その後も取材は続いた。バンドが練習するスタジオにもついていった。取材をすることで、僕の中の小説の主人公のかたちが、徐々にだけれどもはっきりと見えてきた。

 そして僕は、小説の執筆にとりかかった。小説を書き始めたことで、主人公が動き始める。

 今まで書いてきた話と毛色の違うものを書く戸惑いが最初はあったが、それはすぐに消えていった。多分それは、取材の成果だ。細部をしっかりと思い描けるからこそ、主人公が自由に動くことができる。

 僕はしばらく、訳のわからない感情に駆られながら小説を書いていた。僕は書きながらふわふわとした気分になるのを感じ、指が踊るようにキーボードの上を滑っていった。画面の上に文字が並んでいくのが、僕は心地よかった。心地よい。そう考えて初めて、僕は自分の感情がなんなのかわかった。

 僕は、楽しいのだ。小説を書くことが楽しい。

 小説を書いていて、こんなに楽しいと思ったのは初めてかもしれなかった。

 僕はまた、頑張れそうな気がした。

 僕はモニターを見つめる。僕の紡いだ物語がそこにある。未完成の、これから書かれるのを待っている物語。

 その向こうに、きみがいる。


 ――そして、小説は書き上がった。無論、それは平坦な道のりではなかった。いつものようにスランプがあり、自己嫌悪と向き合いながら、僕は懸命に一字一字言葉を探して小説を書いた。しかしその紆余曲折は、言ってしまえばこの物語には必要のない話だ。とにかく、小説はできあがったのだから。

 僕は、できあがった小説を、野村さんよりも先に、田伏に読ませたいと思った。もう、田伏の連絡先は知っていたので、僕はスマートフォンで田伏にメッセージを送った。

 田伏は完成を素直に喜んでくれた。僕もそれを見て嬉しくなる。僕は田伏とファミレスで会う約束をし、そこで小説を読んでもらうことにした。

「どう、かな」

 混み合ったファミレス。目の前に田伏が座り、印刷した小説の紙の束を、田伏は閉じたところだった。田伏はしばらく目を瞑っていたが、やがてゆっくりと開くと、こんなことを言った。

「俺は、この小説から、……音楽を感じた。音楽がテーマの小説だからじゃなくて、彼らの生き方が、とても音楽的に思えたんだ。それは」

 田伏は、かすかに上気した顔をしているように僕には見えた。

「すごく若々しい、エネルギッシュな音楽だ。衝動に満ち溢れていて――今にも暴発しそうなエネルギーを抱え込んでいる。指で触ったら弾け飛びそうな、そんな音楽」

 そこまで言うと、田伏は一つため息をついた。肯定的なため息だった。そして微笑みかけてくる。

「良かったよ。とても、良かった。俺はこの小説大好きだ」

 僕は、嬉しかった。それだけで、この数ヶ月の努力が報われたと思った。

「ありがとう、良かった。気に入ってもらえて」

 僕は頭を下げた。

「今回は忙しい中取材に協力してくれて、本当にありがとう」

 頭を上げ、言う。

「……なんだか、小説を書くってことがどういうことなのか、自分自身と向き合い直せた気がする。これからはまた、頑張って小説を書いていくよ」

「ああ、良かった。……ずっと、お前の小説は読んできていたから。これからの作品も、楽しみにしているよ」

 僕は田伏の言葉を、素直に受け入れることができた。だから言った。

「ありがとう」

 そして、僕たちは別れた。これでもう田伏と連絡をとることもないのだ。

 田伏は最後に、僕に握手を求めてきた。僕は差し出された田伏の手を握りしめる。大きく肉厚な手が、僕の手をきつく握りしめた。


 数ヶ月経って、いろいろと手直しを経たのち、小説『世界と向き合うための方法』は、無事に雑誌に掲載された。野村さんの頑張り(「これはいけると思います。すごい、傑作ですよ」)もあって、作品は巻頭掲載された。

 雑誌の発売日。僕はいくつもの本屋を回って、僕の名前の載った雑誌が並んでいるのを確認した。平積みになっていた大型書店では、ページを開いて中の名前を確認もした。僕は確信していた。野村さんも言ってくれた。これなら、きっといける。また、あの賞の候補になれる。今までで一番の自信作なのだ。

「大丈夫、きっと大丈夫」

 口に出してしまうと、その言葉はがらんと広い本屋に、あっさりと霧散して消えた。

 『剣と鞘』のアルバム制作は順調なようで、ホームページに発売日がいよいよ告知されていた。僕は、あの日以来田伏とは連絡を取っていなかった。田伏からもまた、連絡は無かった。

