二
同窓会から帰り、実家に着いた僕は、スマートフォンのミュージックストアにアクセスし『剣と鞘』を検索する。ウィキペディアで見たアルバムがヒットする。ああ、本当に存在するんだ。僕はそんな気分になる。そんな気分になるのは、自分の本が初めて本屋に並んでいるのを見たとき以来だった。僕はとりあえず、一番最近のアルバムを丸ごと購入した。
イヤホンを取り出して、曲を再生する。
駆け抜けるような疾走感のあるロックサウンド。イントロが長い。かき鳴らされるギターの音。どこかに運ばれていくようだ。ドラムが激しく鳴り、いよいよボーカルの声が響いた。甘く、切なく、同時に深い、何もかもを包み込むような響きの声。
僕は、イヤホンを思わず外していた。これ以上聴きたくない、そう強く思った。僕は外され床に落ちたイヤホンを見た。まだ、なり続けている音楽がかすかにそこから響いている。僕は急いで曲を止めた。耳の奥に、まだ響きが残っている。そこには、芯があった。確かな表現としての芯。――多分、僕に無いもの。
僕は布団に飛び込んで枕を抱きかかえた。
僕は考えていた。例えば世界に、『何かを本当に表現する才能がある人間』がどれだけいるかを。その数は恐ろしく少なく、多分、クラスに一人、どころか、学年に一人いるかいないかレベルだろう。僕は今まで、その資格が自分にあるのだと思っていた。僕はその「椅子」に座っているのだと。だけど違うのだ。僕はいつの間にかそこから蹴落とされ、もう、そこは田伏の場所なのだ。学年に何人もその資格を持った人間がいるなんて、そんなラノベみたいな設定は現実にはありえないのだ。僕は田伏の存在を、その才能の実在を確認することで、自分の才能の無さを再確認した気がした。
僕は枕に顔を埋めたまま、気がつくと眠っていた。
自宅に帰り、いつもの日常が帰ってきた。僕は時折日雇いの仕事に出向き、相変わらずの労働をこなし、帰ってきて一応原稿に取り組むが全く進まないといういつもの状況に陥っていた。ある日仕事を終えた僕は、給料を受け取りに行った新宿でCDショップに向かっていた。ロックの棚、見慣れないアーティストたちに囲まれるように、『剣と鞘』のCDは全部揃っていた。僕は、それをただ確認したかっただけだ。しかし、気がつけば僕はそれらを手に取って、レジカウンターへ向かっていた。
CDをパソコンに取り込んで、しかし再生することはせず、原稿を書くためのソフトを開いてぼんやり画面を見つめているとスマートフォンにメッセージが届いた。
『来週の日曜日空いてる?』
小森からだった。
『空いてるけど。なんで?』
そう返事をすると、画像が送られてくる。サイトのスクリーンショットだ。暗い背景に、オレンジ色の光の中の楽器を弾く男たちの姿。その上にゴシック体で、『剣と鞘・全国ライブツアー』と書かれていた。
『行こうぜ!』
親指を上にあげ手をこちらに突き出すスタンプとともに、小森は僕を絶対に聴きたくないアーティストのライブに誘ったのだった。
――ライブ当日。
結局、来てしまった。迷わなかったといえば嘘になる。というか、めちゃくちゃ迷った。しかし、例えば僕が自分の意識の中から田伏のバンドを消し去ることができたとしても、それでこの世の中から本当に『剣と鞘』が消えてなくなる訳ではないのだし、そもそも意識から完全に消し去ることなんてできるはずもない。
向き合わなければならないのだ。僕よりも才能があり、僕よりもきらきらと輝こうとしているその男の存在と、真正面から。だけど、そう決めてからもCDを再生する勇気は持てなかった。
結局、一度も彼らの曲を再生することなく会場へと向かっていた。
会場となったのは中規模のホールと呼ばれる場所で、都心からは少し外れた場所に位置していた。電車を乗り継ぐうち、周囲にいる乗客のほとんどがそのライブへ向かう人々になっていくのが分かった。普段ライブにいかない僕にはそのことが驚きだった。女子二人組が、ライブ楽しみだね、と無邪気に微笑みあっている。それを見て、僕の本が楽しみだと誰かこの日本で会話をしてくれた人がいるだろうか、と考えてしまい、暗い気分になった。
「おう、遅ぇぞ」
そう言う小森に謝りながら、待ち合わせ場所の周囲を見回す。そこにあったのはまさに熱狂だった。肩からバンドのタオルを下げた人、ライブのロゴの入ったTシャツをお揃いに着込む人々。皆これから始まるライブの予感に顔を紅潮させて浮き足立っている。僕もそれを見ていると、初めてのライブ会場の非日常感に、随分と気分が良くなるのを感じた。
「楽しそうじゃん」
小森がそう僕をからかう。
「良かったよ、お前がふてくされてなくて」
「僕をなんだと思ってるんだよ」
そう突っ込んだ僕に、にししと小森は笑いかけてくる。
そうこうしているうちに入場が始まったらしく、ぞろぞろと人が列になって入場口に向かって歩き出した。僕がその列に加わろうとすると、小森が僕の腕をぐいと引っ張った。
「こっち」
「え、だって入場はこっちじゃあ――」
「いいから」
そう言って連れて行かれた先に待っていた文字は、『関係者席』。
二階にあった関係者席では、目の前に音響か何かの機材があって、僕たちが関係者席に座ると、機材席に座っていた男がちらりとこちらを見て一礼した。僕は作り出されるライブというものの裏側を覗けた気になって、職業柄興奮したが――すぐに冷静になる。
「っていうか、なんで関係者席なんだよ」
小声で小森を問い詰める。小森は呆れたような顔で、
「お前さ、鈍すぎ。今、このバンドのチケットがあんなギリギリにそんな簡単に取れる訳ないだろ?」
僕はぐっと詰まって、
「それは、確かにそうかもしれないけど。それじゃ何の説明にもなってないだろ」
そう訊く僕に、小森は、
「あっすげえあそこ見ろよ、あれ有名なモデルじゃないか?」
と、関係者席の反対端に座る女性を目で示した。そこには、恐ろしく細い女性が座っていた。見るからに一般人とは違う何かを醸し出している。
「だから、どうやって席取ったんだよ」
僕がそれた話を無理やり軌道に戻すと、
「だって、俺らは関係者じゃないか。田伏の高校からの同級生。違うか?」
「お前、ってことは」
「俺が田伏に頼めば一発よ」
ニカッと小森は笑う。僕は目の前の男が、今まで見知った男とは別の人間に思えて恐ろしくなった。こいつは本当に小森なのか? 改めてこいつの底知れなさを思い知った気がして、何も言えなくなってしまった。
「お、そろそろ始まるんじゃないか?」
そんな俺の気持ちには全く気付いていないのか、小森が呑気にステージの方を見る。客席は満席で、この関係者席にもいつの間にか多くの人が集まっていた。
客席が開幕の予感に静まり返ると、暗くなっていたステージにあかりが灯り、薄い幕が下に落ちた。
ステージの真ん中に、スポットライトを浴びて立っているのは、田伏剣その人だった。田伏は真剣な眼で宙を睨むと、イヤーモニターを一瞬いじって歌い始めた。
境界線を越えろ/君にはその資格がある/無限にも思える太い線を/境界線を越えろ/君ならきっとできるはず/僕はこっちに来いと叫ぶ/越えろ 越えろ 越えろ
場内の空気が煮え立つように熱くなり、歓声とともに沸騰する音すら聞こえてきそうだ。
田伏は肩から下げた朱色のギターをかき鳴らしながら、歌い続ける。
この瞬間を燃えろ/君の心が望んでいる/永遠に思える長い時間を/果てるように燃えろ/君の思うがままに/僕もともに燃えあがろう/燃えろ 燃えろ 燃えろ
一曲目から、僕の心は鷲掴みにされてしまった。ライブの作法も分かっていなかった僕は、周りの客の様子を盗み見て、こうすれば良いのだと体を揺らした。
ああ、どうして今まで彼らの音楽を遠ざけたのだろう。
