夜の王都で1
今日の仕事を終え、片付けを始めていた執務室にシンイチロウが飛び込んできた時点で、あまり良い知らせでないのはわかっていた。
計画通りでもネトの都を落とせたかどうかというところだ。よしんば負傷兵を先行して帰還させるにしても早すぎる。思った通りに戦況が動かず、能力者である彼がルルから急ぎのメッセージを託されたのだろうと思った…のだが。
「エタノールが欲しい?」
「どうせ溜め込んでいるんでしょ?とりあえず俺が抱えて走れるだけでいいから」
「それはかまわないが」
聞けばすでにネトは陥落したものの、ルルとパウロが負傷し感染症で発熱しているそうだ。私が消毒用のエタノールの製造とテストを始めていることに気づくのはさすがという他ない。
それはそれとして、なるほど状況は良くない。聞いた限りでは二人とも無事に快復する可能性は50-50より悪いかもしれない。
「すでに全身症状が現れているのだろう?今から傷の周囲を消毒しても状況は変わらないだろう……というのは君ならわかっているか」
目の前の少年は額の汗を拭いもせず、年相応の笑みを浮かべた。裏腹に黒い瞳には少しの緊張が見える。
「クレアに会わせてほしい。会えればなんとかなると思うんだ」
従卒に確認させてみれば、クーディンタローグ隊長は既に私室に戻っているようだった。時刻を考えればおかしくはない。この時間まで働く習慣はこちらの世界にはない。基本的に陽が沈めば仕事は終わりだ。
「シンイチロウ、隊長に何か頼むなら今はタイミングが悪い。門前払いを食うかもしれんぞ」
彼女は一度仕事を終えた後に私室から呼び戻されることを嫌う。公言したことはないが、彼女の周囲の人間なら皆知っていることだ。
「いいよ。クレアの前に連れて行ってくれれば問題ない」
話の場となった部屋——普段は会議室として使われている——に現れた銀髪の少女に特段不機嫌な様子は感じられなかった。まあその心の内が窺い知れるほどに表情が変わるところを見たことはないのではあるが。
それより俺の目が追ったのは、扉から椅子までの一歩ごとに揺れる絹糸の如き髪。それにこれまで目にしてきた鎧ではなくノースリーブのワンピース。部屋着だろうか。麻の色そのままで、首元に刺繍があるだけのシンプルなものだ。髪もただ後ろで束ねただけ。
普段は―戦闘用の装備を身につけた姿を普段と呼んでいいのかわからないが―薄く化粧をしているようだったが、今はたぶんほとんどすっぴんだ。それでもほんのり紅を差したような頬と艶やかな唇、ランプの灯りに照らされたヴァイオレットの瞳に視線が吸い込まれた。
「用件は?急ぎなんでしょう?」
表情、口調、声色のいずれも、これまで見聞きしたクレアと変わるところはない。ないはずなのになんとも言えないザラつきのようなものを感じる。棘がある、までもいかない不愉快さの発露。アーロンが言っていたのはこれか。
「ルルとパウロが負傷して発熱しているんだ。このままだと命が危ないと思う」
表情に見て取れる変化はない。だがこれまで感じていた肌触りの悪い空気が幾分柔らかくなっている。
「それで?先に言っておくけど私も治療法は
用意できてないよ」
「だろうね」
そっけない言葉になってしまったが、同時に口角が少し上がる。予想通りだ。
クレアは用意できていないと言った。
治療法があるなら、少なくともルルにはとっくに施されているだろう。これまで多くの兵士が負傷後の感染症で命を落としたはず。特に能力者を失うことは国家の軍事力への影響が大きいのに、最前線で戦うせいで負傷の確率は高いはずだ。折しも数年前から地球の医学知識を持つ元軍人が手元にいる。そんな状況で彼女がなにも手を打っていないとは考えられなかった。
研究は進めている。だが実用に至っていないということだろう。
「俺なら完成させられるかな?」
「さあ、どうかな」
椅子から立ち上がりながら答えたクレアは、背丈ほどもある燭台のようなものに取り付けられたランプに手を伸ばした。
「原因と治す手段の両方をはっきりイメージすることができれば、もしかしたら」
そう言って手を翳した。ゆらりと身をくねらせた炎が瞬きの間に消え、青い煙の一筋がランプの傘を突いた。
そして一呼吸の間の後、炎がもう一度立ち上った。暗くなった部屋―—他にもランプは灯っているので真っ暗ではなかったが―—が再び明るくなり、紫の瞳に煌めきが戻った。
うん、目の前で予想以上にとんでもないことが起こったぞ。
整理しよう。
まずランプの火を消した。近づけた手の周りの空気を能力を使って押し出したんだと思った。今はまだ俺にはできないが、訓練すればできる可能性はあると思っていたのでこれ自体に大きな驚きはない。
問題は火を点けたことだ。
手を触れていないのに油が燃えるだけのエネルギーを与えた。触れていることが能力を作用させる条件の一つだと思っていたが、そうではない可能性があるってことだ。
そして火を点けたことそのものもだ。火をつけるには温度を油の発火点、最低でも引火点までは上げる必要がある。匂いからして恐らく植物から取った油だろうから300℃以上ってところだ。普通は火種を近づけるなり摩擦なりで温度を上げるわけだが、さっきのアレはどうやった?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます