罪科を数えて
「――死の神」
馬鹿な鸚鵡返し。けれどもそれが今のリゼにできる全てだった。
風の神、草の神、火の神、氷の神、水の神。はじまりの五柱。それに加えて未だ正体のよく知られていない、光の神と闇の神。その七柱がこの世界を作り、そして今この世界をこれほどの混迷に導いた元凶であるとされていた。八人目の神など誰一人として観測したことがなく、どのような文献にも記述されていない。少なくとも人類の元においては。
「フラン、教えてくれ。死の神について知っていることを全て。彼は何者で、どこにいて……何を考えている」
「わからないよそんなこと」
フランに今にも掴みかかりそうな勢いでそう問うたリゼは、唇を噛み締めた。10年間追い続けていた正体がやっと見えた。死の神。けれどもまだそれが何者なのかは一切わからない。
フランはくるりと指を回して、ゆっくりと口を開いた。
「あたしが知ってるのは、七柱に加えて死の神がいるってことくらい。あのお方はかつては他の七柱と共にあった。けれどもいつしか道を違えて……人の横に立った。そう聞いてる。それがいつの出来事なのかも、何故そうなったのかも知らない。でもね、リゼ。アンタのその力は明らかにあのお方のものだよ」
「何故それがわかる?」
「あのお方に会ったことがあるから。300年前のあの日」
フランのその囁きにリゼは凍りついた。
「300年前のあの日、エルフの前に七柱とあのお方が現れた。彼らが何を告げて、何をしていったかはあたしにはわからない。知ってるのは姫様だけ。その直後に世界は白煙に包まれて、エルフ以外の知的生命体は滅ぼされた。と、あたしたちは教えられた」
「……なるほどね。人間は人間のみが生き残りであると言い聞かせられ、エルフはエルフのみが生き残りだと騙されていた。この分じゃ他の種族も似たような経緯でまだ生存していそうな気がするよ」
「あたしもそう思う。10年前、人間がまだ生きてるから滅ぼしに行くんだって姫様から聞いた時、おんなじ疑念を持った」
フランは空を見上げた。白み始めた星空は朝の到来を予告している。月はどこかへと沈み始め、あれだけ明るく見えていた星々はいつの間にか消え果てていた。
「妖精、人魚。他にもまだいるかも。みんなこの世界に散らばってそれぞれの文明を築いている。そんな気がする。なんで神々がそんなことをしたのかはさっぱりわからないけど」
「神の心なんて読めたもんじゃないさ。どうせしょうもない愚かな理由だろ」
リゼのその皮肉にフランは鼻だけ鳴らして応えると、改めて背中のグウィンを担ぎ直した。グウィンの意識はまだないが、切り落とされた肩の血はもう止まっている。凄まじい生存力だ。それも金属パーツのおかげなのかどうなのかはわからないが。
とにかくグウィンを背負ったフランは、ひらりと手を振った。
「他に聞きたいことはある? ないなら帰らせて。夜明け前には戻らないと、姫様に怒られちゃう」
「いいや、十分さ。いい取引だった。……願わくばまた戦場で会うことがないといいね」
「そうだね。リゼ、アンタは本当に厄介そうだもん」
じゃあね、なんてどこまでも軽々しい言葉と共に、彼女はふわりと転移して消え去った。
♢
それは300年前のあの日より、さらに彼方の昔。もちろん我々は年数などという定命の者どもの尺度で物事を測っていないから、それがいつのことだったかは正確にはわからない。
ただわかるのはいつかの過去の日、彼は明確に袂を分ったということだけ。そしてその分離は、300年前をもって取り返しのつかないものへと成り果てた。彼は、『死』は、もう二度と我々の元へとは帰ってこない。
「……あーあ、どうしようね。バレちゃった、嘘が」
『風』は下界を見下ろしてそう嘯いた。とうとうその日が来てしまったようだった。他の種族がまだこの世界で生きている、という事実。いつまでも隠しておける類のものでもないが、この世界の安寧を維持するためには秘密にしておかなければならなかったのに。
『氷』も『風』に倣うように世界を見下ろして、彼女の言葉に応える。
