追憶の10年前
クロムの紅茶でも飲みながら、なんて戯言はどうやら本気だったらしい。目の前に置かれた少しひび割れたティーカップと、何やら不貞腐れたように頬杖を付いている男。そしてそんな男とリゼに挟まれておろおろと視線を彷徨わせている少女。
どうしてこうも面倒なことに巻き込まれるのか。どこで間違えた。あのエルフを街に届けてこっそりとお暇するだけのつもりだったのに。リゼの嘆息が無言の部屋に響いて、また少女はー-ニーナというらしい彼女は気まずそうに身をよじらせた。
「あーえっとさ、とりあえず私もう帰っていい?」
「帰るってどこに帰るつもりです?」
ヒースが白眼でこちらを睨む。瞳の中の緑がより一層強く濃くなった。ヒースにしては珍しく神気のコントロールが上手くいっていないようだ。誰のせいか。リゼのせいだ。とにかくわかるのは、今ヒースは本当に珍しくめちゃくちゃに怒っていて、リゼはおそらくこの場から離れられないだろうということだけ。
がちゃん、とヒースのティーカップが派手な音を立ててテーブルに叩きつけられる。辛うじて割れはしなかったとはいえ、既に虫の息だ。
「リゼ、貴方の帰る場所はここでしょう。もう今更この状況で、貴方の存在を市民から隠さなければいけない道理なんてない。クロムの言っていた通りです」
「そうは言っても物事はそんなに単純じゃないだろ。私の存在はことによればエルフよりも厄介なわけだし、第一私ってばもう10年前に死んだことになってるし」
「そんなもの、僕がどうとでもします」
「あー……」
リゼは天を仰いだ。今日のヒースは思ったより頑固だ。昔はリゼの言うことを一から十まで信じ込むような可愛いところもあったくせに、10年の歳月は少年を容易く変えてしまう。
リゼがまた言い返す言葉を思いつかず口を閉じると、そろりと隣の少女、ニーナが手を挙げた。
「あの、すみません。私まだちっとも状況が分かっていないっていうか。そもそもこの方はどなたです? 前にケイさんが言っていた?」
「そう。そのリゼ。……そうだね、一度何にしても説明が必要か」
「本気? ヒース」
「本気です。既にニーナのことは巻き込んでしまっているんですから。せめて事情くらいは知らせるのが誠意だ」
さて、ニーナちゃん。とヒースのやわらかい声色がひっそりと響いた。どうやら止められそうもない。それにヒースやクロムが言っていることも一理あった。既に時勢は動いている。なればこれ以上リゼのことを隠し通す必要もないのかもしれない。
「話は長くなるんだけどさ。まずは300年前に遡ろうか。300年前、当然知っていると思うけど例の……神による世界の掃討が起きた。人間もエルフもみんな平等に殺された。原因も理由もなにもかも不明。結果だけが明白。この地球の全域に白い光が降り注いで、ありとあらゆる文明は死に絶えたわけ。発達していた科学も何もかも一斉消去。一からやり直しましょうね、なんてのが神の意図なのではって一部の神学者は言ってるけど」
「はい、そのことは流石に知ってます。その時に唯一光が落ちなかったのがこの街、ヒルバニアなんですよね」
「正確には光が弾かれた、だね。大破壊のなかで突如この街にだけ防壁魔法が発動して、以来現在まで消えることなく作動し続けている。それ故、その後の数十年をかけて生き残った人類はこのヒルバニアに集まって、都市を築いた。それがみんなが知ってるこの街の成り立ち。なんだけど、問題は」
ヒースの視線がちらりとリゼの方を向く。具体的にはリゼの真っ黒な神気の宿った瞳に。
