10

 鏡を見つけてから何日も経った。私たちは放課後残って、佐伯さん宮本さんたちと交流をするようになっていた。

 授業が終わると、私と石井は、誰もいない教室に残って、鏡を通して彼らと筆談する。不思議な経験だが、いつの間にか慣れてきてしまった。

 今日もいつものように、放課後に教室に残って鏡を通して筆談する。石井は野球の練習で居ないので、私だけが教室に一人でぽつんと座っている。


 吹奏楽部の演奏が遠い場所から響いてくると、今は放課後なのだと実感が湧く。


 私は、廊下を通る人に不審がられないように無造作に教科書を広げて、そこに立てかけるようにして鏡を置いた。

 その間も、佐伯さんは微笑んで、机に肘をついてこちらを眺めている。眺めているというより、彼はいつも、真剣な表情で鏡を見つめている、と言った方が正しいと思う。


「美咲さん、今日はお一人ですか」


「石井が練習で来られなくて。佐伯さんもお一人なんですね」


「宮本も、家族の用事で来られないそうです」


 佐伯さんは少し間を置いて、それから手元の紙に素早く何かを書き始めた。



「美咲さん、いつも来てくださり、有難うございます」


 突然の佐伯さんの言葉に私はどきりとした。

 改まってありがとう、と伝えられると何だか照れる。私は自然と顔がほころんで、少し顔を傾けると、佐伯さんが続けて書いた。


「そちらの窓から、夕陽が見えますね こちらでも、同じ空が見えます。時代が違っても同じく美しい空が見えるのですね」


 そう言われて、私は窓の外に広がる夕焼けの空を見つめた。

 まるで白とオレンジをべったりキャンパスに塗りたくった、絵に描いたような空。確かに美しい。

 でも私には、何だかそれが、小さなジオラマに造られたもののように思えてならなかった。

 そんな空よりも佐伯さんの言葉の方が、じんと心に染み付いてくる。


 そんな思いに耽っていると、突然、廊下から足音が聞こえてきた。はっとして我に返る。先生かもしれない。

 慌てて鏡を隠そうと手を伸ばした瞬間、教室のドアが開いた。同時に、聞き慣れた声が響いてきた。


 *


「紫藤、まだいたのか」


 振り返ると、石井が教室に入ってきたところだった。彼は練習を終えて戻ってきたらしい。汗ばんだ額を拭きながら、私の方に歩み寄ってくる。

 私はほっとして、持ち上げた鏡をそっと机の上に置く。


「石井、練習終わったんだ」


「ああ、今終わったところだ。良かったら一緒に帰ろうぜ」


 石井が笑いながら私の肩越しに鏡を覗き込む。変な沈黙が数秒あった後に、口を開いた。


「そうだ、帰りに寄り道しようぜ。交差点の角に、美味いケーキ屋があって……」


 意外な提案だった。石井にケーキなんて一番似合わないのに。


「ケーキ?石井って甘いの、好きだったんだ。」


「ああ、いや、えっと……」


 私が半分冗談じみて言うと、石井は少し肩をすくめた。それが何だか奇妙で、私も思わず吹き出した。

 ふと、鏡から目を離していた事に気付いて、何気無く鏡に目をやる。


 *


「もう今日は止します 先に帰ります」


 佐伯さんが紙を掲げている。彼は、狩猟犬のように冷たい、別人の眼で私を、いや、私じゃない、何かを睨み付けていた。

 彼は、私の後ろにある何かをじっと見つめているようだった。

 私は思わず振り返ったが、教室には私と石井しかいない。再び鏡に目を移すと、佐伯さんの姿はもう消えていた。


 鏡には、私と、同じく状況が飲み込めないらしい石井の姿が映るだけだった。

 魚の骨を飲み込んだ時みたいな痛みが胃の奥につっかえていた。


 ケーキを食べに行く気分には、なれなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る