始まりの血溜まり


 朝からレオとケイが街の外へとゴブリンの討伐へと向かったのとは対照的に、ニーナは部屋の中に引きこもっていた。


 狭く古びたオンボロの騎士団本部にも、まだ辛うじて資料室は残っている。奇跡的に発掘されたりした300年前の書籍、もしくは300年前のカタストロフィ以降に人類が書き連ねた文献。それらを懇切丁寧に集積したのがこの狭っくるしい、ニーナが数時間閉じ込められている部屋なのである。


 部屋中に山と積まれた本、紙束のせいで床は覆い尽くされていつの間にか見えなくなっている。凄惨たる状況に溜息を吐いて現実から視線を逸らしたニーナは、隣で静かに地図と睨めっこに勤しんでいる上司――ヒースをちらりと見やった。


 ニーナにとってヒースは直属の上司である。神気使いの中でも特に珍しい回復の力を持つ男。相当な実力者であるくせにいつもヘラヘラとしているその態度が故にいつもニーナはこの男に対して苛立つ羽目になっているのだけど、それはともかく。


 ニーナは手に持っていた本をぺらぺらと繰って雑に床に放ると、半眼でヒースを睨みつけた。


「ヒースさん、こっち側の資料に特に情報はない……んですけど、何してるんですか、今」


 そうじっとりと発せられたニーナの言葉でやっと意識を現実へと戻してきたヒースは、お馴染みのへらりとした笑みでこちらを向き返った。一見気安そうに見えて、その実誰にも心を開いていない仮面のような笑顔だ。ニーナはヒースのその顔があまり好きではない、のだが。


 ニーナはこてりと首を傾げた。今日のヒースはどことなく何かが違うような気がする。


 その違和感を追うように彼の姿を目線で辿れば、いつも丁寧に整えられている金髪は珍しく燻んでいて、よく見れば目の下には薄く隈が浮かんでいた。セレナほどではないにせよ、普段の昼行燈のヒースの様子からすればあり得ない姿だ。


「ヒースさん?」

「なあに? 一旦そこの資料が片付いたなら次の山……ああいや、その前にセレナに報告がてら休憩でも……」

「あの、ヒースさん」


 ちょっと待って、とつらつらと言葉を並べ続けるヒースを制止する。どう見ても明らかに休憩を取るべきはニーナではなくヒースだ。


「あの、本当にどうしたんですか?」

「どうしたって何が?」

「その目の隈です。昨日まではセレナさんが死にかけながら書類を捌いてても一人だけすやすや10時間は寝てたくせして、一体何が……」

「あー、いや? 別に僕だって毎日快眠熟睡なタチじゃないし。昨日はちょっと眠れなかっただけだよ」

「嘘」


 ニーナがそうぼそりと呟けば、ヒースは半笑いで空を仰いだ。ニーナの前で嘘を吐くなんて、ヒースにしてはあり得ない失態だ。


「……そんなに状況は悪いんですか?」


 ニーナのその問いは、当然の如く首を振って否定された。


 昨日ニーナがゴブリンの異常行動について報告をした後、珍しくヒースは自ら仕事を買って出て、こうして資料室に今の今まで閉じこもっている。異常事態だ。確かに下位種族の変異の可能性も考えられる事態はそれなりに深刻ではある。だが可能な限り仕事をしないで生きることに全力を尽くしているヒースがここまでやる気を出すようなことだろうか。


 ニーナのその言外の問いを汲み取ったヒースは、ぱちりとわざとらしくウインクを一つ飛ばして誤魔化す。

 

「いいや。そこまでじゃないよ。僕のコレはただの杞憂っていうか、流石にそろそろまともに働かないとニーナちゃんの目も痛いし? 上司がたまにやる気出したからってそんな不審な顔しなくたっていいじゃん」

「いや、しますよ。だっておかしいですもん。……それにさっきからあなたが何調べてるか分からないのも不審の原因です」


 ニーナはそう言いつつヒースの手元へと目を落とした。


 城下の地図。少なくともゴブリンやその他の下級種族の習性に関する記述がありそうには全く見えない。

 

「それ、何ですか?」

「地図だよ」

「そんなことは見ればわかります! 私が聞いてるのはそれであなたが何をしようとしてるのかってことで……」

「あー、ね。そうだよね。まあ確かにそうなるか」


 ヒースはそう色のない声でぼやくと、何度か考え込むような仕草を繰り返して、それからのっそりと改めて口を開いた。


「考えてるんだよ。もし奴らがこの街にまた侵攻してくるなら、どこを突入口にしてくるかってね」

「……奴ら?」


 ニーナはぱちりと目を瞬いた。侵攻。その言葉は、この街ヒルバニアにおいてはかなりの大きな意味を持つ。


 10年前の、あの日。決して魔物が越えることはできないと思われていた城壁を何者かが乗り越えて、街を襲った事件。否応なくニーナはそれを思い出した。事件当時はニーナはまだ高々7、8歳であったから大したことは覚えていないのだが、とにかく街中が大混乱に襲われていたのは朧げな記憶にある。何せ、街の入り口の城門あたりから、当時の騎士団本部のあった街の中央までが一気に吹き飛んだのだから。


