魔物の殺戮者


 薄い月がひっそりと輝く夜。セレナたちのいる街から離れてほんの数百メートルの屋外。平原。そこがクロムの戦場だった。

 

 夕方ごろに市民の避難行動を開始して、それからおおよそ二時間は経ったかというところでこのゴブリンの群れの到来が報告された。ケイとレオがここ数日数減らしに勤しんでいたのは焼け石に水でしかなかったらしい。街に侵入してくるであろうエルフの存在も大問題ではあったが、かといって押し寄せるゴブリンを放置するわけにもいかない。最も多対一の戦闘に向いているクロムがここに置かれるのは自明の話だった。


 後方に回転して回避。クロムのすぐ真横を粗悪な槍の一閃が通る。僅かに頰が切れた。いくらゴブリンと言えどもこの数が集まっていれば十分な脅威だ。

 

 ちらりと視線を後方へと向ける。

 

 クロムのいる位置から三歩ほど下がったラインで、クロムの隊の兵が戦っている。五人一組で一体ずつ対応するように厳命しているから今の所損害はないが、それも時間の問題だろう。既に戦闘開始から一時間は経過している。彼らが感じている疲労は相当なもののはずだ。


 クロムは肩に乗ったままのネズミに向かって、急かすように口を開いた。


「ニーナ」

『もう少し耐えてください。あと少しでレオさんが合流します』

「信じるわよ。わたくしも余裕がない。……ああもう、せめてケイのところの子たちを借りられればよかったのに」


 そんな恨み言には特に何も返さず、またニーナのネズミは空気に溶けていく。クロムとて現状の苦境がどうしようもないものであることはよくわかっていた。

 

 ケイとリゼは対エルフ戦の最高戦力だ。故に彼らをここに置く余裕はない。ケイの隊の兵たちは今頃街を駆け回って住民の避難の呼びかけとエルフの捜索に全力を尽くしていることだろう。ニーナの隊も同様。


 また一歩前へ。その一閃で力任せに胴体を薙切る。クロムの剣は技巧ではない。力だ。ただひたすらに振り、ひたすらに斬り、そして勝つ。

 

 クロムは目の前にいた敵を無理矢理に斬り倒すと素早く真横に視線を走らせた。部下の一隊が囲まれている。第三班。まだ経験値の低い若手が多いところだ。大方敵に乗せられて少し奥まで入り込みすぎてしまったのだろう。

 

 援護が必要。けれどももうこの場にクロム以外に自由に動ける者は残っていない。クロムが必死で頭を働かせている間にも、勢いづいたゴブリンは追い詰められた彼らに向かって駆け出した。悲鳴が一つ。肉が裂ける音が二つ。頭を振った。考えている余裕はない。

 

 つい数秒前に斬り倒した敵の死骸を踏みつけて跳ぶ。三班までの間に立ち塞がる敵は7。問題ない。殺し切れる。

 

 クロムは右手に握った剣を投げ放つと、空いた両手に瞬時に作り出した氷の刃を握る。投げた剣はきちんと正面の一体に突き刺さり、それに追い打ちをかけるようにまた二投。氷は最初の犠牲者のゴブリンの裏にいた二体の腹に大穴を開ける。7分の3。残りは4。駆ける。後ろ手で死体に突き刺さったままの剣を引き抜いて、そのままの流れで振るう。2つ首を飛ばした。あと2。とうに返り血で固まった長髪を振り乱して、吼える。


「邪魔よ! 穿ちなさい!」


 最後の二体のゴブリンの足元から、氷の柱が勢いよく生える。下から突き上げられた軽い身体は容易く吹っ飛んで遥か後方へと消えていった。標的、殲滅完了。やっとゴブリンの群れの中に閉じ込められていた部下の姿が目に映る。


 地面には赤い大きな水溜りが出来ていた。相当な失血量。大腿部の動脈が切られたに違いない。視線をその赤色から少し上げて、クロムはじっと蒼白な部下の顔を見つめた。


「……ク、ロムさん、」

「喋らないで」


 クロムは動揺することなく彼らとゴブリンの間に立ち塞がるように剣を構えた。大丈夫。まだ間に合う。

 

 重症、1。負傷、3。残りの1人が周囲を庇ってくれていたおかげで致命的な結果にはなっていない。それでも今足元に転がって懸命に仲間から止血を受けているこの男は、何もしなければあと数分で死ぬだろう。ヒース隊の回復術師がいるテントまではあと数百メートル。退路を開く必要がある。

 

 考えるより先に左手を振るえば、部下を包囲していたゴブリン六体のうち氷の飛礫を受けて半分の頭が弾け飛んだ。


「ルイス、残りの4人を援護して後方に下がりなさい」

「しかし、」

「異論は許さない。死にたくないなら下がりなさい」


 そうクロムが残りの三体の喉を氷の刃で裂きながら告げれば、ルイスは――第三班班長の付き合いの長い古株だ――顔を顰めたままに負傷を負った数人を指揮して指示通り後方に下がってくれる。


