拾弐

 大正九年 十一月二十三日 雨天


 今日の朝、謙一の様子が普段と違うことに気づいた。


 彼が一日中、無言のまま、ぼんやりと外を眺めていた。普段なら彼は、一日前にした美咲との会話の事を繰り返し繰り返し熱心に話しているのが印象的であったが、その日は違った。まるで、現世の何もかもから心が遠く離れてしまって、魂がスッカリと抜け落ちてしまったかのような態度であった。


「謙一、今日は何だか元気がないな」


「いや、何でもない」


 謙一は視線を遠くに向けたまま、言葉を続けなかった。

 何かあったのかと私は再度尋ねたが、謙一は曖昧に微笑むだけで、答えを返さなかった。



 夕方になって、鏡がいつも通りあちらの世界を映す。

 が、美咲と石井君、二人の姿は全くもって見当たらない。ただ真っ暗な闇が映っている。


 ――謙一の様子、いつも現れていたはずの二人。


 全てが我が不安を掻き立てる。私が昨日不在の内に何かあったのでは無いか。我が心中の不安は紙風船の様に膨らんでいく。



 謙一は終鈴が鳴った途端に、乱雑に鞄に筆箱や手帖を放り込むと、早足で廊下を歩いていった。

 私は全力で廊下を疾走し、謙一に追いついて、彼の肩を掴んで叫んだ。


「謙一、今日は美咲さん達も見当たらない。一体昨日、何があったのだ」


 我ながら必死すぎる声だった。謙一は少し沈黙した後、ぽつりと言った。


「石井君の事で、一寸ちょっとね。流石に、君にも言えない」


「謙一、如何どうした」


 私は歩みを進めんとする彼の外套を引っ張り引き止めた。謙一は般若の面が張りついたように、明らかに虫の居所が悪いと云う顔で振り返って、沈黙を保っている。

 ずっと黙っている謙一に、私はとうとう痺れを切らして、私は正直に彼を指摘する事にした。


「昨日、二人と喧嘩でもしたんじゃ無いか」


 私は彼の沈黙を待った。

 待って、待って、永遠に此の沈黙が続くのでは無いかと思った。


 謙一は眉を顰めて、其れから深く息を吸った。目線を避けるが如く、口元も歪んで、剣にでも貫かれたかの様な表情をした。帽の庇を深く下げる仕草が根暗に見えて仕方が無い。


「……君には何もかもお見通しだな。喧嘩というより、僕が一方的に怒ってしまっただけなんだ」


 私はぐらつく足に力を込めた。


「どうやら僕は本当に、美咲さんの事を好いてしまったらしい」

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