ちっぽけなプライドや意地なんてどうでも良くなるくらい、彼らの音楽は素晴らしかった。僕は体を揺らし、歌に聴き入り、そして自然と涙を流した。泣いていることを小森には気付かれたくなくて、顔をそらして涙を拭った。
ライブは二回のアンコールを経て、閉幕した。疲れて席に座る僕に、小森が言う。
「さ、ぼーっとしてないで、行くぞ」
そう言い、出口とは逆向きに歩き出した。
「ああ、よく来てくれたな」
がらんと広い部屋に、待っていたのは田伏だった。どうやらこの会議室のようなところを、楽屋代わりに使っているらしい。
「失礼しますー」
小森はそんなことを言いながら、堂々と楽屋の中に入っていってしまった。どういう心臓の構造をしてるんだ、こいつは。僕が楽屋の前でどうしたものかとためらっていると、田伏はこちらを見、
「入りなよ。今日は来てくれてありがとうな」
と僕に言った。田伏はライブTシャツに着替えており、襟口をぐいと持ち上げて顎の汗を拭った。部屋に入っていく田伏に僕は言う。
「今日のライブ、すごく良かった。ライブってもの自体初めてだったんだけど、感動しちゃった」
「はは、サンキューな。良かったよ、楽しんでもらえて」
話しながら不安になる。そもそも田伏は僕が誰だか、ちゃんと認識して話しているのだろうか。よくいるファンの一人とでも思われているのではないか。そもそも、僕と田伏の間にはほとんど何の接点もなかったのだし。僕は、そう思っていた。
田伏が長机の上に置かれたリュックを漁ると、一冊の本を取り出した。
あ。
「これ、覚えてる?」
田伏が言う。その本は、三島由紀夫の『金閣寺』の文庫本だった。僕はそれを見て思い出した。僕と田伏の間にあった、か細い、一度きりの接点。
「……覚えてる、覚えてるよ」
田伏が嬉しそうに目を細めた。
「良かった。野見に言われてこの本、すごい読み込んだんだ」
そう、あれは確か暑い日の放課後のことだ。いつものように教室に残って本を読んでいた僕に、田伏が突然話しかけてきたのだ。
『野見くんって、小説書いてるんでしょう?』
田伏は遠慮がちに、目を合わせずに僕にそう聞いた。そのときには僕はもう賞を獲ったことが大勢に知られていたので、
『ああ、うん』
と答える。
『あのさ、俺、ギターやってるんだ』
『へえ、かっこいいね』
その時の僕は、彼がこんなふうになるなんて、思ってもいなかった。
『それで、最近バンドを組んだんだけど、作詞しろって言われてて』
『そりゃあ大変だ』
『それでさ、俺普段全然本とか読まないから、何か参考になるような、面白い本があれば教えて欲しいなって』
そう、僕はそう問われて、しばらく悩んで三島由紀夫はどうだろうと提案したのだ。三島由紀夫の日本語表現は難解だが同時に美しく勉強になるし、内容的にも楽しめるものではないかとその時の僕には思われた。
「あのとき、すごく真剣に考えてくれただろう?」
「そう、だったっけ」
「ほとんど話したことのない俺相手に。それがすごく嬉しかったんだ」
そう言いながら、『金閣寺』の縁を指でなぞる。僕はといえば、少し動揺していた。あんなボロボロになるまで本を読み込んだこと、僕にあっただろうか? 僕は今日のライブを見て、彼のことを無意識に『天才』だと片付けようとしていたように思う。だけど違うんだ、彼はきっと……。
「大丈夫か?」
田伏が少し体を曲げて僕の顔を覗き込んでいた。
「あ、ああ、ごめん」
「それで、野見の小説も読んだよ」
心臓が、いきなり大きく鳴った気がした。頭が真っ白になったように思う。思わず口が動いた。
感想を聞くのが怖いと思った。
そう思うのは、初めてのことだった。僕は、この男に批評されるのが恐ろしかった。何か否定的なことを言われたら、とてつもないダメージを負ってしまいそうだ。
「ごめん、その話は、ちょっと」
そう僕が強めに彼の話を遮ると、田伏はそれだけで察したようだった。
「あ、ごめん、うん……」
