不穏な影

 昼間の平原での戦闘を終えて街の中に戻ってきたケイは、街の片隅にある騎士団本部へと報告のために帰還を果たしていた。相変わらず人気のない細道を抜けて古びた扉を開く。少し好意的に見るならば趣のある建物だが、端的に言えばボロ屋敷。


 ぎしぎしとなる床を踏みしめてケイは二階に上がった。二階の最奥の部屋がケイの目的地の、騎士団長の執務室である。少し立て付けの悪い戸を押せば、案の定部屋の中ではセレナがいつもどおり書類の山に忙殺されていた。


「お疲れ様です、セレナさん。もう六時ですよ。そろそろ一度休んだらどうです?」

「ん?……ああ、ケイ。戻ったのか。今日は遅かったな」

「いろいろあって」


 そう言外に面倒ごとの気配を匂わせてみれば、一層セレナの眉間の皺が濃くなる。


 質素な団長室はたった二人でも窮屈に感じてしまうほど狭い。それも仕方のないことで、10年前に一度組織としても物理的な建物としても完全に瓦解した騎士団は未だに満足な敷地も人員も確保できていないのだ。それを踏まえればまあ、この狭さが今の自分たちにはお似合いなのかもしれないが。

 

 そんな自虐的な思考を振り払うべくケイは頭を振ると、改めて目の前のセレナへと向き直った。

 

「街の外のゴブリンなんですが、想定よりも酷いです。数も多いですし、何より強い。とりあえずは一通り間引きしてきましたが、今日一日でどうにかできる話じゃないです」

「……そうか。居住地を動かして街へ接近してきているだけかと思っていたが」

「どう考えてもそれだけじゃないですね。数も予想より多い。単なる1グループの異常行動というよりは種族全体に何らかの異変が生じているように思えます」

「なるほど。ひとまず報告感謝する。……が、これはどうしたものか」


 そううっそりと書類の隙間で息を吐いたセレナに倣うように、ケイも溜息を一つ吐きだした。

 

「少なくとも第二部隊だけでは対応しきれません」

「確かレオとクロムの部隊が手隙だったはずだが……。うん、そうだな。明日以降はレオを補助につけよう」

「ありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げる。ひとまずこれで明日以降の討伐戦はなんとかなりそうだ。ケイの部隊だけでは火力が足りない。その点レオの部隊……というかレオ一人でも加われば、あの程度の数のゴブリンなら簡単に吹き飛ばせるだろう。


 ひとまずこれで問題なし、とケイが頷くと、ふとセレナが小さく呟いた。


「しかしゴブリンがそのような戦略行動を取れる魔物だったなんて聞いたことがないが」

「魔物自体に知性はないはずですからね」

「そうだな。知性がある高位種族が裏で噛んでいるならともかく」

「もし高位種族の生き残りがいるなら、ゴブリンどころじゃない大問題ですよ」

「……ああ、そうだな。これ以上問題が増えるのは勘弁願いたい」


 セレナは再び頭を抱えた。セレナが口にしたのはいわゆる人魚やエルフ、果ては妖精といった亜人族のことだ。とはいえ彼らの存在が数百年も前に完全にこの世界から消し去られたのはケイだって知っている常識。

 

 知的に思考できる生き物としてこの世界に残っているのは人間のみ。それが神の語る真実であり、現実的にも観測されている事実なのである。


「ですが、現実にゴブリンが異常行動を取っているというのは事実です。まさか高位種族の生き残りがいるなんてファンタジーは起き得ないでしょうけど、何らかの事情で低位種族に変異が起きている可能性は否定できません」

「変異。変異、か。確かにその通りだな。少なくとも早急に異変の原因を突き止める必要がある。……今のように街に迫ったゴブリンを対症療法的に仕留めていくのには限界があるしな」


 セレナのその言葉にケイは強く頷いた。この街に魔物が侵入してくる、なんて最悪のシナリオは何としてでも避けなければならないのだ。

 

 部屋の窓から視線を外へと向ける。街を取り囲む灰色の壁からは、300年間変わらず魔力が滲み出している。この壁が機能し続ける限り魔物たちは侵入できないはずだが、何事にも絶対などない。10年前のことを思えば特に。


