パン屋と拳
事態が動き出したのは、その翌日のことだった。
「おかしいとは思わないか? 神々はこの街で清く暮らす限り、我らに永久の平和を保障した。であるのに先日のゴブリンの侵攻に、果てはエルフだ! これは誰のせいかわかるか?」
集団の中央で男はそう拳を振り上げていた。胸には銀色に輝くバッジ。ヒストリア会を意味するその文様を堂々と背負って、男は東通りの広場でそう意気揚々と語っている。時刻は昼だ。そんな時間からはた迷惑な場所で大声を上げている者がいれば、誰だって興味を抱く。いつしか野次馬的に人だかりが現れ、男はその中で一層声を張り上げた。
「騎士団のせいだ! 奴らが神との約定を破ったのだ! 奴らが日々何をしているか知っているか? 罪のない魔物たちを斬っては殺し、神々の平和の教えに反した行為をしているのだ。それ故に神々は我らに天罰を下した。それがあの夜の侵攻だ。全ては騎士団のせいであり、やつらがこの街に厄災を招いた!」
「……いや、流石にそれは道理が通らなくないか?」
そう野次馬のなかでバルガスは……すぐそばの店でパン屋を営んでいる男は何となく呟いた。バルガスの店は東通りの広場に面しているから、いつもそれなりに騒がしい。けれどもここ数日の騒動は今までとは比べ物にならないほどのものだった。営業妨害と言っていいほど。バルガスは腕を組みながら、集団の真ん中に立っている男の方へと向き合う。
「騎士団の奴らが毎日コツコツ魔物をすり減らしてくれてるおかげで、やつらが街のすぐそばまで来ることはねえんだろ? いくら防壁があるってったってすぐ隣にゴブリン共の住処があるようじゃよく眠れねえしな」
「では聞くが貴様、なぜ騎士団のその言葉を手放しで信じることができる? 本当に騎士団のその行為が必要なものであると誰が証明できる? ……そもそも奴らはあの夜、もうすでに滅んだと言われていたエルフと戦っていた。その存在に動揺することなくな。これが何を意味するか」
男は拳を振り上げた。途端野次馬の連中の一部が歓声を上げる。バルガスはそっと息を吐いた。どうやら連中、既にサクラを仕込んだうえで演説に臨んでいたらしい。こういうところは妙に小狡い奴らなのだ。
「奴らは我々から真実を隠していたのだ! エルフの存在を知っていながら隠していた連中のことを信用できるはずもない! そう思うだろう!?」
「いや、思わねえよ」
論理の飛躍も甚だしい。鼻を鳴らす。確かにバルガスは騎士団の連中とそれなりの関わりもあるし、奴らに寄った目線で物事を考えてはいるだろう。けれどもどう贔屓目を除いてみても、騎士団の連中があの夜文字通りの死に物狂いで戦いに赴いていたという事実は変わらないように思えた。エルフ云々についてはバルガスにとっては……それから恐らくこの街の大半の人間にとっても、どうでもいいことであるし、こうも騎士団に反旗を翻す理由がバルガスにはひとつたりとも思い浮かばなかったのだ。
そう呆れ半分にバルガスは周囲を見渡して、そしてふと違和感に気づいた。
「……あ?」
周囲の人間の目がみな、一斉に非難するようにバルガスの方を向いている。男の大声につられただけの野次馬でしかないはずなのに。まるでそれは心の底から今の男の主張を信じていて、反対の意見を述べるバルガスを許さない信者のような瞳だった。
「確かに、騎士団は何かを隠しているのかも。私たちに隠れてこそこそと……」
「あいつらのせいで、いや、でも、」
「そもそも奴らが俺らのために一体何をやってくれたって言うんだ?」
違和感、どころではない。バルガスは思わず一歩後ずさった。つい数秒前まではバルガスと同じく眉唾といった顔で男の話を聞いていたはずの周囲の人間が皆、目の色を変えている。頭の中の何かを書き換えられてしまったような。それほど劇的な思考の転換だった。
「おい、お前ら……正気か?」
おかしい。こんなのはおかしい。ただ話に煽られて乗せられてしまったなんてそんな次元の話じゃない。ここ数日のこの街はおかしなこと続きだったが、いよいよ洒落にならない何かが起き始めているのだ。きっと。そう唇を引き攣らせたバルガスを見やった男は、まっすぐにその指先をバルガスへと向けた。
