光速の拳

 丁度今レイモンドが一体のエルフの首を斬り落とした、その真下。じめじめとした湿り気ばかりの空間にニーナとヒースは閉じこもっていた。


 コア、という名前に対してそれの実体は粗末なものである。何せこの街を守っているのは今ヒースの目の前にある、このただ一個の拳大の石なのだから。

 

 いや、石は流石に低く見積りすぎか。確かにこれには緩やかな魔力の奔流があって、透明な岩肌越しにゆるゆると蠢いているのが見える。最も単純に言い表すなら、生きた水晶と言ったところだろう。


「レオさんとレイモンドが一体接敵。撃退です。そのままレイモンドは周囲の警戒、レオさんは城門の方へ送ります」

「うん、いい判断だと思うよ。流石にあの量のゴブリンをクロム一人に押し付けるのは可哀想だし」


 ヒースの展開する遠見の魔法によって、複数箇所の様子が暗い地下水路の壁面に投影されていた。一つは城門前のゴブリンたち。クロムたちが哀れな被害者に聞き出した情報と違わず、200を軽く超えるゴブリンの群れが襲いかかっている。まだ防壁魔法は健在であるから街の中へ侵入してくることはないが、それでも脅威だ。クロムが群れの中心で刃を振るっているとはいえ、火力不足は否めないだろう。レオを補助につける采配は適切。次。

 

 二番目の映像に視線を映す。市民の避難先である城の広場だ。セレナが人々に状況を説明しつつ、有事の際には盾となる。ここも問題なし。

 

 最後の一つは特定の場所を映さず、激しく視点が移動している。リゼの視界に同調してそれを投影しているのだ。リゼと、それからケイが遊撃部隊。ニーナの情報網によってエルフの出現地点が伝えられたらすぐさまそこに向かう役割だ。対人戦では最大火力のケイと、不死身のリゼ。ここも問題はないだろう。


 そして四番目にして、最も危険なのが今ヒースがいるここ、地下水路だった。


「……一応ここが最終防衛線だからね。いざとなったら戦わなきゃ、か」

「私もヒースさんも全然向いてないのに」

「人員不足だよねえ」


 溜息一つ。ヒースは魔法使いといえども回復魔法を軸とする術士だし、レオやリゼのような火力があるタイプではない。それよりも鋭く精密なコントロールを得意とするタイプで、有り体に言えば対人戦には向かない。

 

 そしてニーナはそれ以上に戦闘に向いていない。彼女の能力は索敵や情報制御に特化しているし、神気も全くもって攻撃力を持たないのだ。つまりはもし敵がこのラインまで迫ってきたら、ヒースは死に物狂いで彼女を庇って戦うことになる。


「いざとなったらすぐにセレナを呼ぼうね。僕、まだ死にたくないし」

「今回ばかりはヒースさんと同意見です……」


 またどんよりと空気が重くなったのは溜息の二酸化炭素のせいではない、と思いたい。確かにこの場でニーナと共にコアを守る役目を任されてからというもののヒースの嘆息は後を絶たなかったが。だってこの役割にはヒースにはあまりにも重すぎる。やっと10年ぶりに帰ってきた師匠に押しつけてやりたかったが、あの人にはあの人の役割があるからそれも叶わなかった。

 

 まあこの最終防衛ラインまで敵が押し寄せてくるなんて最悪の予想にかまけている暇はない。ヒースとニーナの役割は実働隊への情報共有だ。一刻も早く街に潜んでいるエルフたちの場所を探すことが仕事、であるはずなのに。


「……ほんっとにいないよねえ。どこに潜んでるんだか」


 ニーナのネズミが街中を行き交い、ヒースの魔力解析も全力で働いてエルフの居場所を探っている。にも関わらず全く奴らの姿を捕捉できない。

 

 もう何度目かも分からない溜息がどちらともなく響く。何故こうもエルフの影も形も発見できないのか。何か、ヒースたちが見落としていることが。


「あ」


 ヒースは目を見開いた。視線は勢いよく二番目の映像――セレナのいる中央広場のものの方へと向く。

 レオたちが接敵したエルフたちは人の姿に化けていた。今まで遭遇していた奴らの先入観でフード姿の人影を探していたが、もし今残っている9体のエルフが皆高度な魔法が使える精鋭で、人の姿に化けて紛れているとしたら?


