まだ死ねない
その瞬間、まず初めに感じたのは奇妙な振動だった。
「……師匠?」
ふと遠くの、門の向こうの野外へと視線を送ったリゼにヒースがそう不思議そうに首を傾げた。彼に倣うようにクロムとセレナもリゼの急に険しくなった表情に、訝しげに眉を寄せる。
リゼは腰に帯剣したままの重い一刀に、ヒースを抱き止めている逆の手の指先で触れた。
「音がする」
「音?」
「馬の足音だ。もう今日壁の外に出ている隊員はいないはずだよね?」
「ああ、取り残されている隊もいないはずだぞ」
「っていうことは、この音は誰のものなんだろうね」
セレナの視線が尖る。次いでクロム。リゼはまだきょとんと目を瞬いているヒースを後ろ側に庇うように立つと、大剣を構えた。
「ヒース、何かの気配を感じたりする?」
そう問えば、ヒースの覚束ない指先が丁寧に魔力の糸を編み出した。相変わらずその年にしては規格外の魔法使いだ。リゼがこっそりと舌を巻いているのには気が付かぬまま、ヒースは眉根を寄せて口を開く。
「……わからない、けど、確かに門の向こうに何かがいるような気がします。ゴブリンより、もっと強い。師匠と同じくらいの気配です」
「そう。探知魔法も上達したね。褒めてあげる」
そう冗談めかして言ってみても、ヒースの強張った表情は変わらない。幼いながらも異常事態の気配には気付いているのだろう。リゼは誤魔化すように口角を上げると、大丈夫、なんて小さく耳元で囁いてくるりと彼に背を向けた。
「クロム、セレナ。私が一旦様子見する。あんたたちは後方待機。状況を見て加勢して」
「応。……しかし何が一体襲ってくると?」
「さあね。強力な魔物か何かは知らないけど、なんにせよ友好的な存在とは思えない。つまりは騎士の出番だよ」
遥か遠くに響いていた馬の足音が、今では明確に誤魔化せないほどすぐそばで鳴っていた。数は五つ。この壁の外に人間がいるとは考えられないが、だとしたら彼らは何者か、なんて考える必要もない。
何であれ、リゼはただ戦うだけだ。
3、2、1。その頭の中のカウントときっかり等しく、リゼの視界はその敵の影を捉えた。
「
そう素早く詠唱して、先手必勝とばかりに一団の先頭へと攻撃を加える。けれども確かに命中したはずのリゼの一撃は相手の身体をふらつかせることすらできない。舌打ち一つ。恐らく防御魔法を使っているに違いない。つまりはリゼと拮抗するほどの優秀な魔法使いであることの証明だった。
その一団……フードを目深に被った人型の何かたちは、城門前でぴたりと馬を止めると、悠々とした仕草でリゼたちの前に降り立った。ごくりと喉を鳴らす。確かにヒースの言う通り、リゼと拮抗するほどの魔力量の存在が五つ。これは厄介。背中に流れた冷や汗を隠すように、リゼは一歩前へと踏み込んだ。
「どうも、ヒルバニアにようこそ。で、あんたたちは何者?」
「……ふむ、ここがヒトの街か」
そう、先頭の何者かは口を開いた。ひび割れた聞き心地の悪い声。リゼが顔を顰めると、数歩後ろで剣を構えたクロムが一歩足を引く音が聞こえた。リゼより数段血気盛んな彼女らしい仕草だ。
そんなクロムの動きをどう取ったか、フード姿の男は真っ直ぐにリゼたちに指先を向けた。
「他愛ない。どれほどの者がいるかと思ったが、この程度とは。儂が出るまでもなかったか」
「だからあんたが誰が私は聞い、て!」
そこまで言いかけて、リゼの残りの言葉は強制的に目の前の男の動作によってキャンセルさせられた。無言詠唱。純粋な魔力が目の前で勢いよく膨らんでいく。
リゼは反射的に背後のヒースを抱きかかえていた。次いでとてつもない爆風。身体を燃やし尽くすような熱風が吹き荒れる。霞んだ視界の中で、目の前の男がにやりと笑ったのが見えた気がした。何らかの魔法で城門ごとリゼを吹き飛ばしたらしい。
リゼはヒースを庇うように地面をごろごろと転がって、すぐそばの家屋の壁に叩きつけられた。爆発の余波で割れたガラスに思い切り突っ込んだせいで、背中に無数の破片が突き刺さる。思わず痛みに顔が歪んだが、そんなことにかかずらっている余裕はない。
「……ヒース、無事?」