流れていた気まずい沈黙を破ったのは、またもや小森だった。
「二人とも、そんなとこ突っ立ってないでこっち来いよ」
そう言い、バンドメンバーの中に混じってこちらに手招きする。溶け込み具合が半端じゃなくて、改めてこの男の恐ろしさを感じた気がした。僕は寒々しい思いをしながら小森のところへと歩いて行った。
「えーと、ギターの橋本。ベースの稲生さん。それにドラムの後藤さん」
田伏が俺にバンドメンバーを紹介する。年齢を聞くと、橋本さんは同い年の二十六歳。稲生さんは三十二歳、後藤さんは二十七歳とのことだった。元が学生バンドだったと聞いていたので、稲生さんの離れた年齢には驚いたが、どうやら、数度のメンバーチェンジをしているらしい。
「知り合いのバンドのつてだとかで、人を紹介してもらって、って感じかな。実際、何回も解散しそうになったんだよ」
そんなことを、田伏は笑って話す。今が充実しているからこそ言えることなのだろうと僕は思った。口元に笑みを浮かべながらそれを聞いているメンバーとの間にも、確かな信頼関係があるように思えた。
僕は、羨ましいと思った。彼らのその独特な紐帯を。確かに彼らを結びつけている太い糸を。そこには例えば友人とも、恋人とも家族とも違うつながりがあった。ともに表現活動をすることでしか得られないつながり。それに対して、僕は孤独だった。僕はいつも一人きりで小説を書き、一人きりでその批評を受け入れてきた。小説が売れなければそれは他の誰でもない僕だけの責任だったし、例えば僕の小説が何か賞をとったとしても喜びを真に分かち合える存在はいなかった。
「野見? どうかしたか?」
眉間に皺でも寄っていたのだろうか、田伏が心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「いや、……なんでも、ないよ」
その後、打ち上げにまで誘われてしまった僕らは、行く気満々の小森を無理やり引っ張って会場を後にした。
「なんで行かなかったんだよ、打ち上げ」
小森は不満そうだ。
「なんでって……完全に部外者だろ。行ったら迷惑だよ。ていうかよく行く気になれるな」
「ああいう社交辞令を真に受けると、案外いいことあるんだぜ」
にしし、と小森は笑いながら言う。本当にそうなのだろうか? だとしたら僕は今まで、どれだけのチャンスを棒に振って来たのだろう。
「なんでもさ、自分から動くのは難しいけど、向こうから誘われたときくらいバカ正直に乗っかるのも悪くないと、俺は思うよ」
小森は今度は真面目な顔で念を押す。
「そういうもんかねえ」
「そういうもんだ」
そう言う子守が、いつになく頼りになるように思えた。
家にたどり着いた僕は、いつものように机に向かって、いつものように出てこない小説のネタをひりだそうとしていた。部屋は静かだった。まだ、耳の奥にあの音が残っているような気がした。その音が、静かな部屋の中に、電話のバイブレーションの音のように響いている。あの音楽がまた聴きたい。そう思った。また、浴びるようにあの音を聴きたい。そう言えば、『剣と鞘』のアルバムをパソコンに取り込んだことを思い出す。僕は音楽ソフトを立ち上げ、夜中なのでイヤホンをつけると、再生ボタンをクリックする。
また、田伏の声が聴こえる。
太く逞しく、どこか憂いを帯びたあの声。どんなに爽やかな曲でも、その声が歌うとどこか哀愁がある。そのちぐはぐさが一種の魅力なのだと僕は分かった。だからこそ、あえて駆け抜けるような曲が多いのだろう。これがバラードだと『正直』すぎる。僕は腕を組んで目を閉じながら、曲にじっと集中していた。
僕はあのバンドメンバーの笑顔を思い出す。そしてなぜか、強く、こう思った。
小説が書きたい。
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