第三章 第二次スーマ・クジーフィ戦争
天使か死神か
朝からついていたんだ。起きたら昨日まで降り続いていた雨は嘘みたいに止んでいたし、朝食には茹で卵が俺だけふたつついていた。さらに重い荷物を持って行軍訓練をするはずが見回り当番が腹痛とかで俺に役目が回ってきた。
ミズイは牧畜とその産物である乳製品の加工で成り立つ村……いやぎりぎり町と言っていいか。軍に入ってすぐに赴任してから3年、早くも第二の故郷と言って差し支えないほどに順応した。気のいい連中ばかりだし、何より空気がいい。そのうち王都への帰還命令が出るだろうが、もう少し先にならないかと思う。
仕事も国境近くの防衛という任務の割には楽なもんだ。スーマとの国境は南のノナシ山脈にある。ミズイはその中腹よりやや麓よりにあり、駐留する俺たちは国境を監視し敵の軍を防ぐ役目を負っているというのが建前だ。
建前と言ったのは大規模な軍勢が攻めてくるなんてことはあり得ないからだ。ノナシは険しい。その中で昔はいくつか人が通れる場所はあったのだが、今は石積みの壁で塞がれた上に兵の詰め所が置かれ、通ろうとすればすぐに早馬が駆け出していく。もはや行軍の経路として使えるものではなくなっている。それでも少し前までは小規模な斥候、工作部隊が山を超えてくることもあったらしいが、まともな戦果を上げることはできなかったそうだ。だいたい住民はほとんど顔見知りだから、町に入ればすぐにバレる。諜報活動なんてできたものじゃない。そういった経緯で最近では国境が脅かされることはほとんどなくなっていた。
兵舎を出て町の入り口に向かう。さっきはああ言ったが敵国は目と鼻の先だ。一応防衛のために塀で囲まれていて、門は二箇所しかない。所詮はレンガでできた、男の背丈より少し高い程度のものだけどな。手入れもされてないからほとんど崩れかかっている場所もある。役に立つ可能性がないものに手間をかけるほど余裕があるわけでもないんだ。
街道に通じる細い道に面した東側の門から外に出た。クジーフィの街道は王都を中心に蜘蛛の巣のように広がる。目の前の道を北に向かえば街道が交差する地点に着く。ここから西に行けば王都に、東に進めば山を越えてスシリナーアに、北を目指せば王都の周りをぐるりと回って西部に赴くことになる。
今日の仕事はノナシ山脈側の警備だ。尾根と尾根の間を進み、不審な者がいないか確認する。これを繰り返すだけなので危険はないし、山歩きに慣れているから大して疲れもしない。こんなところを見回ったところで誰もいるはずないのにな。いるのはカモシカぐらいのもんだ。
そうやって真面目に役目を果たしているといつのまにか陽が高くなっていた。もうすぐ昼飯の時間だ。
今日は天気がいい。鞄に入れてきたチーズとパンを食べてから少し昼寝でもさせてもらうかな。誰が見てるわけでもないし、これくらいは役得ってやつだ。
乾いて硬くなったパンに山羊の乳から作ったチーズを乗せて齧り付く。うまい!誰も聞く相手はいないのに思わず声が出てしまう。もう少しパンが柔らかければ最高なんだけどな。
食べ終わったらその場に仰向けになる。寝過ぎないように気をつけないと、と思ったところでもう意識が遠のいた。
どれくらい経っていたのだろう。横たわる背中に伝わる振動を感じて目を開いた。初めは気のせいかと思った。だが一旦意識してみれば、明らかに何かが地面を揺らしているのは間違いない。
ゆっくり起き上がって辺りを見回す。人はもちろん、カモシカだって見える範囲にはいない。だいたい動物だとしたら相当の数だ。2頭や3頭じゃない。
自分は慎重な性分だと思う。何か不味いことが起こっているのがわかっているんだからこの場を離れた方がいい。だけどもし俺が逃げたことでもっと事態が悪くなったら?俺が町に帰って伝えれば打てる手があるのかもしれない。
ふた呼吸ほどの逡巡の後、町に戻ることにした。怖さが先に立ったというより、自分がここにいても大したことはできないだろうと。よし、そうと決めたら急ごう。
そう思って鞄を掴んだ時、50トーピ先の地面に穴が空いた。というか地面が割れ崩れた。差し渡し10トーピぐらいか。立ち登った土煙が視界を塞ぐが、その向こうで何が起こっているかはだいたい想像がつく。足音と金属が触れ合う音。それも複数だ。2頭や3頭どころかその数十倍はいるだろうよ。
軍隊に入った時に教官が言ってたんだよ。
「判断は迅速に。迷うほど生き残る確率が下がると思え」
こんなところで実感したくなかった。穴が空いた瞬間に逃げてればなあ。天国の親父、お袋、思ったより早く会えそうだぜ。
煙の中から現れたのは天使か、死神か。最後に俺の目に映ったのは長い銀色の髪だった。
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以下注釈
1トーピは30センチメートルぐらいです。50トーピだと約15メートル。この距離だと能力者からは絶対に逃げきれません。彼はそれをわかっているので穴から出てきたのが軍隊だと気付いた時点で死を覚悟しています。
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