「クロム隊長――ご武運を」


 その囁きを最後に、いよいよクロムの周りにはただ一人の部下もいなくなっていた。


 いよいよ不味い。一手の過ちが死を導くようなそんな状況。その中で確かにクロムはにやりと口角を上げる。足元に忍び寄った一体を蹴り上げた。かかる血飛沫を全身で受け止めて、そして笑う。


 ニーナの言葉通り、ギリギリで間に合ってくれたらしい。

 

 血飛沫と悲鳴と絶叫の耳障りがいいとは到底言えない三重奏に重ねるように、背後から馬の駆ける音が響いた。


「クロムせんぱ~い、助っ人のレオですよ~」


 クロムはその声の方向を一瞥することもせずに小さく頷いた。余裕がない。レオもクロムの追い詰められた現状を察したようで、すぐさま馬から降りるとクロムの横に並び立つ。レオとクロムで神気持ちが2人。これで少しは戦況はマシになるか。額に流れた汗を拭いながらクロムは振り返り様に文句を唇に乗せた。

 

「遅すぎるわ」

「第一声が言うにことおいてそれ?」


 全く食えない、なんてレオのぼやきを聞き流しながらまた剣を振る。今度は二匹。血飛沫が舞ってドレスの裾がまた汚れる。舌打ち。お気に入りの一着だったというのに。


「ああ、もう。この服高かったのに」

「戦場に着てくるクロム先輩が悪いんじゃね?」

「うるさい。正論は受け付けてないわ」

「はー、暴君」


 そんな軽い口調とは裏腹に、レオは迫り来るゴブリンの一団をまるごと吹き飛ばすべく炎の石礫を投げつける。次いですぐに左手側から響く爆音と聞き苦しい呻き声。


 部下たちを下がらせたのは結果的に正解だったかもしれない。彼らがこの場にいないからこそレオも、それからクロムも周囲を気にすることなく全力を振るうことが出来る。


 リズムを崩さぬように丁寧に呼吸をする。クロムは流れるように一体ずつ目の前の敵を潰しながら、状況を浚うように脳を回転させた。

 

 撤退させた兵のうちまだ戦える者たちは、今頃ルイスの指揮下で少し後方の城門前で最終防衛ラインの維持に尽くしているはずだ。クロムたちが取り逃がしたゴブリンたちは今はまだ、彼らが着実に潰してくれている。

 

 しかしもし、あと少しでも取り逃がしの数が多くなれば後方の部下たちの戦線も崩壊するだろう。綱渡りのようなギリギリの戦いだった。

 

「あとどんくらいっすか?」

「さあね。30を超えてからは数えてない。……それにわたくしが見る限り、どんどん増えているし」


 クロムは一度手を止めて、目の前に広がるゴブリンの群れに視線を向けた。数はざっと見ても100を超えている。それに加えて倒しても倒してもどこからか新たな群れが現われてくるのだ。いつの間にかクロムとレオは、周りを360度包囲するような形勢へと追い込まれていた。彼らは街への侵攻を推し進めるより先に、まず厄介な敵であるクロムたちを始末することを選んだらしい。奴らの標的が街へと向かっていないのはいいことだが、2対100以上の状況はどう考えても良いとは思えない。


 多少のリスクを背負っても、一度形勢をひっくり返す必要があるだろう。


クロムは一度深々と息を吐くと、右手の剣は構えたまま空いた左手を正面の群れへと向けた。


「レオ、援護。一度吹き飛ばすわよ」

「……りょ~かい。死なない程度にしてくださいよ」

「善処するわ」


 ゴブリンはじわじわとクロムたちとの距離を詰めてきている。あと一歩、二歩、三歩。レオとの意思疎通は言葉がなくとも問題ない。クロムは鋭く息を吸い込むと、上空に向けて神気を込めた剣を掲げた。


 まずはレオの防衛魔法が音もなく静かに発動する。クロムとレオを囲む赤い薄膜が確かに現れたことを確認してから、クロムは力強く叫んだ。


「凍りなさい!」


 体中の神気をすべて引き出すくらい力を込めて、自分たちの丁度真上に巨大な氷の塊を出現させる。クロムの能力はこれだけだ。ただ氷を生み出すだけ。けれどもやり方次第ではとてつもない攻撃力を発揮することもできる。

 

 上空に忽然と現れた、直径一メートルはあろうかという氷の塊は当然重力法則に基づいて地面へと落下していく。が、しかしそれがクロムたちへと落ちていくより先に、レオの手が大きく振りかぶられた。

 

「そんで燃えな!」


 レオの炎の神気が込められた石――普段のものよりも数段大量の力が込められたそれが氷へとぶつけられ、そして激しい閃光が走った。激しい爆音で一時的に聴覚が失われる。視界に映るのは舞い上がった土煙と、その向こう側に見える血飛沫だけ。近距離で起きた激しい爆発だ。当然クロムたちも完全に無事とはいかず、地鳴りのせいで体勢を崩して地面に転がる。

