決してくれる」

 という人に頼むと、美人局側は、

「完全に終わりだ」

 といってもいいだろう。

 被害者側は、

「社会的立場があるから、金を出したのだが、金があって社会的立場がある人はそれを守るためには、何をするか分からない」

 ということを分かっていないのだ。

 完全に、

「手を出してはいけない相手に、手を出した」

 ということになるのであった。

 加害者の敗因は、

「金を持っているから、立場を守るために、金を出す」

 という単純な発想しかないことであった。

 金を取られる方だって、それまで、努力も何もせずに、金持ちになったわけではない。

 それこそ、どこぞの政治家というわけではないので、

「親の七光り」

 であったり、

「政治家の息子」

 ということで、まわりが、ちやほやしてくれるというわけでもない。

 自分で這い上がってきた人たちであり、特に、人との付き合い方であったり、世渡りの方法、さらには、金の使い方というのもある程度は分かっているだろう。

 ただ、今回は、

「魔が差した」

 ということなのか、それとも、

「有頂天になっていた」

 ということなのか、そういう意味では、加害者側が目を付けた相手に、

「狂いはなかった」

 といってもいいかも知れない。

 しかし、

「やり方がまずかった」

 ということである。

 というのも。いくら魔が差したといっても、自分の立場を守るためには、

「金にものを言わせる」

 ことくらいはできる連中だということであろう。

 要するに、

「チンピラがやくざに喧嘩を売ったらどうなるか?」

 ということで、それこそ、無鉄砲などという生易しいものではなく、

「自殺行為」

 といってもいいだろう。

 それこそ、相手は金をもらっているわけだから、何をするか分からない。

 何といっても、

「利害関係の何もない連中であるから、事情を知っているわけでもなく、もっとも、事情を知っていたとすれば、もっとひどい目に遭うのだろうが、そんな連中が相手なのだから、容赦ないことくらいが分かっていないということは、どれだけ、加害者の連中は、バカなのか?」

 ということになるのであろう。

 お金というものが、いかに大切なものであるかということを考えると、

「被害者としては、こういう時のためにお金を使う」

 ということを、身に染みて分かったということだろう。

 だから、この場合は、

「痴漢冤罪」

 に比べれば、お金もたくさん取れるだろうし、計画性があるということで、

「しっかりしているように思えるが、そのわりに、リスクも大きいということに、意外と気づかないものだろう」

 というのは、

「策を弄する人間は、自分がやることには、ピンとくるのだろうが、自分がやられるということに対して、まったく気づかない」

 といえるだろう。

 だから、

「昔はよく聞いた。美人局という犯罪であるが、最近では、めっきり聞かなくなった」

 といえるだろう。

 ドラマなどでも、チンピラが

「美人局」

 などをやって、縄張りあらしのようなことをしてしまって、

「ちょっとした問題になった」

 などというのは、よく聞いたものだが、今では本当に聞かなくなった犯罪だったのだ。


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