拾参

 私の危惧は当った。私の背中から冷や汗が噴き出して居るのが判った。

「彼が此の上なく妬ましかった」


 謙一は一拍置くと、内臓から何かを絞り出す様に語り出した。


「石井君は美咲さんと同じ空気を吸い、同じ光景を眺め、同じ時を過ごせるのだ。対して僕は、鏡越しに僅かな時間を共にするだけだ」


 文学を通じて、恋の苦しみについて幾許かの理解があるつもりであった私であったが、目の前の友の姿は、そのような浅薄な理解を遥かに超えるものであった。


 恋に依って、人の生の崩壊が招かれることも有るという事を、私は知っていた。私が読んだ本は、彼も読んだし、逆も然りだったから、彼も同じく恋の恐ろしさと言うものを知っていた筈だ。

 なのに彼は恋の毒牙にかけられてしまった。

 恋という毒の効力を、まざまざと見せつけられているようであった。


「彼らは鏡の中に居るんだぞ、そんな人に恋をするなんて、本気か」


「お前は僕の言っている事が、信じられないのか」


 はじめての恋が、こんなものでは、彼も耐えきれぬだろう。彼はいま、恋の重みに、毒に、押しつぶされそうに成っている彼を見ては居られなかった。


「美咲さんに想いを伝える気は無いのかい」


 私がそう言うと、謙一は私を鼻で笑い、それから道化を見ているかの様な微かな笑みを浮かべた。その笑みが不気味に浮かんでいた。


「勇気など、到底無い。そもそも、君、簡単に言うけどね、恋心を伝えても了承される権利は僕には無いよ。何たって生きている時代が百年も違うから」


 謙一は目線を廊下の板目に落して、声を押し殺して、泣き出した。


「宮本、ひとを好きだと云うのは苦しいな。此の胸の痛みは日に日に強まって居る」


 謙一は窓辺に立ち、遠くを見つめながら呟いた。

 愚図の私が言えるのは、薄い励ましの言葉しか無かった。此処に書くのも無駄であるくらい紙片の如く意味の薄い言葉しか私は紡ぎ出す事が出来なかったのだ。


「兎に角、明日二人にきちんと伝える事だな。あちらから見れば、君が勝手に怒り出してしまった様に見えたんだからね」


謙一は暫し沈黙を置いて、 彼は何か決意を固めた顔で、目尻に涙を溜めながら言った。


「判った。どんな答えが返ってきても良い。ただ彼女に想いを伝えられれば其れで満足する」


 私は謙一の言葉に頷いた。

 例えどんな結末になろうと、謙一がこのまま見事に恋慕の炎に灼かれて灰になるよりは、幾らかましだ。


 彼の顔には不思議と、先ほどの不気味さは感じられなかった。寧ろ謙一の顔に生気が取り戻されたかの様な気がした。

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