まず確認するべきはそれだった。リゼはふらりと立ち上がると、腕の中のヒースを瓦礫の山の影にそっと置いた。リゼの反射はどうにか間に合ったらしい。ガラスで全身を切って血塗れになったリゼとは対照的に、ヒースの白い肌は少しばかり瓦礫で煤けただけで傷一つない。
「リゼ、」
「私がいいと言うまでここで隠れていて。大丈夫。私がいるんだから。大丈夫だから。……いい子だから、出来るね?」
そう微笑む。割れた額から垂れた鮮血を雑に拳で拭い取って、リゼは剣を握り締めた。ヒースは何か言いたげに唇を震わせて、それからごくりと言いたかった言葉を飲み下したように口を閉じた。
良い子だ。物分かりのいい、頭のいい子。今日だけはリゼは彼のそんな美徳を利用しなければならない。リゼはまだ不安に震えるヒースの姿を見て見ぬふりして、まだ爆風の止まぬ城門の方へと振り返った。
足を引き摺って数歩。土煙で視界の悪い中、リゼはまたそのフード集団へと向き合った。クロムもセレナも遠くまで吹き飛ばされてしまったらしい。つまりはこの5人に今向き合っているのは、リゼたった一人だけ。
リゼは笑った。にやりと、無理矢理に口角を上げて。
「ねえあんた達、何者? 教会に街の外に放り出された背教者? それとももしかして、ヒトですらない?」
「ふむ、まだ生きておるものがおるとはのう」
先頭のフード姿の何者かは興味深そうにそう呟くと、静かにそっとフードを下ろした。
老人の皺がかった肌に、アメジストのような瞳。白色に変わった髪。そこまではいい。問題はその次。
老人の耳は、人間ではあり得ない形に尖っていたのだ。
「……エルフ」
「お主のその胆力と幸運に敬意を表して、姿だけは表してやろう。矮小なヒトよ。今日が貴様らの命日じゃよ」
「私たちを、滅ぼすつもり?」
リゼの今にも引き千切れてしまいそうなそんな声に、老人は楽しげに鼻を鳴らした。
「そうじゃよ。もはや逃れられぬ運命に覚悟すると良い」
「馬鹿が。私はそんなに諦めが良くないよ。いきなり滅びろだとか言われてさ、はいそうですかなんて言って剣を手放すほど人間は素直じゃないの」
ぐ、と失血のせいでもうまともな感覚もない右手に力を込める。地面を蹴る。半分血の赤色で染まった視界の中で、リゼは確かに彼らエルフを睨みつけていた。全身に走る激痛の中、明確な怒りだけがリゼを突き動かしていた。
「
その呼びかけと共に現れた水の刃は、左側に立っているフードの男に向かって飛ぶ。けれども容易くその一撃は躱されて、僅かにローブの裾を斬っただけで終わった。彼ら相手に魔法はまともに通じないらしい。リゼはそのまま大剣を大上段に掲げると、流れるように連撃を放つ。
「死ね!」
「……
斬りかかった男は、落ち着いた様子でそう唱えた。途端現れた炎の槍がリゼの右腕を貫いて、消し飛ばす。文字通り。一瞬激痛に飛びかけた意識をどうにか引き戻して、リゼは左手で剣を持ち直した。腕が無くなったことで身体のバランスが一気に崩れる、けれどここで倒れるわけにはいかない。
「――絶対に、殺す!」
まさか腕を一本燃やし尽くされて尚リゼが立ち向かって来るとは思わなかったのだろう。一瞬、フードの向こう側で男が動揺したように目を瞬く。
左手で強引に振り回した剣が、男の腹を真っ二つに切り裂いた。重い大剣を無理に掲げたせいでぶつりと手首の腱が切れた音が気がしたけれど、気にする必要はない。だってどうせここでリゼが彼らを止められなければ、リゼの後ろにいる人々は……セレナは、クロムは、ヒースは、皆死ぬのだ。であれば腕の一本や二本ぐらい捨て去れる。
「お、前は……!」
「うるさいな、黙って死ねよ」
止めとばかりに、赤々と良く見える内臓に向かって剣を突き立てた。ぐちゃりと聞くに耐えない音が鳴り響いて、心臓が潰れた男が地に臥す。いくらエルフと言えども心臓を潰せば死ぬらしい。これはいい発見。リゼは片腕を失った身体をふらりと傾けながら、残りの四人の方を振り返った。
「あと4回、これをやればいいわけね。上等。楽な仕事だこと」
「……何故その身体でまだ動ける」
「さあね」
右腕を炎で焼いてくれたのが良かったのかもしれない。お陰で断裂部はきちんと止血されて、最低限の出血量で済んでいる。……なんてそんな話じゃないのはわかっているけど。