「問題はね、まずは神の存在。300年前のあの日までは、神はただの空想の産物だった。そりゃあ信仰は存在してたけど、今僕たちが知るような神々の存在は誰にも――エルフを除いてだけど――誰にも知られていなかった。それが突如として現れて世界を滅ぼして、生き残ったほんの少しの人類の前に降臨したわけだよ。大パニックだよね。で、そのパニックを増長させるみたいに、人間以外の種族は全て滅ぼされたって宣言した」
その時の様子を記した資料はそう多くない。ぼんやりとヒースの語りを聞きながら、リゼは頭の中で数少ない資料のうちの一つを思い起こした。
降臨の様子を描いたとされているその絵には人々に言葉を告げる5柱の神と、それからそれを見下ろす2柱が描かれていた。それが、神。人と同じような形をした、地球規模の災害。どんよりと息を吐く。
「……まあでもその言葉は嘘だったんだけど。現にエルフは生き残ってどこかで僕たちと同じように300年間細々と暮らしていたみたいだし、ほかの種族だって僕たちが知らないだけで生き延びている可能性は十分にある。なんにせよ300年前のその事件をきっかけに人間の生活は180度転換して、科学は神によって取り上げられた。幸い魔法はまだ人類の手元に残っていたから、人間は魔法を中心とした現在の文明をどうにかこうにか築き上げたってわけ」
「魔法と、それから神気ですね」
「そうだね。神気に関しては初めて発現した人が現れたのはだいたい150年前って言うけど……。まあ詳細は不明。神が矮小な人間に魔物に抗うための力を授けただとか言うけど、それもよくわからない。まあとりあえず人間はよくわからないなりに神の存在を信じて、神の言葉を信じ、自分たち以外の知的生命体は全て死んだと思い込んで生きてきたわけだよ。10年前まではね」
リゼはぼんやりと虚空を見上げた。10年前、あの日を思い返して。じくりと傷んだ古傷はどういうわけかまだ癒えていない。その痛みに引きずられるように、リゼはゆっくりと口を開いた。
♢
丁度10年前のあの日も、今日のようによく晴れ渡った夏の日だった。
「リゼ、あなた酷い顔よ。せめて街に入る前になんとかしなさい、それ」
城門前。外壁付近に溜まった魔物の掃討を終えたリゼとセレナに、そうクロムは指を突きつけた。いつも通りの全く騎士らしくない豪奢なドレスに身を包んだ彼女は、魔物の臓物を頭から被った血まみれの二人の様子に耐えきれなかったらしい。
リゼとセレナは顔を見合わせると、お互いの身体を見て同時に吹き出した。
「おいリゼ、お前髪が血で絡まって鳥の巣みたいになってるぞ」
「セレナがそれ言う? 返り血で殺人鬼みたいだよ。こんなので街に戻ったらみんな泣いちゃうって。麗しの光の騎士様が血塗れゴーストに鞍替えだって」
「はいはい、二人ともそんなこと言ってる暇があったら着替えなさい。まずは湯浴みよ。その身体を綺麗にしてからじゃないと部屋の中に入れてやらないんだから」
クロムはそう腰に手を当てたまま半眼で言い放つ。そんな彼女の背後から西陽が刺して、カア、とどこからともなく夕暮れ時を示すようなカラスの鳴き声が響いた。同時に教会の鐘が鳴り響く。午後の鐘だ。
一日の終わり、それから教会学校の授業の終わりを示す音とともに、城の正面口から子供が溢れ出してくる。
その姿と夕焼けの始まった空を見上げて、リゼはそっと肩を竦めた。
「……一日って早いよね。今日もゴブリンと向き合って終わり?」
「残念だったな。まあ退屈とはいえ、大きな事件もない平穏な日常だと捉えれば良いものじゃないか」
「まあそれはそうだけどさあ」
街の外に出ては付近の魔物を斬り倒し、街の中のちょっとしたトラブル解決に奔走し、そうしてまた日が暮れる。そんな単調な毎日の繰り返し。まあ別にリゼはそんな日々にそこまでの不満を抱えているわけでもないのだが、退屈であることは確かだった。