 セレナもきっと同様のことを思い返しているのだろう。いや、ケイとは違ってセレナはあの日を実際に経験した数少ない生存者だ。現状に感じている焦燥感はケイ以上のはず。

 

 またセレナの心労を増やしてしまったか、とほんの少し後悔しつつ、ケイは落ち着かなげに剣の柄を撫でた。


「まあ、今はまだゴブリンの様子に少し異常が出ているだけですからね。ひとまず今近くに迫っている群れは明日中に追い払います」

「ああ、任せた。……念の為他の魔物にも異常行動がないか確認したほうがいいな。それはクロムに頼むか」


 セレナはぶつぶつとそう呟くと、書類の山から一匹の水色のネズミを引っ張り出した。ニーナの使い魔だ。どうやら紙束の間で昼寝に勤しんでいたらしい彼は、ぢゅ、と小さく鳴くとセレナの手のひらへと乗り上がる。


「ニーナ、聞いていたか? クロムとレオに伝えておいてくれ」

『――了解。ヒースさんにも情報共有しておきますか?』

「ああ、頼む。ゴブリンの異常について何か心当たりがありそうなら伝えるよう言っておいてくれ」


 承知、とばかりにネズミはまた一声鳴くと、ふわりと空色の風となって空気に溶け込んでいく。


 ニーナはケイと同じく神気を授かった一人だった。ケイとは違ってニーナの風の神気は戦闘には全く役に立たないが、後方支援においては無類の強さを発揮する。この水色のネズミもニーナの力の一端だった。彼らはニーナの指示通りに自由に現れ、自由に消え、ニーナの声をネズミ越しに伝えることもできる。味方のうちは頼もしいが、ある意味一番恐ろしい能力であるとも言えた。


 そんなことを考えつつ、ニーナのネズミが消えていった何もない空間をぼんやりと見やる。


 相変わらずニーナの目はどこに潜んでいるか分かったものではない。この街の内側で起きていることはおおよそ全てニーナの観測内にあると言っていいだろう。何となく後ろ寒い気がしてニーナのネズミがまだ潜んでいそうな棚の隙間などを見つつ、ケイは耳を澄ませた。

 

 がた、と廊下の少し遠くで誰かが走ってくる音がする。


「……またあのバカ」

 

 やはりニーナの仕事は異常に早い。既に足音の主は――レオは話を聞きつけて、この部屋に入ってくるまであと五秒といったところか。


 ケイのそのカウントが丁度0になるのと同時に、勢いよく扉が開く。団長室のドアをノックもせずに開くのはこのバカ――第二魔法部隊隊長、レオ・スカイハートぐらいのものだ。


「セレナさん、オレ明日仕事ってマジ!? 明日は休みの予定だったんすけど!!」


 黙っていれば美少年と言われてもおかしくなさそうな顔を台無しにする大声と共に、その男はびしりとセレナに指先を突きつけた。

 

 ケイの同期。魔力の寵愛を受けた天才と名高いくせに、そのサボり癖のせいで評価を落としている男。その表情には明らかに働きたくないです、なんて書かれているが、ケイはそんな同期の怠惰を振り払うように思い切り肩をぶつけた。


「っおい、筋力バカ!! か弱い魔術師になんてことしてくれんだよ! あ〜肩折れたかも〜これで明日は働けないかも〜」

「黙れバカ。どこの世界に働きたくないからって団長室に直訴しにくるヤツがいるんだよ」

「ここにいるけど!?」


 レオの勢い付いたその声にやれやれと肩を竦めたセレナは、まるで犬でも嗜めているみたいにぐしゃぐしゃとレオの髪を掻き混ぜた。

 

「すまないが、レオ。他にお前以外に動かせる人員もいないし……」

「時間外手当が出るなら行きますけど。金貨2枚で」

「まあそれぐらいなら払うが、またお前今度は何買おうとしてるんだ?」

「古書市で狙ってるのが一冊あるんですよ。なんでも瓦礫の山から最近発掘されたやつらしくて、魔術書の可能性もあるとかなんとか」

「何でもいいがほどほどにな」


 レオが似たような経緯でただの紙クズを掴まされていたのはほんの数日前の出来事だったような気もするが、まあケイには関係ないことなので触れないでおく。

 

