回顧

 高校2年の秋まで、私の家はとある海岸沿いの町にあった。町の名前は伏せる。正確には記すことができない。8年前の夏以降、その町に名は存在しないためだ。

 名前を失った原因、その発生機序は今も明らかになっておらず、現象に名はない。ただ、あの夏は多くの土地で名が失われた、そのことだけが記憶に残っている。

 私の家族が長年暮らした家を手放し町を離れたのは、あの夏の半年前だ。少なくてもそれまでの期間、町には名産品も観光資源もなかった。それが他の例に漏れず名を失って知名度が上がり、現在では大勢があの場所を訪れている。

 訪問者たちは皆、あの夏の目撃者になろうと土地を訪れ、願いが叶わぬと知る。あの夏を知る特別な“誰か”になどなれないこと、いわんやあの夏を知ったところで“誰か”になれる切符が手に入らないことに思い至らないほどに、訪問者たちは追い詰められている。

 彼らは日常へ戻ってもなお叶わぬ望みに焦がれては目撃談を語る。講演、ルポ、日記、SNS投稿。私的な趣味、商業的な試みを問わずあらゆる媒体で、名もなき町の情報は書き手を“誰か”へ押し上げてくれる存在しない読み手を求め続ける。

 目撃談の氾濫があの夏以前の記憶を彼方へと押し流していく。私たちはこれらの土地に名があったことを忘れ、目撃談に歪められ焼き付いたあの日以外を語る術を失っていく。土地に暮らした者、かつて土地を訪れた者にとっては悪夢のような出来事なのに、氾濫を抑える方法はあまりに少ない。故に、人々は、あの日以前を喪失することを受け入れて、諦めている。


 私も初めは諦めた側の人間だった。

 あの夏の直後、あらゆる場所で目撃談が語られていた毎日に、私は必死に目を閉じ耳を塞ぎ続けた。それでも目撃談が流れてこない日々はなく、“誰か”が騙る故郷の話に記憶が塗り替えられていく。

 あの町は決して彼らが話すような場所ではないし、あの日は“特別”でも“悲劇的”でもない。声を張り上げ、心の奥から叫ぼうとも、その他大勢の目撃談を打ち消すことはできなかった。

 やがて、時がたち、私の心と記憶も次第に目撃談に染まっていく。当時の私があの夏を悲劇と受け入れなかったのは、あの場に立ち会った者として、その景色を受け入れられなかったからだ。誰かが語った“診断”が私の真実に変わっていく。私が私でなくなっていく。

 それが何よりも耐えられなかった。

「だから私はこの仕事を選んだんだ。書き換えられる前に自分で集めればいい。初めはそんな動機だったんだよ」

 両手に持った一眼レフを撫でながら、私は、あの夏の日から一日も進まずに毎日を過ごした同級生の姿をみる。


――名もなき土地にはあの日の記憶が焼き付けられている。記憶はあの夏を繰り返しながら土地を訪れた者を呑みこんでいく。


 多くの目撃談が語る数少ない真実が、目の前に立っている。本人は自分があの夏を繰り返しているなど露とも気付けなかったのだろう。そして、あの夏と同じように彼にメールを送った時点で、私もあの日に囚われるはずだった。


 あの日は、家の買主が決まり一週間後に引渡日が迫っていた。私は両親に懇願し、引渡前にもう一度、この家に入る許可をもらい町に戻っていた。

 半年前の引っ越しで、荷物は全て搬出している。引越先の生活に支障はないし、家に忘れ物はない。それでも、他人に家が引き渡されることで故郷が奪われるような不安を抱いた。無理を言って父に駅まで送ってもらい、徒歩で此処に向かった。今と同じように庭先に座り、海岸線を眺め、この庭で一緒に過ごした同級生を思い出した。

 初対面の女子の趣味を時代錯誤と決めつける酷い男子だった。よくよく話せばそれは誤解で、友達との記念写真ではなく縒り代を撮影している姿が意外で声をかけたらしい。女子と仲良くなりたいという下心があったのかどうかは分からない。

 当時の彼は思春期をどこかに忘れてきたような人間だったし、私は同級生に好かれるほど見た目がよくなかった。だから、言葉の通り意外だと思った可能性はある。あるはずだが、目の前の彼の反応はどこか引っかかる。

 まあ、とにかく当時の私は彼のその酷い言い草がかえって面白くて彼に興味を持った。同じ高校に通う1年半、彼とは多くの時間を共にした。引っ込み思案のくせに頑固で、頑固なわりに他人の趣味を理解したいと写真を始めたりする。面白い人だったし、限られた時間で誰かに会えるなら、彼が良いという気持ちは8年が経過した今も変わらない。

 あの日、父との約束に間に合うよう15時までと時間を区切り、私は庭で彼を待ったが、当日は平日。授業中に送った写真と思わせぶりな一言だけでは彼を動かすことは出来なかった。

 わかっていた結末なのに寂しい。後ろ髪を引かれながらも荷物をまとめ庭先の窓を閉めたそのとき、私は海岸に浮かぶ“あれ”をみた。他の住人とちがって焼きつけられず、記憶が残ったのは偶然としかいいようがない。

 その偶然のおかげで、私は今も土地に残る記憶に引きずられずに立っている。


「仕事を始めたら一番最初に此処に来たかった。けれど、仕事だからね。そう簡単に話はまとまらないんだ。だから、いくつもの土地を巡ったよ」

 記憶と違い、彼は今日、この庭に来た。

 名もなき土地に暮らす記憶たちは常にあの日を繰り返している。けれども、彼らはループしているわけではない。故に、記憶とズレるモノがいる。

「できるのは記録だけ。才能だと言われても寂しくてね。彼らの輪には入れないと痛感させられる。訪問者が土地に取り込まれるのも理解はできる」

 彼はなぜ此処に来たのだろう。姿をみせなかった高校生の私の代わりに、私がメッセージを送ったからか。そもそも、8年前の記憶でしかない彼に届いたのは今日の私のメッセージなのだろうか。

「でも、こうして会えてみて、やっぱり記憶は記憶だなと思うんだ。ちー。不思議に思わなかったかい? 君はあのときのまま高校に通っているのに、私は少し変わった業種だけれど、カメラマンをやっている。思っていた形とは随分違うけれど、あのころ君に話した夢は叶ったんだよ」

 既に同級生の身体はぼやけ人の輪郭を失いつつある。

 名も無き土地を彷徨う記憶たちは現実との齟齬を認知すると壊れて消える性質がある。認知により崩壊する範囲は様々なので、彼一人が消えて終わるのか、町を覆う他の記憶も消えてくれるのかは予想がつかなかった。

 ただ、彼とは此処で別れることは確実だ。

「ちー。怒った顔をしないでくれ。君は真っ先に消えるべきと私は思う。君たち記憶は、この街の未来を食いつぶしているんだ。

 君が嫌いなわけじゃないよ。だから、まだ声が届くなら。君に会えて本当によかった。8年前のあの日、君を待てずに帰ろうとした私の後悔は君のおかげで消え去ったんだ。

まあ自分勝手な話だと思うけれど、さよなら。ちー」

 私は消えようとする彼――彼だったものにカメラを構えてシャッターを切った。彼の輪郭らしき何かはフィルムに記載される。

 後に残るのはフィルムと私の記憶だけだ。

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