 だとしたら最悪だ。奴らはもう街の深くまで侵入していることになる。

 

 ヒースは大きく跳ねた鼓動を押さえつけるように、極めて冷静に口を開いた。


「ニーナちゃん、セレナに報告。広場に集まった市民の中に変身したエルフが紛れている可能性あり」

「えっ、……あ!」

「それからリゼたちにも広場の方へ向かうように言って。まずはセレナで追い詰めて炙り出そう。炙り出して逃げ出したやつの捕捉用に、ケイとリゼは物陰で待機」


 ヒースは鋭く息を吸うと、目を伏せて魔力を少しずつ対象の地点へ……人々の集まる広場の方へと伸ばし始める。距離は多少離れているとは言えどヒースの魔力制御の前では問題にならない。特に今はニーナの風の神気の効果で遠隔地との繋がりが強化されている。丁寧に丁寧に糸を張り巡らせるように。無数に集まった人の中で、奇妙なものを探していく。


「いた」


 口角が上がる。見つけた。あの日の仇。ヒースの10年分の後悔の相手。


「ニーナちゃん、セレナに伝えて。――全員残さず根絶やしにしろって」


 ヒースの瞳には緑色の狂気が渦巻いていた。


 ♢


 ざわざわと騒がしい避難所をちょうど俯瞰できる柱の上にセレナは立っていた。城門付近で始まった戦いの音はここまで響いている。人々も今この街が直面している現実に思い至ったらしい。神々が保証していた平和なんてものはまやかしで、人間の鼻先には既に剣が突きつけられているという現実。


「……さて、どこから始めるか」


 さっきまで肩に乗っていたネズミ……チュー子というらしい彼女は既に風に乗ってどこかへとまた消えていった。彼女から聞くに、どうやらエルフはこの市民のどこかに潜んでいる可能性が高いとか。迷惑な話だ。

 このヒルバニア全域にはおおよそ3万人の人間が住んでいる。今回の避難対象区域……城門付近の、街全体面積からすれば10%程度のエリアに住む人々がこの広場に集っているとすると、単純計算でここにいるのは3000人。その中からエルフを探し出すというのはなかなか無茶な話である、とセレナには思えるのだが、ヒースとニーナの前では問題にならない。


 セレナはたった一つの音も立てずに柱から飛び降りると、確認するように拳を握り込む。突如として地面に降り立ったセレナへと人々の目が向くが、セレナはそれを一切気にせずに構えの姿勢をとった。

 

 セレナは一切の武器を持たない拳闘士である。使うのは己の肉体と、それから神から授かったこの力のみ。瞳を一度閉じ、それから再度開いた金色の瞳で対象を――200mは先にいるその男を見る。

 視界に映る。

 それだけでセレナの打撃は終わる。


「――は、ぅぐっ……!」


 次の瞬間にはセレナは蹲る男の隣に立っていた。変身魔法で巧妙に化けていたから、周囲の人々から見れば急にセレナが無辜の民を殴ったように見えただろう。しかしそれを今は気にしている場合ではない。どうせ夜が明ける頃には皆真実を知る羽目になるのだから。

 

 セレナは感情の篭らない瞳で男を見下ろした。男の腹にはセレナの拳がめり込み、口から鮮血が垂れている。内臓を確実に幾つか潰せたはずだ。致命傷にはならなかったが、いくらエルフと言えどもこの怪我では一分後には死んでいるだろう。次。


「ヒース、次は?」

『南東方向183m先。中肉中背の女性。白のシャツにブラウンのエプロン。あ、今走って逃げ出したね』

「承知」


 ニーナの水色の風がセレナの耳元にたなびいて、ヒースの声を伝えてくれる。本当に便利な能力だ。こういう場面でニーナの情報共有能力はどこまでも生きる。

 

 そんなことを考えている間にも、またセレナの視野にその女が捕捉される。それと同時にセレナの身体は光のように消え去って、文字通り一瞬でセレナはその女に立ち並んでいた。


「……あ、え、なんで」

「む、避けられたか」


 いや、正確には違う。拳は確かに当たったが、衝撃が吸収された。盾魔法の一種か。その証拠にセレナの打撃から少し遅れて女の腹からぱりん、と音が鳴った。盾魔法の薄膜を破ることには成功したらしい。ならば次の一発で沈められるはず。

 そうセレナがまた拳を振りかぶると、女は素早く後ろに飛んで距離を取った。短距離転移魔法だ。無詠唱でそれを使うとは、彼女はかなりの魔法の使い手に見える。


「あ、んた。なんで、一瞬で移動できるの。転移魔法? でも魔力の揺らぎすらなかった……」

「私は魔法は使えないよ」

「じゃあ!」


 彼女はセレナを睨みつけると、また素早く一段後ろに飛んだ。セレナの前では物質的な距離などさほど意味をなさないというのに。

 見る。

 そして駆ける。

 瞬きの後、セレナはまた開いた距離を詰めて隣に立っている。


「意味がないぞ。諦めた方が早い。私は、速いからな」


 金色の神気。はじまりの五柱を更に上から俯瞰する、光の神の加護。その加護を得たのは今までにたった二人だけだという。一人目は150年前にこの世界で初めて神気を授かった者。そして二人目はセレナ。


「私から逃げれるとは思うなよ。光より遅い者は私には決して勝てない」


 その言葉が終わる前に、女は地面に倒れ伏していた。吐血の水溜りの中に崩れ落ち、変身魔法は解けて特有の高い耳が現れる。ヒースとニーナの探知にかかれば人々の間に入り混じったエルフを見分けることなど容易い。そもそも魔力を持つ人間はかなり珍しいのだから、単に魔力保有量が多いというだけで目立つのだ。