「さあ皆、目覚めた者たちよ。為すべきことを為せ。……背信者はこの街には不要だ」
次の瞬間すぐそばに立っていた男が……バルガスのすぐ隣の道具屋の知り合いが、色の抜けた瞳でバルガスを見る。ただ目標物を見ているだけのような無機質なその視線に身震いをすれば、彼は何の躊躇いもなく拳を握った。
「は、いやちょっと待てよ。冗談だろルーカス!?」
「……」
「なんとか言えって!」
がつん、と視界に白い星が飛ぶ。それから数秒後にやっと自分が殴られたことを理解した。さらに遅れて内臓に鈍い痛みが走って、膝から崩れ落ちる。一周回って笑ってしまった。こんなの、どうすることもできない。
ふわりと場違いな柔らかい花の香りが鼻をくすぐる。季節でもないのに一体なぜか、なんて考えていればまた冷徹な瞳がバルガスを見下ろした。
「おい、ルーカス。何考えてやが、!」
崩れ落ちたバルガスにさらに追撃を加えるように蹴りが飛ぶ。いよいよ視界が暗くなった。バルガスはレオとは違う。バルガスの手はパンを捏ねるためにあるのだから、当然こんな状況で反撃ができるわけがない。
バルガスはただ殴られるままに意識を手放しかけて、ちょうどその寸前に遠くからの誰かの叫びが耳を擽った。
「……っとおい何してんだテメエら! おっちゃん、…い! 聞こ……っか!?」
ふ、と唇が緩む。ほらな、やっぱり案外騎士ってもんは信用できるだろ。そんな内心の呟きは残念ながら声にはならなかったが、バルガスは安心して意識を手放した。
♢
「……で、バルガスのおっちゃんは?」
「先程医務室で目を覚ましたそうだ。治療魔法もよく効いたから、もう身体には問題はないようだが念の為明日まではここに残ってもらうよう言っておいた」
「なーら良かったっすけど、一体何があったんですかね」
レオのその問いに、セレナは無言で首を横に振った。
今週になってもう何度目かもわからない喧嘩騒ぎがまた東通りで起こっていると連絡を受けたのが数時間前。丁度すぐそばにいたレオが何となく嫌な予感がして広場へと駆け込めば、そこは一歩間違えば死者が出ていたかもしれないリンチの現場と化していたというわけだ。
「……一応周辺にいた人々には聞き取りをしたんだがな、皆が皆あの時は正気を失っていたと。まるで夢でも見ているようで、とにかく意見に反論する彼への怒りの意識だけで塗り潰されていた。そんなことを言っていたよ」
「洗脳魔法っすか?」
「私もそう思ったが、リゼもヒースも魔法の痕跡はないと言っている。お前も特に感じなかっただろう?」
「そうっすね。あん時は必死だったからあんま覚えてねえけど、禁忌魔法が使われてたら流石に気付くはずですし」
いくらレオがあの時、興奮した集団の中からバルガスを引っ張り出すのに必死になっていたからといって、そんな大きな何かを見逃すとは思えない。まだジンジンと痛む腫れた頬を押さえつつ、レオはその時のことを思い起こした。
「……あれ、感覚的にはこの前のゴブリンの群れに似てたってか、やっぱ誰かに操られてるようには見えたんですけどね。そうじゃなきゃいきなりバルガスのおっさんを殴るなんてことするわけないし」
「となると問題は誰が彼らを扇動したか、ということだな」
「そりゃあ、件の大説教かましてた男に決まってるでしょ」
と言えどもレオはその姿は見ていないのだけれども。レオが現場に到着してバルガスの救出を終えた頃には、とうに黒幕の姿はどこかへ消えていた。逃げ足だけは早いクソ野郎だ。
レオもすぐにその後を追えれば良かったのだが、半ば暴徒化した市民の間を切り抜けねばならないという条件下ではどうすることもできなかった。襲ってくる相手をこちらから手出しせずに大人しくさせるのは無謀というものだ。そのせいで一発頬にしっかりと喰らってしまったし。
重く、セレナの嘆息が部屋中に響いた。それも道理だ。
ヒストリア会の存在だけでも迷惑だというのに、とうとう何らかの手段を使って市民すら巻き込み始めた。こうなったなら、可能な限り早くヒストリア会を鎮圧する必要がある。のだが、その糸口は今のところ一切見つかっていない。
「どうしたもんですかねえ。早いとこ奴らの根城でも見つけないと、またバルガスのおっさんみたいな被害が……」
