それでも生きて
八千草瞳は埼玉生まれの20歳。都内の大学に通う学生である。ごく普通の会社員である両親の元、中学生になるまでは何不自由ない生活を送っていた。
その生活に変化が起こったのは歳の離れた弟が生まれた後すぐだ。父親が突然の事故で亡くなった。タクシーに乗っている際に飲酒運転の車に突っ込まれ、即死だった。
父はその時すでに50を超えていて祖父母は他界していた上、母はもともと身寄りがなかったので頼れる人はいなかった。とは言え、父はこういった状況を危惧してかそれなりの保険金が受け取れるようになっていたし、そもそも母もエンジニアとしての仕事は順調であったので経済的な問題はそれほどなかった。
金に困らないとはいっても生まれたばかりの息子と12歳の娘を養う生活は過酷である。母は仕事から帰り家事と子供の世話を終わらせると、布団に入るのは毎日日付が変わってからとなった。瞳はそんな母の苦労を理解し、中学生ながら家事の多くをこなし母を助けた。
母の後押しもあり、高校、大学と順調に進学した瞳は、エンジニアとして働く母の影響もあったのか大学では化学を専攻した。弟も小学生になり生活にも少しずつ余裕が出てくると、一家はようやく世間並みの落ち着いた生活を得た。
その生活に再度変化が訪れたのは瞳が大学2年生になってすぐだった。母が倒れ、急性白血病で発症から2ヶ月で亡くなった。ちょうど20歳になったばかりの瞳は7歳の弟と二人で生きていくことになってしまうのである。
悲しみに浸る間もなく、弟の面倒を見ながらの学生生活が始まる。幸いなことに母も多額の保険金を残してくれた。忙しい生活ではあったが単純に弟は可愛かったし、使命感もあった。幼くして両親を失った彼を守るのは自分しかいないのだ。
私だけはこの子の前からいなくなったりしない。
そしてそれから3ヶ月、登校中に白い光に包まれた瞳は地球とは違う世界を訪れることになる。
今、瞳は選択を迫られていた。相対する敵兵は恐らく経験豊富な精鋭なのだろう。それを相手に一月訓練しただけの自分が互角以上に戦えていることは意外であり、助かったという思いもあった。しかしすぐそばで戦う振一郎のように、殺さないよう手加減できるほどの実力差がないことはこれまでの打ち合いでわかっている。
どれだけ切り結んだかも数えきれなくなってきた。次第に重くなる腕と脚。能力者とて全く疲労しない訳ではない。呼吸のために動かす横隔膜、敵を追いかける首の動き…全身の動作全てを能力で制御できる者は多くはない。剣を振る瞬間にだけ能力を使っていては消耗は避けられないのだ。
敵は容赦なく鉄の塊を叩きつけてくる。それを避け、受け止め、いなし、自分も同じように反撃する。
同じように?
違う。瞳の攻撃には殺意がない。それは相手にも気付かれている。だからこそ実力では拮抗している瞳に対し余裕を持って戦えているのだ。逆に追い詰められているのは瞳の方。
疲労は焦りを生み、焦りはミスを引き寄せる。
相手の突きを払った瞬間、地面の凹みに足を取られバランスを崩す。敵はそんな隙を見逃すほど凡庸ではない。かくして正確な軌道で首に近づく剣を、前屈みの姿勢から地面に倒れ込んでかわす。しかしこれは悪手だ。次の一撃を防ぐにも起き上がってかわすにも一瞬とはいえ間を要する。勝利を確信した敵が再度剣を振り下ろすのと同時に、瞳は地面に這いつくばった姿勢から宙に飛び上がった。そのまま空中で一回転して着地すると切断された髪の毛が一房、サラサラと風に舞った。
瞳が繰り出したのは振一郎が見せた剣を飛ばす技の応用で、腕や足の動作を伴わずに地面に力を伝え跳躍した。瞬間的にとはいえ超高度な力の制御をやってのけたのである。しかしその偉業を実感する余裕は瞳にはない。
今、ジャンプできなければ間違いなく死んでいた。次も同じようにかわせるとしたらそれは奇跡以上のことだろう。
思い浮かぶのは守ると誓った人。そのためならなんでもすると決意した。今、その想いが試されている。「なんでも」に人殺しは含まれている?死ぬまで罪悪感を抱えていくことは?人を殺した手で守るべき人を抱きしめられる?
「それでも、生きて帰らないといけないの」
次の瞬間、哀れな敵兵の脚は支えるべき体重が半分になった。
肩で息をしながら地面を流れる赤い筋を見る。不思議と心境に変化は感じなかった。だが、きっと今日のこの日を一生忘れないだろうという確信はある。拾ったものと捨てたもの、どちらが大きいのか。今の瞳にわかるはずもなかった。
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