戦神ジャンヌマラー
天下無双の剣豪。
その身に一太刀すら浴びせられる者はなく、その一振りは鎧ごと相手を切り伏せる。
史上最高の将。
万の大軍を縦横に操り、また寡兵をもってよく陣を守る。
世界最強の能力者。
片の
讃える言葉は数多くあれど、スーマの民は畏敬を込めてこう呼ぶ。
『戦神』ジャンヌマラーと。
「ここはもう終わりだね。あとは天井を突き崩すだけだ」
暗闇の中を走り近づいてくる人物に向かって
声をかけながら、スーマ軍No.2の能力者、ルドサンクレア・クーディンタローグは土埃に塗れた頬を腕で拭った。
「今更のことですが、よくあの距離で気配がわかりますね。足音にはかなり気を付けたつもりでしたが」
「この狭さだからね。人が動けば空気も動くし」
クレアの前に立ち止まったのは赤銅の髪と瞳を持つこの男はヤジン・トルサルデ。スーマ軍能力者部隊キバルーブの隊員である。痩せ型の長身、姿勢正しく無駄のない動きは副隊長リアン・タルカンの後継者と名指しされることもある。ただしタルカンに言わせれば「私はあんな石頭じゃない」そうだ。
「それで何かあったの?わざわざ様子を見にきただけじゃないでしょ」
トルサルデに顔を向けて問うクレアだがその目には映るのは暗闇だけだ。
山を切り開き、最後の3キロメートルほどは地下を掘り進んだ。幅、高さともに約3メートルの地下トンネル。ノナシ山脈を南北に貫くそれがクジーフィ侵攻のルートとなる。
灯といえば松明しかないこの世界ではトンネルの中を照らすことはできない。光が全く差すことがないここで作業ができるのは能力者、それも一部の高レベルの者に限られる。
さらには崩れそうな岩盤を感知し、適切に補強を施しながら、たったの3ヶ月で完成させられるのは2人しかいない。ひとりはこのルドサンクレア。そしてもう一人は―—
「もう一本もほぼ完成したそうです。これでいつでも作戦を開始できます」
クレアはわずかに眉を上げてから柔らかい笑みを浮かべた。
「さすがだね、10日も後に始めたのに。予定に間に合ってよかったよ」
無言で頷いたトルサルデがさらに言葉を続ける。
「それからあの方から伝言です。『土竜の真似事はもうやらん』だそうです」
ふ、と笑いが漏れた。
「狭いところが嫌いだからね。あとで良いお酒を持って労いに行ってくるよ」
そんなやりとりの後、連れ立って出口へ向かった。常人では不可能な速度で完全な闇の中を壁にぶつかることも、躓くこともなく走る。
「まさか『戦神』とあなたがこんなことまでするとは思いませんでした」
「必要なことを可能な限りうまくできる人にさせただけだよ」
当然のことのように答えるクレアの後を追うトルサルデは、あなたが思うほど当たり前ではないのです、とは言葉に出さず曖昧に視線を下げた。
現スーマ王トルハオレンがマリハ半島を再統一するより昔、さらには旧統一王国が成立するよりさらに前、スーマの民は東に暮らす遊牧民だった。なんらかの理由でマリハ半島に流れ着き、そこで生活の糧を農業に求めた。山がちな半島で麦の生産に向く土地は乏しく、処々に開拓した農地の周りに住み着いた者たちがそれぞれ部族を形成した。
少ない農地に依った生活は貧しく不安定だ。部族間の小競り合いも頻繁にあった。土地を奪われれば部族の命脈は保てない。農地を中心に部族内の結びつきは非常に強くなり、他部族の脅威を遠ざける武力が尊ばれた。しかし一方で共に羊を追っていた頃の記憶も薄れず、さながら喧嘩の絶えない兄弟のような関係が形作られた。ただしその喧嘩は本気の殺し合いであるが。
後に本当の外敵であるクジーフィが現れた時、兄弟たちは紆余曲折の末再び団結を誓う。ただしその団結の拠り所は個人としての、また部族としての強さ。要は一番強い者が部族の頭となり、一番強い部族が他を率いるのである。
今、トルハオレンが部族としてのスーマの長であり、スーマがマリハ全域の部族を統べる立場にある。対外的に称していたスーマ国王の称号はようやく国内でも浸透してきていた。
トルハオレンは強い。能力者として、また軍の指揮官としても傑出している。そして統一王国が崩壊した後の群雄割拠の時代を終わらせた手腕で単に武人、軍人としてだけでないリーダーとしての資質も示した。
問題は―—当人たちがそう思っていないことがまた問題なのだが―—彼を凌駕する
トルサルデが言っているのはその微妙な関係の部下たちにトンネルの掘削を形式上とはいえ命じ、また命じられた二人が素直に従っているという事実である。最高の敬意を払われるべき者たちが戦闘よりもずっと格が低いと捉えられる土木作業で泥に塗れる。スーマ軍の能力者の多くにとって、受け入れ難いとまでは言わないが不愉快ではある状況だ。この世界の言葉で「
トルサルデ自身は他と比べれば偏った思想に囚われてはいないが、尊敬の念を抱く王とその臣下たちの行動が理解しきれていない。それ故の先ほどの思考である。
入り口に着き、秋口のまだ強い陽の光に目を細めたクレアたちを兵士たちが囲む。
「隊長!お疲れ様です!」
「喉が渇いてはいませんか」
「食事の用意もできていますよ」
皆、非能力者だ。
一人一人に声をかけながら歩く彼女はさながら街の食堂の看板娘……と言うには少々優雅すぎるか。しかし軍や王宮で纏う神々しいまでの風格は鳴りをひそめ、市井の民と並んでもさほど違和感がない。これが本来の姿なのだとしたら、普段の彼女は完璧な演技力を持つ俳優と言わざるを得ない。
「クレア」
人垣の上から銀髪の少女を呼ぶ声がする。さほど大きくもないのによく通る、そして慈しみに満ちたその声に、クレアは視線を上げた。
「来てたんだ」
造物主がその力の全てを注ぎ祝福を施したとしか思えぬ面差しが、いま、年相応の弾ける笑みに彩られた。
輝くばかりの笑顔の向く先は―—
6トーピ半に届かんとする長躯、鍛え上げられた腕と脚。高貴な色とされる紫と金の鎧で浅黒い肌を覆い、束ねられた黒髪は腰まで伸びている。
能力者の得物にしては細身の曲刀を手に戦場を駆ける、スーマの宿将にしてシサムの守護者。
戦神サヴァニリーシュ・ジャンヌマラー。
クレアの母である。
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