とそこまでレオが口走ったところで、勢いよく団長室のドアが開いた。
「セレナさん見つけました!! 今日の夜です!!」
そう肩で息をしながら飛び込んできたのはニーナだった。紅潮した頬から判断するに、相当焦ってここまで走ってきたらしい。ということは、何か新しい情報を掴んだに違いない。
ニーナはレオのその予想に違わず、にまりと口角を上げた。
「ヒストリア会の末端構成員が裏でこそこそ勧誘してるのを聞きつけました。何でも今日の夜、ヒストリア会が主催するパーティーがあるんだそうです。そこで会の理念だとか目的を語るから、是非来ないかと誘っていて」
「なるほどな。よく聞きつけてくれた。ちなみに場所は突き止められたのか?」
「はい! 西地区の区画12あたりの地下だそうですよ」
ただし、とニーナの声色が少し暗くなった。手のひらに乗ったままのネズミの背をくるくると撫でつつも、視線は少し遠くの窓の外を見ている。
「……向こうはおそらく私のネズミの存在を知ってます。だから地下空間を選んだんでしょう。入り口は一つしかなくて、その入り口には使い魔封じが張ってあったんです。だからこの子たちを潜入させるわけにはいかない」
「なるほどな。向こうもなかなか頭が回る」
「でもこの機を逃すわけにはいかねえよな」
レオのその言葉にニーナはこくりと首を振った。ここ数日ずっと街の揉め事やその他のトラブルの回収にかかりきりになっているニーナは、レオよりずっと事態の深刻さを理解している。もう時間がないのだ。ただでさえ先日のエルフの一件で街の中には動揺が走っているというのに、その隙を突くようにレオたち騎士団への不信を煽るようなヒストリア会の演説が街の各地で行われている。そして奴らのその言葉を聞いたものは、どういう理屈かさっぱりわからないがその意見に心酔して容易く銅色のバッジを受け取ってしまうわけである。
だから、ニーナが掴んだその情報は決して逃せないチャンスだった。
ニーナは難し気に眉間に皺を寄せながら、指を二本立てた。
「やり方は二種類あります。一個目はシンプル。騎士団の名のもとに正面から突入する。もし件の会場にヒストリア会の上層部がいれば捕縛できるかもしれませんし、何か奴らの秘密を暴ける可能性はある。でももしいなかったらただの無駄足になりますし、市民たちの間での騎士団の評判は一層落ちるでしょうね」
「リスクは高く、リターンは少ないか。もう一案は?」
「……パーティーに潜入するんです」
ニーナのその言葉にレオは首を捻った。
「オレらが? 無茶じゃね? まあまあ顔も知られてるし、会場に踏み入った瞬間に石投げられて終わりだろ」
「ですから、潜入するのはリゼさん、ヒースさん、それからレオさんです。お三方は変身魔法、使えますよね?」
ああ、とセレナが楽しげに首肯した。やっとレオにも話が見えてくる。つまりはニーナは、変身魔法で身分を隠したうえで奴らの元へと潜入して情報を盗んで来いと言っているのだ。
「確かにそれならば最初の案よりはマシだな。向こうにリゼ達以上の腕前の魔法使いがいない限りはバレる心配もないはずだ」
「うーん、ま、そうっすね」
ぽりぽりと頭を掻く。本音を言えばレオはさほど変身魔法が得意なタイプではないのだが、まあどうにかはなるだろう。なんにせよバルガスの敵は取ってやらないといけないのだ。あの店はレオの行きつけなのだから、早く元気になってくれないと困る。
「ま、リゼさんとオレがいれば最悪血を見る騒ぎになってもどうにかできますしね。まあ大丈夫っしょ」
「……市民に下手に手を出すなよ」
「まー善処しますー」
その善処の結果がこの頬の腫れなのだけれども。まったく、悉く市民相手の戦いとは面倒である。魔物相手の時は何も考えずにすべてを消し飛ばせばよかったが、今回はそうもいかない。レオはやれやれと肩を竦めた。とりあえず今日の夜までには変身魔法の術式でも思い出しておかなければならない。
レオのそんな様子に不安げにひっりとセレナが息を吐く音が、背後から聞こえた。
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