前から書こうと思っていた話があった。小説家志望の青年、二人の話だ。彼らは文芸部に入り、互いに小説を読ませあう仲になる。だけれど、彼らの小説には歴然とした実力の差があった。才能のある方をA、ない方をBとしよう。Bは悲しいかな、自分にがあった。だからBは小説を書くのをやめてしまう。Aはそれがとても悲しい。確かにBの小説は、プロになれるようなものではないのかもしれなかった。しかしAにとってBの小説は、唯一無二の存在だった。少なくともAにとっては、どんなプロの小説よりもBの小説は魅力的なものだった。BとAの友情にもひびが入り、Bを失ったAは書くことができなくなっていく。

 ラストをどうするかは決めていなかった。決められなかったのだ。しかし、『剣と鞘』の曲を聞くうちに、この話はもっと違う解釈で書けるのではないかという気がしてきた。

 まず大きな変更が、舞台を文芸部から軽音部に変更すること。僕は今まで、ほとんどの小説で小説を書く人間を主人公に据えてきた。だけれどそれを軽音部に変えることで、違った角度から『表現する』ことを描けるのではないかと思ったのだ。そう、僕があの日バンドメンバーたちの笑顔に、全く今までと違う何かを感じたように。

 そして、物語の手触りも変わった。才能のあるなしをはっきりさせず、ともにしのぎを削り合うような感じで……。

 一ページほどのラフだった構想が、どんどんと膨らんでいく。そのBGMは、もちろん『剣と鞘』だ。

 僕の頭の中で、登場人物が、物語が動き出す。

 タイトルは自然と決まった。

 ――『世界と向き合うための方法』。

 これはつまり、Aである田伏に対し、Bだった僕が、世界とどう向き合っていくかを書いた小説なのだった。そこが固まってしまえば、小説はずいぶんとくっきり形ができあがった。


「そうかそうか、執筆は順調か」

 小森は嬉しそうだ。

「よかったよかった」

 言いながら、唐揚げにレモンを絞っている。

「ライブに連れてった甲斐もあったってもんよ」

「それで、話の大筋はだいたいできたんだけど」

 僕の話に、小森が、ん? と反応する。

「あのさ、小森ならわかると思うけど、俺の話って結構が実体験に基づいているっていうか」

「ああ、まあそんな感じだな。だいたい小説書くやつが主人公だし。想像で話を書くってよりは、実体験を元に膨らませていく感じだよな」

「そう、……だから、ちょっと困っちゃって」

「困る?」

「自分の中で主人公が、明確なイメージにまだなってないんだ。僕自身が『彼』をちゃんと掴み切れてない気がする。このまま書き始めると、結局またボロボロになって終わりそう」

 それを聞くと、小森はしばらく考え込む。

「そこを想像力でなんとかするのが作家ってもんじゃないのかね」

 その指摘に、僕は黙り込む。すると小森は笑って、

「なんてな! 嘘、嘘! 要するに、イメージをもっと膨らませたい、んだろ? だったら今、お前がやらなきゃならないことは一つだ」

 そう言いながら、人差し指を僕に向かって突き出してきた。

「やらなきゃならないこと?」

 問いかける僕に小森が笑いかける。

「取材だよ」

 小森はおもむろにスマホを取り出して、急に通話を始めた。

「あ、もしもし? 俺、俺。うそうそ、小森でーす。この前はありがと。……うん、うん、よかったよ。ああ、そう、あいつもよかったって……それで、話があってさあ」

 そこまで聞いていれば、僕は電話の相手が誰なのかは分かっていた。取材って、まさか。

「ほれ」

 動揺する僕の目の前に、スマホが差し出される。画面に表示された通話先は、『田伏剣』。

「ちゃんと自分で説明してお願いしろよな」

 あまりに唐突すぎる話の展開についていけず、電話を押し戻そうかとも思ったが、僕は思い直す。

 ここで取材を頼むことは、いろいろな意味で自分にとって良いことかもしれない。

 無論、『神は細部に宿る』なんて言葉もあるくらいだから、実際に高校生からバンドを組んでいる田伏にインタビューできるのは、間違いなく小説のリアリティを増す結果になるだろう。