 そんなことよりと、目の前の犬と人間のふれあいパークから思考をずらして昼間のゴブリンとの戦闘に思いを馳せる。確かにあれはかなりの強さだったが、レオの火力とケイの補助があれば問題なく対応できるだろう。部下たちは城門前に待機させて撃ち漏らしの対処をしてもらい、ケイとレオの二人で攻め込めば今日のような窮地に陥ることもないはず……とそこまで考えて。

 

 ケイはがやがやとまだ賃上げ交渉に勤しんでいる二人を遮るように挙手をした。


「すみません、もう一つ報告があります」

「まだ何か問題が?」

「残念ながら。と言ってもこっちは魔物とはあまり関係なくて。……今日のゴブリンとの戦闘中に、身元不明の少女と接触しました。大剣使いで神気持ちです。無許可で街の外に出ているのでまあ、一応報告するべきかと」


 無許可で街の外へ出てはいけない、というのは魔物から市民を守るための規則であるから、どう考えても一人で魔物に対応できていたあの少女に適用する必要はないとは思うが、規則は規則である。

 

 そんなケイの内心のやる気のなさとは裏腹に、ぱちりとセレナの目が開いた。瞬きが三つ。それから数秒の沈黙の後に静かに息が吸われた。

 

「――大剣使いの、少女か」


 まるで獲物を前にした時の蛇のようだ。ケイは思わず息を呑みながらも、報告を続ける。


「ええ。名前はリゼとか。それ以上の情報は聞き出せませんでした。一応ニーナには後で報告して、調査してもらいますが……」

「いや、不要だ」

「え?」

「不要だ。調査の必要はない。……彼女はこの街の住人ではない。奴は街の外の人間だ」


 セレナの言った意味が一つも分からず、ケイは首を捻った。それは隣のレオも全く同じようで、二人で顔を見合わせる。

 

 だってこの街の……この壁の外側には人間など一人だっていないはずなのだ。人間に許された最後の生存領域がこの街ヒルバニアであることは常識、というよりも疑うことの許されない事実だ。


 だから『街の外の人間』なんて言葉があり得るはずがない。むしろセレナのその言葉は神への背信と受け取られても全くおかしくないだろう。


「セレナさん、正気っすか? やっぱ三徹は流石にヤバかったんじゃ?」

「私は至って正気だし問題ない。……仕方ないだろう。彼女は例外なんだ」

「例外?」


 セレナは今日一番の疲れの籠った声色で、ぼんやりと呟いた。


「神は彼女を例外にしたんだよ。彼女はもう人間の括りには入れられていない。そんなわけがないのに」


 彼女は確かに、人間なのに。


 セレナのその呟きは空気へと消えて霧散した。ケイも、レオでさえも何一つの言葉を返すことができない。正直に言えばケイは今セレナが口走ったことの一つだってまともに理解できている自信がなかった。そもそもケイより数段優秀な頭脳を持っているはずのレオに分からないことがケイに分かるわけもない。

 

 気まずいほどの十数秒の沈黙が続いて、セレナはわざとらしく口角を上げた。

 

「……まあとりあえずその女のことについては警戒する必要はない。彼女は、その、変わっているが善良な人物だ」

「それは今日一日でもよく分かりましたよ」


 主に変わっているという部分について、とは心の中だけで付け足しておく。


「とにかく喫緊の問題はゴブリンだ。しばらくの間はレオとケイで表面上のゴブリンの討伐及び情報収集を行ってもらう。何か発見があればすぐにニーナに伝えてやってくれ」

「了解です。ええっと、ニーナは、」


 とケイが視線を周囲に回すと、ちゅう、と聞き慣れた鳴き声がすぐ隣から聞こえた。レオの肩の上だ。レオも神出鬼没の彼女のネズミにはもう慣れたもので、特に気にすることもなくその水色の毛並みを撫でている。


『委細承知しました。私とヒースさんは書物庫にいますから、報告はそこまでお願いします』

「了解。ニーナは明日は付いてこねえの?」

『ゴブリンについて少し調べたいことがあるんです。ヒースさんと私はしばらくそっちにかかりきりになるので、外のことは二人にお任せします。ケイさんもそれでいいですか?』

「ああ、もちろん」


 ケイのその頷きを持って、ひとまずの作戦会議は終わりを迎えた。

 



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