「どうすることもできませんわ。彼らはもう知ってしまった。そしてわたくしたちは彼らに干渉する術をもう持たない。……『死』の作った結界は10年前からずっとわたくしたちを阻んでいる」
そう『氷』は呟いた。氷のように凍てついたその声がぼんやりと空間の中にこだまする。
そこはどこでもない場所だった。この世界のどこにも存在せず、どこにでも存在し得る空間。そもそも神という生き物は物質とは隔絶されたものである。肉体も持たなければ声帯も持たず、本来であれば意思疎通のために会話をする必要もないはずだった。それでもこうしてヒトによく似た姿形を取ろうとするのは、やはり自ら生み出した生命に対する愛着があるからか。
「……ねえ、『氷』」
「なんですの?」
「バレちゃったならさ、滅ぼすしかないと思わない? だってどうせ他の種族の存在を知れば、300年前と同じようなことを繰り返すよ」
「まだ判断には早いのでなくて?」
「早い? 冗談。私たちはもうこの300年、生き残りの彼らを見逃してきた。300年も待ってやったんだ。何世代も生まれ変わり、もうあの罪のことなんて誰も覚えてないくらいの年月が経ってしまった。そろそろ潮時だと思うのは私だけ?」
もう全部滅ぼしちゃおうよ。『風』の声が吹く。実体はなく、ただその声だけがどこからともなく耳を擽った。確かに彼女の言葉には理があった。定命の者にとっての300年前は、神にとってはほんの数刻前のこと。彼らが犯した罪はまだ贖われていない。ヒトも妖精も人魚も何もかも、まだ殺し尽くせてはいない。最も罪深いエルフでさえも、まだあの森の奥でひっそりと息をしている。
『氷』はひっそりと息を吐いた。正直に言えば『氷』は他の六柱と比べればそこまで苛烈な怒りを胸に秘めているわけではなかった。『氷』は定命の者が皆愚かであることを知っていたし、その過ちを愛すことのできる神だった。だから彼らが少しずつ道を踏み外していく過程も親のように 穏やかに眺めていた。あの事件を引き起こしたあの時も、その過ちを償う機会を与えようとさえした。
もしあの時に『氷』がいなければ、300年前に文字通りこの地球に生きるすべての種族は死に絶え、星ごと砕け散っていただろう。けれども『氷』とそれから……『死』が怒りに湧き立つ他の六柱を宥めて、彼らに最後の機会を与えたのだ。
だから彼らはまだあの狭い円形の防壁の中で、ひっそりとそれぞれ生き延びることを赦されている。いや、いた。
このままエルフが愚かしい行動を取り続けるのなら、その赦しが撤回されるのは想像に難くない。それにこの行動の余波で、各地に分散させたそれぞれの種族が連携でもし始めたらいよいよ滅ぼす以外の選択肢がなくなる。
「……エルフに馬鹿みたいな智恵を与えたのはどこの誰なのかしらね」
「どうせ『闇』だよ。あいつはエルフがお気に入りだから。どうせ長年の平穏に飽きたんでしょ。だから動乱を起こそうとしてる」
「厄介ですわね。……それに今回の件では『死』は動こうとしなかった。明らかにエルフの越権でヒトが滅ぼされる危機にあったのに」
「10年前とは大違いだ」
『風』の苛立ったようなその声色は、『風』が『死』の行動をどう見做しているかを反映していた。彼女は定命の者の運命に我々が干渉するのをあまり好まない。『死』がわざわざ我々を阻むようにあの防壁に力を加えて、ヒトを庇ったことが理解できないのだろう。
それに『死』が与えたあの加護。あれは絶対に赦されてはならないものだ。
『氷』の周りを揺蕩うように『風』の軌跡が水色に舞った。彼女はそもそも最初から全てを滅ぼすことに賛成していた好戦派だ。『死』とはどこまでも相性が悪い。
『風』のじっとりと重みの籠った声が響いた。
「寿命を超越するなんて愚かしい真似を犯したエルフに、科学でどこまでも不死を追求したヒト。人魚も妖精も皆同罪さ。定命の者たちは永遠を手に入れられない。手に入れようとするならそれは罪。だから私たちは300年前彼らに罰を与えた。そうだよね?」
「ええ、そうですわね。よく覚えていますわ、あの日のことは」
「なら彼女は……『死』のせいで文字通り死を超越してしまった彼女は、絶対に罰を受けないといけない。そうでなければ道理が通らない」