 だが、それだけではない。田伏にインタビューをすれば、それが自分へのプレッシャーになる。僕は今までインタビューや取材なんて、ほとんどしないで小説を書いてきたから、完成させることもほとんど自分自身との戦いだった。だけど田伏にインタビューをすれば、田伏のためにも書き上げなければという気持ちに、なれるかもしれない。

 それに、田伏を取材すれば……。

 僕は決心を固め、スマホを受け取って耳にあてた。

「っ、もしもし」

「こんにちは」

 電話越しでも、無駄に良い声だなこいつ。

「あ、あの、……小説を、書こうと思って。今までずっと、自分のことばかり書いてきたんだけど、今度は違うことを書こうと思って。……そう思ったのは、田伏、くんの、ライブを見たからなんだ。あのライブを見てから、ずっと自分の中で何かが鳴ってるみたいな感じがして。それで、今度は自分とは全く違う人を主人公にしようと思ったんだ。音楽が大好きな人を主人公にして、小説が書きたい。だけど、僕は音楽、全然詳しくないんだ。だから、田伏くんに取材をさせて欲しい。勝手なお願いだけど、よろしくお願いします」

 僕は見えないのに頭を下げた。しばらく電話は無音だった。断られるかと思ったその瞬間、

「うん、わかった。いいよ」

 そう返事が返ってくる。

「俺に力になれることがあれば、させてほしい」

「あ、――ありがとう、田伏くん、ありがとう!」

「呼び捨てでいいよ。同級生だろ」

「あ、……うん。わかった」

 そうして早速取材の日程を調整し、僕は電話を切った。


「そういう話はちゃんと編集部を通してもらわないと」

 担当編集の野村さんは不満そうだ。

「す、すいません」

「まあ、でも」

 言いながら、僕の提出したプロットに目を通す。

「確かに取材をするというのはいいアイデアかもしれませんね」

「そう――ですか」

「別に今までの先生の世界観を否定するつもりは全然ないんですが……。何か違うメソッドで小説を書いてみるというのは、いい刺激になるかもしれません。先生はもう小説を書いて長いですから、なおさらですね。それに」

 僕は野村さんを見る。笑顔だった。

「このプロット、とても面白そうです。それに、これを『野見修保』が書くんだと思うと、なおさら。この構成と先生の文体が、どういう化学反応を起こすのか、今から楽しみですよ」

「ということは」

 期待を込めて問いかける。

「はい、このプロットでいきましょう。もちろん、ここからある程度取材を経て変わるとは思いますが、ここからなら大丈夫だと思います」

 僕は立ち上がり、

「ありがとうございます!」

 そう礼をした。


 都内某所。レコード会社直営のスタジオ。入り口で警備員に事情を話し、確認の上関係者ステッカー(日付入り)をもらった僕は、スマホのメッセージに記された番号の部屋へ向かう。今日は、新しいアルバムに向けてレコーディングをしているとのことだった。

「おじゃましまーす……」

 か細い声でドアを開けると、そこから漏れ出る音にあっさりとかき消された。

 音圧に気圧されないように部屋に入ると、そこには、テレビで見るような録音スタジオが広がっていた。柄にもなく、子供のように感動してしまう。すごい、本物だ。部屋にはバンドメンバー三人が座っていた。ブースの中を見ると、田伏が真剣な表情でマイクに向かっている。

「なんか、お邪魔しちゃって本当にすいません」

 三人に僕が謝ると、

「んー、いいよ別に。きみ、小説家なんだって? インタビューとか密着とかそういうのはときどきあるけど、そんな取材は滅多に受けないから、俺もちょっとワクワクしてるよ」