「いや? 俺も、特に最近連絡は取ってないな」

 いつものように一緒に飲みに行った小森も、そんなことを話す。

「そんなに気になるなら、自分から連絡とればいいじゃん」

 小森はさも当然のことのようにそう言うが、特に理由もなく田伏に何かメッセージを送れるような間柄だとは、僕は思っていなかった。なにしろ、向こうは売れっ子アーティストなのだ。僕なんかがメッセージを送っても、数ある通知の一つでしかないだろう。

「お前さあ」

 小森は何か言いたげだったが、僕はそれを無視してスマートフォンをつけた。何も表示されない。

「今日、やたらスマホ見てんな」

 小森が僕に突っ込む。僕は視線をわざと合わせず、

「連絡があるとしたらそろそろなんだ……あれの、候補の」

「なるほどね」

 小森は僕をからかわなかった。僕は以前二度候補になったことがあるので、だいたいどのくらい前に候補作になったという連絡が来るかを知っていた。小森にはそろそろと告げたが、実際にはもうその目安をだいぶ過ぎていた。だけれど僕は自分に言い聞かせる。きっと審査が混み合っているだけ。何かの都合で遅れているだけ。あの小説が候補にならないはずがない。だって、田伏にもあんなに協力してもらったのだから。

 しかし、スマートフォンは時刻を表示するばかりで、通知なんて全然来なかった。


 結局、僕はニュースサイトで候補作の発表を知った。僕の名前も、あの小説のタイトルもそこには無かった。野村さんから電話がかかってきたけれど、出なかった。小森からねぎらうメッセージが届いたけれど、既読スルーした。

 僕は、一人でぼんやり部屋の中を見つめていた。視界に情報は入ってきているはずなのに、頭の中が何かの感情でいっぱいで、自分が何を今見ているのかわからない。僕はまるで吐き気をこらえるときのように、口元を両手で覆った。そうしないと、叫び出してしまいそうだったから。まだ外は明るいが、眠ってしまおうと思った。枕にうつ伏せに顔を埋めて、布団を頭までかぶる。僕の世界が暗くなった。目をぎゅっと瞑って、何も考えないようにと思う。だけど考えてしまう。僕の小説は、候補にならなかった。すると、多分、単行本にもならないだろう。心臓がきゅっとちぢこまる音がして、僕の目から滲むように涙が溢れ出す。それは、枕にあっという間に吸い込まれて消えてしまう。半端に開いた口を、枕に押し付けていると、叫び声のかわりによだれが溢れ出す。枕がじっとりと濡れて湿ったころ、玄関のチャイムがなった。なんだろう。何か荷物が届く予定があっただろうか。今日は受け取りたくない。そう思い無視をしていたが、チャイムが連続で鳴った。

 なんだよ、ちくしょう!

 僕は怒りながら玄関の扉を開けた。

「よう」

 そこにいたのは、田伏だった。

 僕はぽかんと口を開け、しばらく田伏を見つめた後、自分の顔がとんでもないことになっているのではないかと気づき、慌てて袖口で顔を拭った。

「何、どうしたの、急に」

 田伏は笑う。

「お前に、渡したいものあってさ」

 そう言われ、僕は田伏をとりあえず部屋に通す。狭い、僕の部屋の中に田伏がいると思うと不思議な感じがした。とりあえずベッドサイドの小さなテーブルの脇に田伏を座らせ、僕はその正面に座った。

「なんかあったのか? 目が赤い」

 田伏にそう問われて、僕は口籠った。田伏には言えなかった。あの小説が、候補に残らなかっただなんて。田伏に申し訳なかった。

「なんでも、……なんでもないよ」

 だから、そう言うしかなかった。

「? そうか。さっきも言ったけど、渡したいものあってさ」

 田伏はカバンから、四角いものを取り出した。そしてテーブルの上に置く。

「これ……」

「アルバム、できあがったぞ」

 田伏の誇らしそうな顔を見て、僕は本当に泣いてしまいたくなった。僕はゆっくりと、田伏の――『剣と鞘』の新しいアルバムに手を伸ばす。それは、真っ白なディスクだった。指先が触れる。僕は思う。このアルバムは、どれだけの人の手に渡るのだろう。どれだけの人の心を動かすだろう。聴かなくてもわかる。このアルバムは間違いなく彼らの最高傑作なのだ。だって僕は、その制作過程に密着してきたのだから。