そんな一連の出来事を思い返しながら、ヒースの言葉の意図を考える。というか考えなくてもわかってしまうけれど。


 つまりはヒースはこのゴブリンの異常行動は、何者かによる街への侵攻の前兆――10年前の再来の前兆だと考えているのだ。


「……あなたはまた、大侵攻が起きるかもって思ってるんですか?」

「さあね。そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。けど備えあれば憂いなし、だからね」

「でも『奴ら』が侵入してくるってどういう意味ですか。そもそも10年前の大侵攻の原因は今も調査中で不明のはずじゃ」


 ニーナはそこまで口にして、残りの言葉を飲み込んだ。ヒースと目が合った。軽薄な笑みの仮面を被ることをやめた、色の抜け落ちた表情。そういえばこの人はあの事件の――10年前の惨劇の生き残りであったことを思い出す。


 ニーナのそんな感情を読み取ったかのように、ヒースの碧眼はぱちりと二度瞬いた。誤魔化された。その仕草をスイッチにしたようにヒースは再び見事に仮面を被り直すと、にまりと口角を上げる。


「今も調査中で不明、ね。まあその通りだよ。今のところは」

「今は私に教えてくれるつもりはないと?」

「そういうこと。とにかく今はこの街の侵入経路の確認と、万が一の対策が必要ってことだけわかってればいい」

「……そうですか」


 指先で地図をなぞってみる。居住区域全体を覆う壁。その丁度中央の点に当たる場所に件の防壁魔法の楔は置かれている。

 

 もしニーナがこの街を攻略するなら、まず初めにこの防壁魔法をなんとか潰そうとするだろう。魔法のおかげでヒルバニアを囲う城壁は傷付かず、魔物の侵入を阻み続ける。ゴブリンを尖兵とした計画を立てているならば、仮想敵は防壁魔法をなんとかする策を既に持っているのかもしれない。

 

 どのようにして?

 そもそも敵とは何者か?


 いくら考えてもわからない問いが頭を駆け巡る。

 

 この街の外には魔物の世界が広がっている。彼らは確かに人など簡単に殺せるほどの靭力と生命力を持っているけれど、人ほどの知能は持ち合わせていない。神からの加護も魔物には与えられない、人の特権。それ故に外にいる魔物たちがこのように統率されて街を襲いにきている、という事態そのものがニーナには理解し難かった。


 だってそれはまるで、街の外にも知的な生物が存在していることを示唆しているようで。


「……御伽話じゃあるまいし、人じゃないのに人みたいに考えられる高次種族がいるなんて」

「この世にあり得ないことなんて何一つないんだよ」


 ヒースはそう静かに呟いた。


「とにかく、最悪を想定しておくに越したことはない。というわけでほら、まだまだやらないといけないことは残って……」


 と、ヒースがそこまで口走ったことに被せるようにちち、と鳴き声が後ろから聞こえた。ニーナは思わず声の主の方を勢いよく振り返る。案の定ニーナが振り返った先には、使い魔のネズミがくるくると回って走っている。


「チュー助!? どうしたんです!?」

「チュー助……?」


 ヒースの疑問符混じりの声は無視してニーナはチュー助を拾い上げた。今の鳴き声は非常事態を意味するはずだ。ニーナやこの街によっぽどのことが迫っていない限り聞こえないはずの音。ニーナはチュー助へと視線を合わせる。


「――風よ、教えて」


 そう密やかに呟けばニーナとチュー助の間を繋ぐように水色の神気が迸った。風の神気は二人の意識を繋ぎ合わせ、彼の見たもの、聞いたもの、ニーナへと伝えたいこと全てが流れ込んできて、そして。


 ニーナは咄嗟に口を押さえた。あまりにも酷い光景。けれど怯んでいる暇はない。


「ヒースさん、今すぐ中心街に! 負傷者が出てます!」

「……は?」

「いいから早く!」


 街の中心通り。そこに転がるいくつかの血まみれの身体と、現場から逃げ出そうとするフード姿の何者か。ネズミの視野越しではこの程度の認識が限界だが、とにかく今すぐ騎士団が動くべきトラブルが発生しているのは確かである。


  レオとケイが街の内にいないタイミングを狙われたか。ニーナはチュー助の視野越しに敵を睨みつけた。


 ♢


 騎士団本部は街の中心から外れた古塔の一角に位置している。そして今回のトラブルの発生源はニーナ曰く中心街。ヒースの足では走って三十分はかかる。のが常だが、到着までの実測時間は二十一分といったところだったのでヒースにしては頑張ったと言えるだろう。