リゼはへらりと微笑んだ。剣をまた構えたまま。
「意地だよ。私が死ぬのは、あんたたちを全員殺し切った後。そう決めた。決めたから、私はまだ死ぬわけにはいかない」
「剣を手放せば、楽に殺してやれるものを」
「そう。でも絶対にそんなことはできないの。私の後ろには守らなきゃならないものがある。だから私は、死ぬ瞬間まで剣を振り続ける」
そう啖呵を切る。けれども言葉とは裏腹にリゼの意識は今にも吹き飛んでしまいそうなほどに酩酊していた。全身の血管が時速300kmで悲鳴を上げて、アドレナリンが神経の間を飛び回ってはどうにか気絶しそうな脳を叩き起こしている。でもそれももう限界。リゼは剣を杖のようにして身体を預けながら、フード姿の一団を睨み付けた。
足を引いて、跳躍の準備を固める。きっとこれが最後の一撃。リゼがそう胸の内で小さく呟けば、ふと霞んだ視界の中に何かの影が見えた。
――黒い、神。
何故そう思ったかはわからない。けれどもリゼはその瞬間、明確にその影を神だと認識していた。
一瞬にして、リゼとエルフの間の張りつめた空気が止まる。まるで停滞した時間の中に閉じ込められたように。爆風と土煙の中で、リゼはゆっくりと顔を上げた。黒い男だった。頭からローブを被っているせいで、その人相も体格も一切わからない。けれども今この場において、その男はリゼよりもエルフよりも何段も強く存在感を放って、空間を支配していた。
死にかけのリゼの目の前に音もなく現れたその何かは、四肢の一部を失って内臓もいくつか弾け飛んだリゼの身体を興味深げに眺めると、くすりと口角を緩めた。
「面白いね、やはり人は」
「……何、あんた。邪魔しないでよ。私はあいつらを殺さなきゃいけないんだから」
だから、邪魔しないで。リゼはそう口の端から血を垂らしながら囁いて、その黒色の神を追い越そうと無理やりに足を動かした。けれども意思に反して身体は正直だ。限界を超えた筋肉がぶちりと音を立てて切れて、リゼは前のめりに石畳に崩れ落ちた。
初めて、涙が溢れ落ちた。死ぬほどの痛みと苦しさを凌駕するほどの悔しさがそこにあった。どうにか腕をはためかせて立ちあがろうとするけれど、爪の取れた指先が石畳を引っ掻くだけで身体は動かない。
「な、んで」
「愚かだね」
リゼを見下して、その影はそう呟いた。見上げて睨みつけることすらできない。リゼは徐々に暗くなる視界の中で、最後の空気を肺から押し出して声を出した。
「まだ、死ねない」
まだ、こんなところで死ぬわけにはいかない。まだ剣を手放すわけにはいかない。だってリゼの後ろには、リゼの守りたい人たちがいる。どれほど苦しくたって、痛くたって、リゼはまだ戦いたいのに。なのにどうしてこの身体は言うことを聞かないのか。
薄れゆく意識の中で最後までそう怨嗟を抱いていれば、ふと耳に何かの音が響いた。ほんの数秒後、それが拍手であることに気づく。リゼを見下ろしたあの謎の影……黒い神がリゼに祝福の拍手を贈っているのだと、脊髄からの反射が本能的に告げた。
「――素晴らしい。実に良い。これでこそ人間だ。ほらね、だから僕は滅ぼすには惜しいと言ったんだよ。こんなにもヒトは面白いんだから。ねえリゼ」
神は、悪魔の如くリゼの耳元で囁いた。
「僕を楽しませてくれた褒美をあげよう。君はここで舞台を降りるには早すぎる。まだ舞い続けてよ。僕を楽しませてくれないと。……君に加護を与えよう。その力で、守りたいものを守るといい」
どくん、と心臓が鳴った。止まりかけていた筋肉の脈動が強引に再生されて、のたうつほどの激痛が全身を襲う。全身の筋肉と骨と内臓が一度潰されて、再構築されているような地獄の苦しみ。目から生理的な涙をぼろぼろと溢しながら、リゼはふらりと立ち上がった。立ち上がれた。既に消えていた命火が無理矢理に繋ぎ止められたように。
リゼは剣を片手に、薄く息を吐いた。
気まぐれな神が与えた加護は、リゼに不死の命を与えた。
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