「良かったね。あとで、聴かせてもらうよ」

 僕はなんとか笑ってそれだけ言った。それだけで、田伏も何かを感じ取ったのか、

「そう、か。じゃあ、俺は帰るな。……なんかあったら、連絡してくれ」

「うん、わかった。じゃあ、またね」

 田伏がのっそりと立ち上がり、玄関へと歩いていく。僕は田伏を見送った。

 テーブルの上には、ラベルも何もないディスクが一枚。

 僕は、じっとそれを見つめていた。いや、睨み付けていたと言っていいかもしれない。呼吸が荒くなる。唇を噛んで、僕はズボンをぎゅっと掴み、心の痛みに耐えていた。

 そして僕は、声を上げて泣き出した。

 僕は、田伏が憎かった。僕より才能を持ち、僕より売れていて、僕より優しく、僕より人間として優れている田伏が、この上なく憎かった。

 涙が溢れ出し、頬をどんどん伝い、声が獣のようにこぼれ出し、その場に座り込んで、そして前のめりに倒れ込んで、床を叩いた。呼吸困難に陥り、酸素を求め肺を膨らませ、喘いだ。

 だけど、僕はそんな田伏が好きだった。好きだと気付いた。田伏と一緒にいたかった。

 だけど、それは僕にとってとても苦しいことだった。

 僕はどうしていいのかわからず、とにかく泣くことしかできなかった。

 やがてそれが落ち着くと、僕は真っ赤に腫れた瞼のまま、パソコンを立ち上げそのCDを読み込ませた。

「あれ?」

 そのCDには、一曲しか入っていなかった。機械が壊れたのかと思い、何回も読み込み直したが、結果は一緒だった。

 仕方なく、曲を再生させる。

 イントロだけで、その曲が何なのか分かった。

 この、激情そのものみたいなイントロ――。

 多分、それがわかるのはこの世界で僕だけ。

 僕は慌てて立ち上がり、玄関を飛び出して外に出た。アパートの外、駅に向かって走り出す。田伏を探して。

 田伏。田伏。――田伏!

 だけど、田伏は見つからなかった。僕が握りしめていたスマートフォンが震えた。田伏からのメッセージだった。そこにはこう書かれていた。

『あれは、お前の小説を読んで書いた新曲だ』


 それから、その曲を浴びるように聴いていた。相変わらず、僕の心は沈みがちだったけれど、この曲を聴いている間だけは元気になれた。ただ、その曲に不満があるとすれば、田伏の歌声に歌詞がなく、ずっとラララとか、ウォウオウとかだったことだろうか。

 そんな中、『剣と鞘』のニュー・アルバムは発売された。僕は当然フラゲ日にレコードショップに行き、大きく展開された新譜の陳列棚からCDを手に取った。目の前に、バンドメンバーと並んだ田伏の写真がある。それを見る僕のイヤホンで、田伏が歌詞のないあの歌を歌っている。

 そういえば。

 この曲は、いつか発売されるのだろうか。こんな風に、店頭に並ぶ日が。

 僕はそうなるといいなと思う。この曲はとても良い。贔屓目なしにそう思う。この曲に田伏のあの躍動的な歌詞が乗れば、『剣と鞘』のファンならばたまらない一曲になるだろう。

 だから、みんなにこの曲を聴いてもらいたい。

 僕はCDをレジに持っていった。

 ある日、野村さんから呼び出された僕は、待ち合わせ場所の喫茶店へと向かった。打ち合わせということだったが、僕は何を言われてもいいように心の準備をしていた。良い話が何か待っているとはとても思えなかった。単行本にならないとか、これ以上小説は雑誌に載せられないとか、そんな話くらいしかありえないと思えた。

「今回は、残念でしたね」

 野村さんはそう話を切り出した。開幕早々の暗い話にジャブを喰らう。

「あ、まあ……、そうですね」

 僕はなんとか答える。頭の中で悪い想像がむくむく膨らむ。こんなとき、僕は自分の想像力が憎くなる。

「それでですね、早速本題に入るんですけど」

 僕はぎゅっときつく目を瞑った。南無三!

「……新しい仕事の依頼が来ていまして」

 え?

