おかえりと言わせてよ


「だからいい加減に人の話を聞けってんだろ!」

「聞いてないのはお前だ! 本当にお前はいつもいつもそうやって全部自分で勝手に決めてこっちの話は聞きもしないで、!」

「ちょ、まって二人とももうやめて……机壊れちゃいますってば!」


 阿鼻叫喚の騒ぎだった。扉を開けてすぐの入り口でレオはぼんやりと立ち尽くす。紙吹雪のように宙に舞う書類、吹っ飛ぶ本棚、雪崩のように崩れる貴重な古書、そしてセレナのデスクの下に潜り込んでぴるぴる震えているニーナ。これ、どう収拾つけんの。そんなレオの内心と一語一句同じ言葉を浮かべていそうな顔で、隣のヒースは顔を覆っていた。


「とりあえずニーナちゃん、こっちおいで。そこいると本当に巻き込まれるよ。リゼもセレナも我失うと平気で部屋の中で神気使い出すから」

「ひゃい……」


 そろそろ、と小動物さながらの動きでニーナが床を這いずってレオたちの側へと逃れてくる。その間もニーナの頭上をまた本がかっ飛んでいった。リゼの一投だ。その一冊をセレナは頭を逸らして回避すると、とんでもない重い音を立ててセレナのすぐ真横の壁に直撃する。寸前で避けたらしい。セレナの動体視力は一体どうなっているんだとたまに思う。


「避けんなよセレナ」

「話も聞かずに勝手に出て行こうとする馬鹿に大人しく殴られてやるつもりはない」

「だから、一応お前には報告しにきたでしょ! それで話したら間髪入れずに殴りかかってきたのはそっちじゃん!」

「殴るに決まってるだろこのバカリゼ!」

「どこの蛮族出身なんだよお前!」


 喧々諤々の酷い有様で、レオやヒースが口を挟む余裕もない。大体何があったら普段から落ち着き払っているあのセレナがこんな大喧嘩に発展するのか。レオは目の前の惨状から目を逸らすと、どうにか逃げ出して今はヒースの後ろに隠れているニーナを見やった。


「ニーナ、これ何があったんだよ」

「私もよくわかんなくて……セレナさんに報告することがあったから部屋の中に入ったらリゼさんとセレナさんが睨み合ってたんです。で、そしたら急に殴り合いが始まって、」


 咄嗟に身を守るためにデスクの下に潜り込んだら、今度はそこから逃げ出せなくなったらしい。とんだ受難だ。黙祷。レオが無言でニーナに向かって手を合わせると、ぺしりと割と力の入った手で頭を叩かれる。


「と、に、か、く! ヒースさん早くこの二人止めてくだい! このままじゃこの部屋崩壊しちゃいます!」

「やー、僕があの二人の間に割って入ったら良くて骨折じゃない? 僕ってば、か弱い回復術師だからさあ。ね、レオくん」

「そうっすね。オレもか弱い魔法使いなんでちょっと」

「何言ってんですか二人とも!」


 ニーナのその悲痛な叫びに応えてやりたい気持ちがないわけではないが、レオは自分の命が大切なタイプの人間である。ここにケイがいたらなんの躊躇いもなくあの壮絶な戦いの間に入っていくのだろうが。そう考えるとやっぱりあのバカ置いてきて良かった。


 がん、と音を立てて今度は窓ガラスが割れた。いよいよなところまで来ている。三人で顔を見合わせて息を吐いた。これはもうぐだぐだ言って放っておいていい場合じゃない。

 

 ヒースはぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜると、指先でくるりと円弧を描いた。途端ニーナとレオを囲うように緑色のドームが現れる。防衛魔法だ。思わずレオは絶句した。あの二人の喧嘩って、こんなものまで必要なくらいヤバいのか。


