際会

 数秒前まで確かに高校生が立っていた。あの頃と同じままの彼の記憶は、私の趣味を真似ようと始めた記録を続けていたらしい。携帯電話に記録された3000日以上の虚無を前に、自身の記憶が現実とずれていることに気づき消滅した。

「定期連絡お疲れ様。“記憶”がひとつ消えたみたいだね」

 上司に電話をかけると、いつものように気怠い声が返ってきた。

「遭遇したのは予想通り幼馴染だったのかい?」

「幼馴染じゃありませんよ。同級生です」

「でも、男の子だったんだろう? 君の初恋の人だって」

「誰から聞いたんですか」

「違うの?」

「違いますよ。まあ、一番仲が良かった男子でしたけれど」

「なるほどねぇ。自宅の庭までやってくるんだから、まあそうだわね」

 上司の価値観がほんの少し垣間見えた気がして興味深い。

「とにかく後は震源地を撮影して帰りますね」

「海月がいるのは、母校の海岸だったね」

 8年前に各地を襲ったこの現象には震源地がある。あの日、私たちが目撃した白い光。各地に現れたそれのことを私たち“史書室”は“海月ジェリーフィッシュ”と呼んでいる。各地の空に現れて光をまき散らし、発光を終えて地に堕ちた形状がクラゲとよく似ているために便宜上つけた名前だという。

 海月たちはその名にふさわしく海岸沿いの空に顕れる傾向があり、発光と共に周辺の土地の記憶をその場に焼き付けてしまう性質を持つ。焼き付けられた記憶はその土地で半永久的に発光前の24時間を繰り返す。

 記憶がリピートを繰り返す場所では人が正気を保つことは困難で、時に自分も記憶の側であると誤認してそのまま記憶に取り込まれる事故が起きる。これを防ぐため、海月の出現地は名は伏せられ、立入を制限しているが、被害が減ったという報告はない。

「あの辺はこの時間だと高校生以外から、他の記憶に遭うこともないでしょうし、比較的近くで海月を撮影できると思いますよ」

「それはよかった。そもそも一般人の目撃談には海月が写らないからねぇ」

「みなさんデジカメか携帯電話ですからね」

 デジタル機器は海月とそれにより焼き付けられた記憶を関知しない。記録を残したいのなら銀塩式のカメラを使うしかない。海月と記憶に8年間関わってきた“史書室”が知る貴重な経験則だ。そして、その経験則のおかげで私はカメラマンをやれている。

「そのおかげで目撃談には廃墟写真かねつ造写真しか出回らない。土地の外に記憶が氾濫しないのは良いことだよ」

「心得ています」

「まあ私としては君が今日も無事に帰ってきてくれるならそれでいいんだよ。ところでさ。さっきの話どこまでが本当なの?」

「まだ彼の話に戻りますか? だいたい今の彼は三児のパパであの頃より随分とマシなんですよ、今のほうが絶対にまとも」

「え、ああ……そうなの?」

 史書室に勤めていても忘れがちだが、海月の光に当てられた人間はその後を生きていないわけではない。その場に焼き付けられた記憶から離れて生活を送っている者も多いのだ。土地から離れてしまえば記憶に引きずられることも少ない。

「いや……その話じゃなくてさ、君はこの仕事に嫌気が差さないか気になってね。上司には部下のメンタル管理も求められるわけ」

「私は好きですよ。この仕事」

 海月の影響に関する記録と駆除法の調査。“史書室”の仕事は嫌いじゃない。特に私が担当している記録の仕事は好きだ。

「そういえば、彼もね、なんで君は記念写真とか面白動画みたいなのを撮らないのって聴いてきたことがあるんです」

「へぇ。君はなんて答えたんだい」

「明日のために撮影しているからこれでいい」

「ごめん。なんだって?」

 彼も似たような反応だった。説明が悪い。

「写真は、過去や今を切り取って残すものだと思うんです。でも、それをみて昔を懐かしむとか、誰かと今を共有するのって、本当に写真の意味なのかなって思っていた」

「用途としては間違っていないと思うよ」

「そうですね。でも、当時の私は……今もたぶんそうなんですが、想い出に縋るのが厭だったんですよ」

――流れ着いた縒り代は私たちに過去を思い起こさせるものです。想い出が返ってくる。個人的には良い体験だと思いますが、明日のためにはこれを還さなければならない。みなさんはまだ若い。過去を思う場面は少ないでしょう。けれども、これは覚えていてほしい。懐かしさは決して此処に留まるためにあるわけではないのです。

 

 彼と会ったあの日、宮司が話していた言葉を思い出す。私はそれを聴いて、還す前の縒り代を撮影しようと思ったのだ。

「きっと誰かの受け売りなんですが、記録は明日をよりよく生きるためにあるんです。写真はあの頃に戻るためじゃなくて、あの頃の先に今がある、道は続いていると思い直すためにあってほしい」

「わがままな願いだね。用途をまるきり無視しているようにも聞こえる」

 わかっている。

「だから、私は“史書室”の仕事が好きですよ」

 いずれ必ず記憶と記録には齟齬がでる。それは仕方のないことだ。けれども海月とここの記憶たちはそのことを受け入れられない。受け入れられずに消えていく。

「あの日からずっと嫌いだったんです。海月のこと。でも、この仕事は、私の写真はきっと海月に届く」

 身勝手で我が儘な願いだと思う。

 それでもいい。必ず奴らは消してやる。

 私はカメラを持って立ち上がった。庭先からは海岸が見える。縒り代が流れ着く神聖なそこに倒れ込む巨大な海月は今も薄らと光り、辺りを灼いている。

「想い出は彼らのものじゃない。だから全部取り返すんです」

 私は上司にそう宣言して、廃屋と化した生家を跡にする。

 もうそこに8年前の風景は残っていない。


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海月は虚を舞う 若草八雲 @yakumo_p

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