 僕はゆっくりと目を開けた。

「仕事の、依頼?」

「ええ。そうです」

 見ると、野村さんはどことなく嬉しそうな顔だ。

「ど、どんな?」

「新しく発売するシングルの収録曲に、歌詞をつけてほしいという依頼です。クライアントは……言わなくてもわかりますよね?」

 呆気にとられる僕の頭の中で、もうすでに聴きなれた『あの』曲が鳴り響く。

 あの曲に、僕が歌詞をつける。いつか田伏が言っていた表現を思い出す。目を描き入れる、だったか。確か田伏は違う文脈で使っていたけれど、今の自分にはその表現がしっくり来た。

 それは、この上なく魅力的な提案だった。あの曲に、自分の言葉を載せられる。自分の思いの丈をぶちまけられる。やってみたいと素直に思った。だけど同時にこう思った。

『剣と鞘』の曲に田伏以外の言葉が入り込むなんて。

 それは、許されないことだ。

 田伏の歌に説得力があるのは、田伏が、田伏自身の言葉で歌っているからだ。どこぞの誰とも分からないような男が作詞したのでは、魅力が半減してしまうだろう。

 黙り込んだ僕に、野村さんが話しかける。

「どうしますか?」

 僕は唾を飲み込み、

「そうですね、今回はちょっと」

「――断るなよ?」

 後ろから、突然声が飛んできた。驚いて振り返ると、大きな体がそこにあった。田伏だった。

「えっなっなんでここに」

 田伏は頬を人差し指でかきながら、

「なんでって……そりゃ、打ち合わせのためだろ」

「私が呼んだんです」

 野村さんはなぜか得意げだ。

「直接話していただくのが一番だと思いまして」

 田伏が僕の正面に座り、野村さんは席を立った。

「それでは、打ち合わせがどうなったか、あとで報告お願いしますね」

 そんなことを言い、喫茶店から出ていってしまう。

 二人の間に、気まずい沈黙が流れた。

「なんで、……断ろうとすんだよ」

 田伏は、ふてくされている。

「だって、『剣と鞘』は、田伏の歌詞も魅力のひとつじゃないか。そこに、僕みたいな部外者が割り込むわけにはいかないよ。それに、僕はあの曲に、田伏の歌詞が乗ったのを聴きたい」

 その言葉は、思いのほか田伏の心に響いたようだった。しかし田伏は続ける。

「曲を作った俺が、お前の歌詞がふさわしいと思ってるんだ。だから、それでいいじゃないか」

「一度も作詞なんてしたことがない僕が? ふさわしい? そんなわけないじゃないか。いいか田伏」

 僕は身を乗り出した。

「僕は売れない作家だ。それも、とびきり売れない作家だ。ネームバリューもまるでないし、ウィキペディアの項目だってろくに更新されてない。そんな作家だ。今売れに売れてる『剣と鞘』が作詞を任せる相手には、いかにも相応しくない」

「だけどあの曲は――お前の小説を読んで――」

 僕は苛立った。

「あの小説だって! あの賞の候補にもならなかった。単行本にもしてもらえてない。なんでかわかるか? 売れないからだ! 僕はいけると思ったのに!」

 僕は、次々溢れ出す言葉を止められなかった。

「僕は、田伏に取材をした。それは作品のためだったけど、僕には打算があった。田伏に取材をすれば、自分自身へのプレッシャーになって作品を書き上げることができるだろうって思いと、……あとは、もしかしたらそれで作品が話題になって売れるかもしれないって、感情だ。僕は、僕は! 君たちの実力に乗っかって、それで売れようとしたこすい男なんだよ。そんな男に、作詞なんてさせていいはずがないだろ?」

 僕は、懇願するように田伏を見た。田伏は真っ直ぐな目で僕を見、そして言った。

「俺のことは、いくらでも利用してくれて構わないよ」

 ぐっ、と喉が詰まりそうな感覚がした。

「それに、お前がどんな魂胆で小説を書こうと、小説が売れなかろうと、極論俺には関係ない。俺にとって大事なのは、あの小説を読んで感動したその気持ちだ」

 田伏は続ける。

「みんな、お前の小説を読んで納得したんだ。お前に任せてみたいって。お前の詞が乗るのが、この曲にとって最善だって」

 田伏はまっすぐ僕を見つめた。

「それは、お前の小説の力だ」

 喫茶店の空気が、一瞬静まり返る感じがした。

 僕は、何も言えなかった。しばらくして、絞り出すように答える。

「まあ、カップリングなら……」

 そう言った僕に、田伏はきょとんとする。

「何言ってんだ、シングル全曲だよ」

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