「あー、とりあえず二人はここで大人しくしてな。で、僕が一応止めてみるけど、ダメだったらクロム呼んで。……ったくなんでここまでヒートアップしてんのかなあ」


 のそのそと心底気乗りしなさそうな様子で、ヒースはそれぞれ本を片手に持ちながら睨み合っているリゼとセレナの間に立った。


「はーい仲裁員でーす。何やってんの二人して。喧嘩なら修練場でも使って……」

「セレナが先に殴りかかってきたから私は正当防衛」

「黙ってくださいリゼ。心底どうでもいいです。とにかくこれ以上貴重な古書をぶん投げるな。あとうちの部下をビビらせるな」

「リゼが馬鹿を言い出したのが悪い」

「リゼが馬鹿なのはいつものことだろ。そんなことで喧嘩始めないの」


 やれやれ、と肩をすくめるヒースが話を畳もうと口を開いたのに被せるように、セレナが低く呻いた。


「この馬鹿、またここを出ていくつもりだったんだぞ」

「……は?」


 空気が一気に五度くらい下がった。


 さっきまで呑気に肩を竦めていたヒースの顔が一気に蒼白になる。次いで目が細まり、くるりとリゼの方を向き直った。構図としてはセレナとヒース対リゼってところだ。


 これはまずい、とレオとニーナは蚊帳の外で顔を見合わせた。


「セレナ、詳しく」

「また街を出て外へ『帰る』そうだ。エルフの襲来はひとまず止んだから自分がここにいる必要はないだろうと。余計なリスクだから、だそうだ」

「なるほどね。……リゼ」


 かつん、とヒースの踵がいつもより強く踏みつけられる。明確な怒りの表現だ。ヒースは向かい合ったリゼの方へと一歩ずつ歩を進めると、今にも鼻先がくっつきそうなほどの距離まで追い詰めた。壁際に押し込められたリゼは、おろおろと逃げ場を探るように視線を彷徨わせている。


「リゼ。それ、同じこともう一回僕にも言ってもらえます?」

「……なんで?」

「ブン殴るので」

「君にしては理性的じゃない判断だね。いや、だって冷静に考えて……」

「冷静に考えて、リゼがまたこの街を出ていく理由がどこにあるんですか」

「いくらでもあるだろ」


 リゼは出来の悪い弟子に言い聞かせるように、指折り数え始めた。


「一つ目にして最大のリスクが神罰だ。10年前に騎士団本部が見事に吹き飛ばされたの、君も見てただろ。明らかに私を殺そうとしてて、それに失敗した憂さ晴らしか当てつけだった。また同じことが起きないとなぜ言える?」

「言えます。そもそもあの日、神々は一度貴方を殺そうとして、そして失敗した。もう貴方をどうにかすることはできないと検証し終わってるんです。わかりきったことをもう一度確認しにくるほど神も暇じゃないでしょう」

「暇かもしれないだろ、神とはそういう生き物なんだから」

「だとしてもそんな懸念は空が落ちてくることを憂うことぐらい無意味です」

「空が落ちるよりは確率が高い」


 肉体言語の次は舌戦に移行したらしい。レオはぼんやりとその戦いを眺めつつ腕を組んだ。リゼがヒースの魔法の師に当たることはなんとなく聞いていたが、確かにこうしてみると二人は似ている。皮肉な言葉選びとか、変に理屈っぽいところとか。性格悪そうなところとか。


 そんな場違いなことを考えつつレオが完全に観戦モードに入っているうちにも、二人の口調はどんどん早くなっていく。


「じゃあリゼはまた外に出て何をするんですか。この街の中にいた方が情報も早く入るし、エルフについてもそれ以外についても対応に貴方がいる方が絶対に……」

「別に私じゃなくてもこの街にはきちんとした戦力があるだろ。ヒース、君だって私がいなくても十分にやっていけてる」

「やっていけてません!」


 あ、とうとうヒースが理屈を手放した。ふるふると握られた拳が怒りで震えていた。ふむ、と首を捻る。これはそろそろ潮時かもしれない。


 レオはこそりと隣で完全にフリーズしているニーナに耳打ちをした。


「ニーナ、そろそろクロム先輩呼んで。これヒースさんも爆発するわ」

「同意見です……。起こしてきますね」


 するりとニーナが部屋から離脱する。昼寝を妨げられたクロムほど不機嫌なものはこの世にないが、それでも今は彼女がいないと本当に収拾がつかなくなる。


 ヒースは今にも殴りかかりそうなくらいに肩を強張らせてリゼを睨んでいた。その瞳は確かに強くリゼを責めていて、同時に親に縋る子供のように落ち着かなげに揺れていた。


「……師匠、本気で言ってるんですか? だとしたら本当に貴方は馬鹿だ。10年前だって、いきなり何も言わずに消えられて僕がどれだけ、」

「悪かったとは思ってるよ。けど」

「また僕を一人にするんですか」

「そうは言ってないだろ」

「言ってる」


 言ってるんです、とヒースの声が細く震えた。ああ、これは二択だ。殴るか、泣くか。レオは呆れたように宙を眺めた。


 別にレオにとっての10年前なんてまだ木の棒を振り回して街を駆け回っていたガキの時代だから、彼らの間に実際何があったかなんて知る由もない。ただこの数日間の付き合いでも、このリゼという少女がヒースやセレナやクロムにとってどれだけ大きな存在であったかはよくわかった。


 だから普段何が起きても穏やかな笑みを崩さないセレナが激昂して、いつも気怠げな様子のヒースがこうも必死になっている。


「師匠はいつもそうだ」

「……ごめんね」

「謝るくらいなら早く撤回してください」

「ヒース」


 リゼの手がヒースの頭の方へ一瞬伸ばされて、所在なさげにまた元の位置に戻る。まるで頭を撫でようとして諦めたような。


「……背が伸びたね」

「10年も師匠が放っておくからです」

「ごめん、ね」


 だから泣かないで、と少しだけリゼが背伸びをしてヒースの頭の上に手を置いた。ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜるせいでヒースの整えられた金髪は逆に鳥の巣のように乱れていくばかりだ。けれども、ヒースはその手を払い除けずにされるがままになっていた。