 と、稲生さんがニコニコ答える。橋本さんも同じ意見のようだった。後藤さんは無言だったが、悪く思ってはいないようだ。

 僕は田伏を見た。ガラスの向こう側、高そうなヘッドフォンをつけマイクに向かう田伏は、目の前にある楽譜に何かを書き込んでいたが、ふと視線をあげると僕に気付き手を振った。僕は周囲の視線が気になったが、小さく手を振って返す。

「はいじゃーもうワンテイクくださーい。三十二番から」

 プロデューサーと思しき男の人がスイッチを押しながらマイクに言い、室内にその声を届けると、田伏はスイッチが入ったのか再び真剣な表情に戻った。曲がかかり、田伏が歌い出す。


 君はこの世界を見捨て行ってしまった/価値のないこの世界を/僕はまだそこに立ち続けたまま/生きている/僕はここで生きなければならない


 僕は取材用に持ってきたノートや筆記具をぐっと強く握りしめた。そこにあったのは、眩いほどの『本物』の輝き。僕の心の中に渦巻いた、感動と嫉妬と、湧いてくるここにこなければ良かったと思う気持ちを表に出さないように気をつけて、少し震える手で椅子に座った。

 数時間レコーディングは続いた。

 その後、いよいよ取材の時間になった。僕たちは会議室のような場所に移動して三人に順番にインタビューを行った。最初のインタビューの相手は田伏だった。聞きたいことがいっぱいあった。いつから楽器をやっているのか。楽器を始めたきっかけは何か。曲はどのようにして作られるのか。作曲の過程、みんなで行うという編曲の方法。楽器を弾くときに考えていることはなにか。アマチュアとプロの境界線は、音楽の場合どこにあると思うか。ステージ上に立つ気分はどういうものなのか。歌うときに何を感じているのか。

「歌うときに感じるもの、か」

 その質問に、田伏は珍しく言い淀んだ。

「そんなこと、考えたことなかった。面白い質問だな」

 田伏が言い、少し悩んで答える。

「孤独、かな」

「孤独?」

「そう、孤独。今、俺も初めて気付いた。たぶん、それをそうと認識できていなかった――もちろん、俺はソロ歌手じゃないし、ステージ上にはいつもバンドメンバーたちがいた。だけど例えば曲が俺の歌から始まるとき、俺は何か、言葉にできない感情を……それをもしなにか適切に言い表すとしたら、不安を、孤独を感じていたように思う」

 田伏は机に両肘をついて、指を軽く絡めながら答えた。

「音楽は、瞬間の芸術だ。何度やっても、どんなに練習しても、まったく同じ演奏には決してならないし、できない。だから、曲が始まる時は、期待と同時に不安がある。今度はどんな曲になるだろう。お客さんは満足してくれるだろうか。歌うということは、その曲に、最後目を書き入れることと同じだ。俺がうまくいくかどうかで曲の全てが台無しにもなる――だから、俺はときどき無性に不安になる。無茶苦茶に叫んで、全てを壊してしまいたい気持ちにもなる。そしてその気持ちばっかりは、自分でどうにか対処するしかない――それは、とても孤独な作業だと思う」

 僕はノートにメモを取る手も止めて、田伏の話を聞いていた。田伏は僕と視線を合わせると、少しだけ微笑んだ。

「俺は、それと闘うために歌っているのかもしれない。その不安を打ち消したくて、その不安を自分の支配下に置きたくて、必死で歌っているのかもしれない。結局歌うことでしか、その不安を倒すことはできないから」

 田伏はこちらを見た。

「こんな回答で、どうかな……」

 僕は田伏の黒い目を見つめていた。少し目元に笑い皺ができている、その真っ黒い目。吸い込まれそうな目。

 ――綺麗だ。

 そう思った。黒い目を美しいと思うのは、初めてだった。真っ黒で、なのにとても澄んでいる。静かな沈黙をたたえたような目。この目は、激しく歌うときどんな色に染まるのだろう。燃えあがるような炎を宿すのだろうか。僕は、見たいと思った。もっと、この目に色んな感情が宿るところを。