 けれどそんな努力もある種無意味ではあったのだけど。


「……他に無事な子はいる? 動ける人はニーナちゃんの後ろに。重症患者は優先して僕の近くに置いておいて。近ければ近いほど効力は強い」


 石畳に浮かぶ血溜まりは果たして何人分か。転がっている死体は目に入る範囲で5つ。負傷者は12。ひとまずヒースは右脚が根本から千切れている一人へと歩み寄ると、その傷跡に手を翳す。途端緑色の光がヒースを中心として同心円上に溢れ出した。


「何があったか教えて……って言ってもまだ今は喋れないか。――ニーナちゃん」

「敵はもう逃げたみたいです。チュー助が事態を私に伝えたのがバレたみたいで、その時点で城門へ走っていく姿をチュー太郎が見てました。城門の警備担当はチュー太郎が避難誘導して逃したから怪我人はなし。……被害者はこの広場で遭遇した人たちだけです」


 ニーナのその報告にひとまず息を吐く。つまりはヒースが癒さなければならないのはこの12人のみ。それならばどうにか力は足りそうだ。


 折しも休日の中央広場ではちょっとした市が開かれていて、結構な数の一般市民と、それからニーナの隊の巡回兵がいた。


 死者の五人が全て騎士の制服を着ていることからして、彼らはきちんと仕事を全うしたらしい。クソ喰らえだ。死ぬぐらいなら逃げてしまえ、なんていうのはヒースの持論だが、バカ真面目なニーナによく似たその部下たちもバカ真面目だったらしい。


「……ニーナ隊長、申し訳ありません」

「謝る必要はないです、レイモンド。あなたたちはあなたたちの仕事を果たした。……いいえ、感傷に浸っている暇はないですね。報告を」


 接敵した兵のうち比較的軽傷だった男――といえどもつい数分前まではその脇腹は完全に抉れて虫の息だったが――が、よろよろと立ち上がった。いくらヒースの癒しがあれどまだ意識を保つだけでも精一杯のはずなのに。本当に、騎士という生き物はどこまでも嫌になる。


「発生時刻は丁度昼の鐘が鳴った頃でした。不審な人物が路地裏の影に見えて……フードを被っていて顔は見えなかったのですが、背格好は丁度ヒース隊長と同じくらいでした」

「路地裏、ね」

「はい。市で集まった群衆を見ているようでしたので、不審に思って俺が声を掛けようと近づいたんです。そうしたら、突然魔力が爆発して……俺はその時に吹き飛ばされてしまったからそれ以降の記憶はないんですが」

「いいえ、十分です。あなたがその不審者に声を掛ける前にチュー助に報告をしてくれたおかげで以降の様子はチュー助が把握してくれました」


 それを聞いてくったりと力を抜いた彼……レイモンドと言ったか、は力を使い果たしたように地面にへたり込んだ。その腹にヒースは右手で触れる。途端レイモンドの顔が痛みで歪んだが、仕方がないので諦めて欲しい。破れた腸やら何やらを無痛で再生させるなんて芸当はいくら神の加護があろうとも無理だ。


 それにしても、とヒースは治癒中の彼へと目を向けた。今のレイモンドの話が事実なら彼は正面から魔力の爆発を食らってもどうにか一命は取り留めたわけだ。それに加えて彼がニーナの隊にいる、ということは即ち。

 

 ヒースはレイモンドの元へとしゃがみ込むと、その両眼をじっと見つめた。藍色の何の変哲もない瞳だが、ヒースの目からしてみれば明確にみて取れる特徴がある。ニーナと同じ、僅かに空色がかった虹彩。風の神の加護だ。


「ねえ君、もしかして目がいい?」

「え?ああ、はい。ニーナ隊長ほどではないですけど」

「なるほどね。君の微弱ではあるが神の加護持ちの目があったから、件の不審者の存在に気づけたんだろう。逆説的に言うならば、そんな目が無ければそのフード野郎には誰も気づかなかったに違いない」


 隠蔽魔法、もしくは高次の気配遮断の使い手。それらを纏った上でフード野郎は何らかの隠密行動をとっていたと考えるのが自然。しかし不幸なことに、偶然中央広場にはニーナの優秀な部下のこの男がいた。


「……フード野郎にとってみればここで騎士団に存在が捕捉されるわけにはいかなかったんだろう」

「私も同意見です。レイモンドの目は神眼まで行かなくとも、魔眼程度の力はある。……フード男はレイモンドに捕捉されて焦って逃げ出した。その過程でこの被害が出た。そう考えるのが自然でしょう」


 ニーナのその言葉に頷きつつ、ヒースはどんよりと息を吐いた。この推測が確かならば、敵は逃げ出すための闇雲な攻撃で5人を殺し、12人を負傷させたのだ。そんな強力な力を持つ人間がまだこの世界にいるはずもなし。


 いよいよ奴らの関与は疑いようのない事実になったようだ。


「ニーナちゃん、やっぱり最悪を想定しておいた方が良かったと思わない?」

「……何の話です?」

「10年前の焼き直しだ。――エルフの侵攻が、また始まった」

 

 

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