「……泣いてない」

「10年前はもっと素直で可愛かったのに」

「師匠も、前は僕が言えばなんでも聞いてくれたくせに」

「ちょっと甘やかしすぎたかな」


 リゼのそんな呟きには何も返さず、ヒースはただ俯いたままで唇を固く結んでいる。何となく目を逸らした。恐らくヒースは、その長い睫毛に付いた小さな雫なんかは決して後輩には見られたくなどないだろうから。


「師匠」

「うん」

「……置いていかないでください」

「あー、もう」


 そんなふうに言われたら、どうすることもできないじゃないか。


 それはリゼの事実上の敗北宣言だった。


 ♢


 つまりはね、とクロムはもはや廃屋一歩手前の状態になった部屋で口を開いた。


「わたくしたちは寂しいのよ。また貴方がいなくなることが。そこに理屈とか合理的理由とか確率とかそういうややこしい話は一切ないの。リゼ、わかるでしょう? わたくしたちはずっと寂しかったのよ」

「……うん」

「だからもう二度とそんなことは言わないで。じゃないとまたセレナが部屋一つ分を破壊して、ヒースが泣きじゃくる羽目になるから」

「うん」

「それでも貴方が勝手に街の外に出て行ったりしようものなら、今度こそわたくしが首根っこ掴んで引き摺り戻すから覚悟していなさい」

「……うん、わかった」


 クロムはその神妙な答えに満足げに微笑むと、膝を折ってリゼと目を合わせた。


「リゼ、もう怖がらないで。怖いなら言って。わたくしたちも一緒に貴方と背負いたいの。貴方がどれほど神を恐れていて、わたくしたちを巻き込むことを恐れているか知っているわ。でもね、わたくしたちは神に擦り潰されることよりも、貴方を失う方が何倍も恐ろしいの」

「……本当に?」

「本当よ。わたくし、意味のない嘘はつかないもの」

「そ、っか」


 そっか、とまたリゼは小さく繰り返した。リゼは叱られた子猫のようにぺこりと首を垂れていた。クロムの言葉の前では先程の舌戦など嘘のように何も言い返せなくなるらしい。

 

 時を遡って数十分前、ニーナがどうにかこうにか眠れるクロムを叩き起こして事情を説明すれば、普段の寝起きの悪さはどこに行ったかわからないくらいのスピードでクロムはこの部屋に駆け込んでいった。それからクロムのお説教が始まって、今に至る。ニーナは息を吐いた。ひとまずは一段落したようだ。

 

 ニーナがこの部屋を出てから一体何があったのかはよくわからない。が、レオがげっそりと一生分の生気を使い果たした顔で床にへたり込んでいて、ヒースが部屋の隅で壁に向かって突っ伏しているあたりロクなことは起きていなさそうである。


 席を外していてよかった、とぼんやりニーナは思った。直属の上司の結構な醜態はあまり見たいとは思えないし。


 とにかく大事なのは、クロムの到着が間に合ったということである。部屋の中の調度品は破壊の限りを尽くされているが、少なくとも壁は無事だ。無事って言ったら無事だ。異論は許さない。


 ニーナはレオと並ぶように部屋の隅っこに腰掛けると、また一つ欠伸をした。


「とんでもない大騒ぎでしたね」

「だな。二度寝してえー」

「わかる」


 昨日の出来事だけでもニーナはもう疲労困憊だったというのに、また体力を使わされた。欠伸がまた溢れる。


 ニーナは荒れ果てた部屋の真ん中を見やった。クロムの正面で正座させられてまだ説教を聞かされているリゼに、その背後で腕を組んで立っているセレナ。そしてまだしぱしぱと瞬きを繰り返しながらリゼをじっと見つめているヒース。酷い光景だが、なぜか彼らの顔が妙に明るく見える。


 その理由は明白だった。

 

 だってニーナはこの先輩たちがこんなふうに笑ったり怒ったり泣いたりしている姿を見るのは初めてだったのだ。いつも冷静で、穏やかで、けれど心の一番深い部分は決してこちらには見せてくれない、そんな人たちだった。けれども今日は違う。


 今思えば彼らはきっと、ずっとリゼの存在を心のしこりにして抱えていたのだろう。彼らの心の深みにあるのはきっと、いつだってリゼだった。だからこうしてリゼの前では、ニーナたちには見せたこともないような姿を見せているのだ。


「ほんっとうに、リゼさんのことが好きなんだなあ」

「だな」

「何だかよくわからないけど、帰ってきてくれてよかったですね」

「そうだな」


 レオはそうこくりと頷くと、ニーナと目を合わせて呆れたように笑った。


 

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