 僕ははっとして、自分の中に沸いた訳の分からない何かを打ち消した。

「田伏、ありがとう。参考になったよ」

 次は、ギターの橋本さんだった。

「大学で出逢った時、一目惚れしたんだ」

 橋本さんは嬉しそうだ。

「あいつの歌を一曲聴いただけで、こいつは売れるぞと思った。ちょうど俺もあいつも高校で組んでたバンドを解散したところで、互いにフリーの状態だったんだ。だから俺があいつを説得して一緒に組むことにした。……二人ともギターボーカルで、他の楽器やる人なんて決まってなかったけど、俺はとにかく必死だったんだ」

「ボーカルだったんですか」

 僕の驚きに橋本さんは愉快そうに笑う。

「ああ、このバンドの前まではな。でも辞めた。あいつの歌を聴いたら、俺に歌う資格なんてないって思ったよ」

 黙り込む僕に、橋本さんは話し続ける。

「曲を作るときはさ、みんなで意見を出し合うんだ。俺も、いつもちゃんと曲を出すんだけど、採用されるのはだいたい田伏になっちゃうんだよなぁ」

 確かに、今まで何曲かは橋本さんの作曲の楽曲もあるようだった。その曲に田伏の作詞が載っていることについて訊くと、

「作詞もさ、あいつ、得意だから。うまいんだよ、やっぱ。言葉選びが特にいいね。俺はどうにもダサい作詞になっちゃうんだ。だから、作詞もあいつに任せてるよ」

 ベースの稲生さんは、

「僕が加入したのはだいぶ後、メジャーデビューちょっと前くらいだよ。もうインディーズではかなり有名なバンドになっててね。だけどそこまで来て、急に前のベースが辞めちゃったんだ。……メンバーに理由とかは語ってなかったみたいだけど、俺にはなんとなくわかるよ」

「理由が、ですか?」

「うん。たぶんだけど、自分の身の丈をバンドが超えていく感じがして怖くなっちゃったんじゃないのかなあ。ああいう時期って、雪だるま式に何もかもが急速に大きくなっていくからね。僕はその点、客観的にある程度その流れを予想して入ることができたから、幸せ者だったと思うよ」

「経験したことがあるんですか?」

「え?」

「自分のバンドが、雪だるま式に大きくなっていくのを」

 稲生さんは、否定も肯定もしなかった。

「俺はさ、完全に裏方でいいと思ってるんだ」

 そう言ったのは後藤さんだった。

「俺は作曲もできないし、歌詞も書けない。できることは太鼓を叩くことだけだ。田伏とたまたま同じ大学だったってだけで、今、ここにいる。宝くじが当たったような気分、って言ったらいいのかな。本当はここにいるのは、俺じゃなくてもいいんだって思いがずっとあって……こんなこと、田伏にも言ったことはなかったけど、どうなんだろう。他のバンドのやつは、こういう思いに駆られないんだろうかなって思うよ」

「でも……」

 後藤さんのドラムプレイには、定評があると聞いていた。『剣と鞘』は、実力派揃いのバンドなのだと。僕がそういうと、後藤さんは笑った。

「確かに、音楽誌のライターなんかは、そう言って俺のことを褒めてくれるよ」

「じゃあ」

「だけど、俺は俺を信じられない。俺はずっと悩んでたんだ。他のバンドから声がかかるたびに、俺はそこにいけばこの気持ちから抜け出せるんじゃないかって。でも……俺は田伏の後ろで叩くのが好きなんだ。田伏の大きな背中を見ながら、田伏の声を聴きながらドラムを叩いていると安心する。ああ、ここが俺の居場所だって思う。……矛盾して感じるかな」

「いえ……」

「君が今度書く小説は、才能にまつわる小説なんだろう? 少しでも参考になれば嬉しいよ」

 僕は、何も言えなかった。

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