「2人か、残りはもう逃げ出し始めたか?」

『はい。6人が西地区の市街地へ逃走。地下水路の入り口の方へと向かっています。ケイさんとリゼさんが対応。残りの1人は、』

「ああ、いいよニーナ。もう見えた」


 一人の老人がセレナの方へとゆっくり歩を進めていた。変身魔法は解かれ、エルフ特有の耳が曝け出されている。彼のその容姿を見た人々のざわめきが少しずつ大きくなっていくのが耳によく響いた。当たり前だ。だって今目の前に、いないはずの生き物がいるのだ。神が死んだと保証したものが生きているのだ。


「――サーシャとコルムがやられたか」


 老人はそう呟くと、また一歩セレナへと近づく。どうする、仕掛けるか。ゆるく力を込めた足先はそのままにセレナは静止していた。目的が見えない。セレナの目からすればこの老人は先ほどの二人よりも強いようには思えなかった。にも拘わらずその足取りには妙な余裕がある。


「ご老体、何のつもりだ」

「いいや、我々を殺せるヒトの戦士がおるならば死ぬ前に一目見ておきたくてな」

「時間稼ぎのつもりか?」


 ここから既に逃げ出した6人が無事に地下水路までたどり着けるための足止め。それが最もあり得そうな可能性だった。だとすればその思惑に乗ってやる必要はない。


「……光よ」

「ああ、待て待て。そう急くな。儂はただ、少しばかりお主と話してみたいのじゃよ。セレナ・アイザック。光の君の加護を得たヒト」

「何故、その名を知っている?」


 冷え切った夜の空気にセレナの声だけが響いた。次いで老人の余裕ぶった笑い声。背中に嫌な汗が流れる。どうする、どうしたらいい。この老人の心臓を潰すことくらいセレナには容易いことだというのに、どうにも手が動かない。アイザック。その家名を知るものはもうこの世界から消え果てたはずだというのに。少なくとも人間の世界からは。あの日、10年前に兄が死んでからセレナはアイザック家の最後の一人になったのだ。


 セレナのそんな内心を読んだかのように老人はくつくつ喉を鳴らした。


「その顔、まさかエルフが知らないとでも思うていたか? 本当にヒトは愚かじゃ。……貴様らが知り得ることは全て我々の知り得ること。アイザックの生き残りがまだこの街でのうのうと息を吸っていることくらいお見通しじゃったよ」

「……何が言いたい」

「アイザック、スカイハート、それにラティエール。残るはその三家のみじゃったかな。既に半分は根絶やしにしたとは言えど、貴様らは必ず滅ぼさねばならぬ」


 老人の声には不思議なほど色がなかった。憤りも、恐怖も、何一つない。ただ淡々と事実だけを唇に載せている。

 老人は凍りついたセレナにその気味の悪い薄笑いを向けたまま、懐から一枚の紙を取り出した。


「ただしその時は今日ではない。認めてやろう。お主らは強い。前回の何倍も。姫様はお怒りになるかもしれんが、今回は失敗じゃ。……また会おうぞ、アイザックの娘。次は、」


 老人がそこまで口走ったと同時に、セレナは躊躇うことなく地を蹴った。それと同時にセレナは光の速さで老人の胸元へと到達し、その心臓を打つ。

 

 いや、確かに打ったはずだった。


「そう急くな、娘。儂は奴らほど脆くはない。今の貴様に儂は殺せんよ」


 硬い金属を殴ったような感覚。拳に伝わるはずの肉の感触が一切ない。先ほどの女のエルフが使っていた盾魔法とはまるで強度が違う。破る破れない以前に、セレナの打撃の威力が少しだって伝わっていないのだ。


「こ、れは」

「貴様らに神々の加護があるように、我々にも我々の武器がある。それだけじゃよ」

「ー-光よ、」


 滾れ。

 そのセレナの最後の一言は実際の力にはならずに消えた。強制的に神気の発動が妨げられたような感覚。セレナは老人の濁った緑の瞳を睨みつける。理屈はわからない。だがこのエルフにはどうやら神気の力が一切通用しないらしい。


「エルフ、お前たちは何を隠している」

「さてのう。――いずれはわかることじゃ。しかしそれは今ではない」

 

 老人はセレナの凄んだ声など気にも留めることなく、悠々と指先に魔力を込めた。その魔力は炎へと変わり、老人が手に持っていた紙切れが緑色に燃え始める

 老人の手の内に握られていた小さな紙。近づけばそれには細かい文様……おそらく魔法陣のような何かが描かれている。

 セレナの真横を通った風の呟きが耳元で響いた。


『転移魔法陣……。逃げる気か』


 ヒースのその声色からして、どうやら止めることは不可能らしい。また一歩踏み込んでその腹に拳を叩きこんでも感触は変わらない。

 セレナの最後の悪あがきのような打撃も気にすることなく、老人は最後にまたにやりと煽るような笑みを浮かべた。


「娘よ、戦いは始まったばかりじゃ。今日で終わりだと思うなよ」


 ふわりと、まるで始めからそこには誰もいなかったように老人は立ち消えていた。


 


 

 

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