ふわあ、と疲れた身体を城壁に預けて、子供の群れをぼんやりと見やる。午後5時。まだ夏であるから日が沈むまでは随分時間があるが、それでもほとんどの親は子供を迎えにわざわざ教会前までやって来ている。それもまた平和の証か、と考えていれば、やっと人混みの中によく見慣れた金髪と碧眼が現れた。
「リゼ!!」
その線の細い少年は、少し人混みから外れて街の隅に佇んていたリゼたちを目ざとく見つけると、ぱたぱたと走り寄ってくる。リゼはその少年……ヒースに目を細めると、小さく手を振った。退屈なリゼの毎日に数年前から現れたイレギュラー。
ヒースは血塗れのリゼとセレナにも物怖じすることなく、腕の中に飛び込んでくる。リゼの真っ赤に染まった騎士団の隊服に真っ直ぐ突っ込んできたヒースをリゼはぎこちなく抱き止めた。彼の親代わりのような役割を果たすようになってからもう軽く一年は経つが、それでも慣れないものは慣れないのだ。
「リゼ、おかえりなさい!」
「ただいま。でも今はちょっと待って。凄い汚れているから一旦離れて……」
「聞いて! 今日はじめて水の中級魔法が出来たんです! 早く師匠に見てもらいたくて」
碧眼がそうリゼの顔を上目遣いに見上げた。うるうると揺れる子供らしい瞳にリゼはう、と口篭る。その目にリゼは弱かった。少し考えてから手のひらについた血を隣のセレナの肩で拭うと、ヒースの流れの良い金髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜてやる。
「凄いじゃないかヒース。まだ13で中級魔法が使えるなんて、将来は騎士団長も狙えるよ」
「おいリゼ」
「早くバカ真面目脳筋のジークなんて追い落として、ヒースが私の上官になってくれればねえ。そうしたら私も楽ができそうなんだけど」
そう頭に騎士団長……ジークの顔を思い浮かべる。融通の利かない文字通りの騎士様。そういうところはセレナの兄であるだけあってよく似ているのだ。
そんなリゼの頭の中を見透かしたように、隣からセレナの苦々しい声が響く。
「リゼ、子供相手に適当なことを吹き込むな。あと私の隊服はタオルじゃない」
そうセレナの硬い拳が脳天に落ちて来て、リゼはぺろりと舌を出した。相変わらず冗談の通じない女。まあそういうところがリゼがセレナを好ましいと思っている部分なのだけれども。
そんないつも通りの茶番じみたやりとりを重ねていれば、呆れたようにクロムが肩を竦めた。
「全く。リゼもセレナもそんなゴブリンの臓物まみれじゃ子供の情操教育に悪すぎるわ。ねえヒース。こんな血腥いお姉さんに弟子入りするぐらいならわたくしの所で剣でも習わない?」
「こらクロム、人の弟子を掠め取るなって」
「……僕は、リゼみたいな魔法使いになりたいから」
ヒースのそのひっそりとした呟きに、リゼは機嫌良くまた頭を撫でた。百点満点の回答だ。
リゼがヒースを引き取ったのは丁度一年前ごろのことだった。元から魔法の才能に長けていたヒースにリゼは目をつけていて、数年前から魔術の師匠として関わりを持っていた。初めの頃はまだヒースの宅に時折訪れては魔術を指南するだけの間柄だったのだけど、一年前にヒースの両親がとある理由でいなくなってからはリゼが養子として彼を引き取ることに決めたのだ。
まだたったの13年しか生きていないくせに、普通よりもずっと波瀾万丈な人生を送る羽目になってしまった彼。そんな彼にリゼが血塗れの両手で渡せるものはそう多くはないが、せめて普通の子供としての平穏な幸せくらいは与えてやりたいと思っていた。
そう、考えていた。
しかしリゼのそんな願いは、今日この日をもって見事に崩れ落ちた。
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