「その理屈もよくわかりますわ」
けれども、と『氷』は言葉を継いだ。『氷』はどこまでもその名にそぐわず温厚だった。いや、それは温厚というよりも無関心の方が違いのかもしれないが。
「わかりますけれど、現実的に無理なものは無理なのです。あの日、試して分かったでしょう? わたくしたちが彼女へと与えた神罰は彼女にかすりもしなかった。『死』の加護は神罰すらも妨げる。であればわたくしたちにできることはありません。それともまた、憂さ晴らしに街でも滅ぼすおつもり?」
そのような行為は『氷』の好みではなかった。あの日あの街を襲ったのは確か『風』と『火』の力だったが、本当にその攻撃が必要であったかは疑う余地しかない。だって確かにヒトは愚かでどうしようもなく救えないが、10年前のあの一件に関しては完全にヒトは単なる被害者だった。
エルフが何者かに――どうせ『闇』だろうが――導かれてヒトを襲い、あの街へと侵攻した。そして彼女はそのエルフを止めようとしただけだった。それが何故か、『死』の興味を惹き、彼女は祝福を与えられた。祝福か、呪いか。それは彼女しか知り得ないことだが。
だから本来あの時『氷』たちがすべきは、定命の者には過ぎたる力を不幸にも手に入れてしまった彼女を滅ぼしてあげることだけだったのだ。けれどもそれは成功しなかった。だから『氷』たちはその時点で諦めて帰るべきだった。あの街を吹き飛ばす必要が一体どこにあったというのか。
「……でもさ、元々罪深いヒトだ。偶然多めに殺してしまったところで問題ないだろう」
「問題ですわ。犯していない罪は問えない」
「生きていることが罪さ。私はずっと許していない。300年前のことをずっと。……あの女だけじゃないよ。私はもう全部滅ぼしたいんだ。ヒトも、エルフも、他の全部も。この機会にね」
内心の憎悪と憤怒を隠すこともしないその言い方は、もはや露悪的ですらあった。『氷』の溜息は聞こえただろうか。激昂した『風』の耳にはもう届いていないかもしれない。
「どうするにせよ、わたくしたちの独断で決めることのできる話ではありませんわ。……他の五柱の意見を仰ぎましょう」
「どうせ一致した意見なんて出ないに決まってるのに」
「それでも、です」
『氷』は首を刺すようにそう語調を強めた。こうでもしなければ『風』はきっとすぐにでも全てを薙ぎ倒すべく下界に降りていってしまう。『氷』はそんな結末は望まない。
定命の者達が描かれた既定路線を外れて道を踏み外すとしても、『氷』はそれを愉しく見ることができる。いや、違う。見ていたいのだ。『氷』はある意味でヒトが好きであったし、エルフのことも好きだった。300年以上前、様々な種族が互いに手を取り合って生きていた時代の混沌とした様相も好みだった。
「ねえ、『風』。確かに今生きている者の中でも赦されない者はいますわ。彼女は、リゼは滅ぼすしかない。それはわたくしも同意します。けれども」
「他は赦してやれって? 絶対に嫌」
「あなたも頑固ね」
冷え切った吐息が溢れた。『風』の説得は無理そうだ。
『死』によって10年前に強化されたあの防壁は神には通り抜けることができないから、『風』が勝手に単独であの街を滅ぼしてしまうことはないだろう。けれども暴走の懸念は十分にある。
『氷』はどこともなくぼんやりと視線を外した。このじゃじゃ馬の手綱を握るのは無理だ。せめて『光』あたりが手伝ってくれればいいのに。もう数十年は見ていない彼女の姿を思い浮かべる。そろそろ一度、きちんと話した方がいいだろう。きっと。だってまたこの星は大きな転換点を迎えている。
神とて全てを思いの儘に操れるほど万能ではない。ただ他の者よりも莫大な力を有しているという、それだけだ。だからこうも意見の不一致に揉めることもあるし、遥かに格下の定命の者達に振り回されることもある。
また動乱の時代が始まるだろう。300年前と同じく。
『氷』は凍てついた嘆息をまた繰り返した。
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