 

 けれどもそれぐらいの被害で済んだのはひとえにレオの防衛魔法のおかげだ。レオの炎によって一気に氷を蒸発させ水蒸気爆発を引き起こす、というこれがレオとクロムの最終奥義だった。最終奥義とだけあって当然巻き込まれれば無傷では済まない。……クロムたちを囲んでいたゴブリンの大半はこの爆発で死に絶えただろう。


 けれどここで気を抜くわけにはいかない。クロムは血煙で覆われた視界の向こうを見透かすように目を細めると、また自分の周囲をくるりと囲むように指先を一閃させた。


「氷よ、奔りなさい」


 途端、クロムとレオを囲むように地面に氷の棘が生える。地面に転がっていたゴブリンの死骸が百舌鳥の速贄のようにそれに突き刺さる有様は文字通り地獄のようだったけれど、それを憐れんでやる余裕はない。


「レオ、反対側は任せたわよ」

「了解。一緒に生きて帰りましょうね~」


 レオと背中を向け合って剣を構える。

 

 地面に無数に出現した氷の棘は丁度ゴブリンの背丈と同じくらいの高さだ。この障害物の前では先ほどのように集団で同時に襲い掛かってくることはできないはず。

 

 案の定爆発半径の少し遠くにいたおかげで生き残れた幸運なゴブリンたちは、一斉に襲い掛かろうとして氷の棘に侵攻を妨げられている。狭い棘の間を抜けることになるから、必然的にクロムたちの前には一体ずつしか現れられない。これで大分戦いはマシになるはず。


 生き残りのゴブリンたちは、何ら躊躇うことなく仲間の死骸を踏みつけてクロムたちの方へと向かってくる。そのビー玉のような瞳には何の感情も見えない。これがエルフたちの洗脳魔法の成果なのだろう。普通のゴブリンならばここまで仲間が無惨に殺されていく姿を見せられればすぐに逃走という選択肢を選ぶはず。

 

 でも今日はそうはならない。

 

 この戦いは文字通り、クロムたちがゴブリンを殺し尽くすか、ゴブリンがクロムたちを殺すまで終わらないのだ。


 クロムは汗でじっとりと濡れた背を上下させながら、また先陣を切った一体に向かって剣を振るった。首が落ちる。次。また振るう。手の感覚が少しずつ無くなっていく。


「ほんっとに、最悪……!」


 血で濡れた柄のせいで手が滑る。けれど一瞬の隙すら今は許されない。間合いの内側に迫った一体に素早く生み出した氷の刃を突き刺して、振り返りざまに右手側の一体を跳ね飛ばす。

 

 違う、しくじった。

 

 確かに殺したはずの氷の刃を刺した一体が起き上がる。致命傷を与えられなかったのだ。瞳に確かな憎悪を湛えたまま、そのゴブリンは勢いよく地面を蹴った。腹から内臓を溢しながらも動けるその意志はどこからやってくるのか。魔物とはいえ、仲間のために個を捨てて命を賭けられるのはクロムと同じなのかもしれない。

 

 そんな場違いなことを考えてしまうのは、まるで走馬灯のようだった。

 

 長年の戦士としての経験が反射的に腕を動かすが、クロムの剣はその突撃には少しだけ間に合わない。続いて訪れるはずの痛みにクロムが思わず目を伏せたその瞬間だった。


「――っぶな!! マジで心臓に悪いって」


 隣から飛ばされた炎の矢がゴブリンの頭部に突き刺さり、文字通りはじけ飛んだ。下級魔法の火矢ファイヤーアローだ。本来大した攻撃力のない一撃のはずだが、レオの手にかかれば頭を吹き飛ばす一発になり得る。


 クロムは何度か目を瞬いて、それからどうにか背後の男のおかげで命を拾えたことを理解した。ふ、と場に似合わない笑みが溢れる。


「……レオ」

「あ、何? 邪魔するなとか言わないでくださいよ!? マジでオレ、今死ぬほど焦ったんだから」

「いいえ、違う」


 クロムは改めて真っ直ぐに剣を構え、背後にいる頼りになる後輩の背中を軽く小突いた。


「助かったわ。礼を言う」

「……クロム先輩がオレにそんなこと言うとか、明日は雪?」

「さあね。なんにせよ戦って、生き残るわよ。じゃなきゃ明日の天気も拝めないわ」

 

 先ほどよりもほんの少しだけ薄くなったように見えるゴブリンの群れを睨みつけながら、クロムはまた地面を蹴る。


 その瞬間だった。


 どん、と激しい地響き。次いで後方から……街の内側から激しい土煙が立つ。

 

 どうやら向こうでも戦いが始まったようだ。クロムはひっそりと街の中の仲間たちの武勲を祈った。


 

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