大正九年 十一月五日 雨天


 町が雨で烟っていた。私は今日も謙一の家に歩みを進める。


 謙一を待つ間、私は、雨粒で濡れて見え辛くなった眼鏡を拭き、門の下の泥に、閉じた蝙蝠傘で戯れに、へのへのもへじや、円錐形の公式を書いたりして暇を潰した。


「宮本、待たせた」


 謙一の声が背後から心地好く聞こえる。


「今日も準備室に向おうと思うんだが、如何どうする」


 彼の声は素人目にも判るくらいに浮き立っていた。平素の無口なる彼を知る者にとっては、昂揚の様は、あたかも別人、側から見れば不気味で在ったかも知れない。

 然し、私は不快の念を覚えなかった。


 美咲と石井君については、私も興味心があった。

 字を書ける女子、其れも我々と同年くらいの女子で、字を書けるのを見たのは、はじめてだった。

 石井君も同じく文字が書ける様子だし、彼らは、余程高い教育を受けて居るのだろうか。

 もし彼らの書いた事が本当で有るならば、彼らは百年後の日本で生きて居る事になる。彼らに尋ねたい事は沢山あるのだ。


 無論私は準備室に行く積りであったが、私には特に気になる事があった。


「謙一、美咲さんが気になるのか」


 私がそう言うと、謙一の頬が僅かに赤らんだ。彼は直ぐに顔を逸らして、慌てたように帽のひさしを摺下げて顔を隠そうとした。

 その仕草が何とも可笑しく、私は思わず吹き出してしまった。


 私は、今まで無意識に、まじめと完璧とを貫徹して来た、彼の人間らしい一面を垣間見た気がした。


 今の今まで、学校には男ばかりが居たので、彼の異性に対する態度などは、全く目にした事が無かった。また我々はカフェーの女給に言い寄るだとか、町で女学生に声を掛けると云ったふしだらな人間でも無かった。

 見合いも、佐伯の家では洋行が有るかもしれない、するにしても帰って来てからで良い、と、取らぬ狸の皮算用をすると云う感じだった。

 恐らく彼は、彼の母くらいしか確りと女を知らないのでは無いか。


 我々は足早に学舎へと赴いた。我々は雨に濡る石畳の上を、ワルツを踊る様に軽やかに歩んだ。途中、水溜りに豪快に足を突っこんで、袴の裾が濡れたが、そんな事は微塵も気にならなかった。


 ◇


 夕方、準備室に到着した我々は、隠していた手鏡を取出す。彼らの笑みを見ると何だか元気が湧き出てくる気がする。


 我々は手鏡を持ち教室に移動する。移動の途中でも謙一は何度も何度も鏡を見返していた。

 二宮金次郎が本を携えているならば、彼は女物の鏡を携えて歩く奇妙な男といった感じだ。彼の歩幅が普段より少し大きかったので、私は追い付くのに苦労した。


 謙一は急に足を止める。彼の胸前で握られた鏡の奥には矢張り、美咲と石井君、二人の姿があった。

 美咲の艶やかな黒髪が白い肌に好く映えている。

 我々の場合、髪は特に夏場なんかは皮脂でネトネトとして気持が悪いものだから、いっそのこと石井君の頭の様にしてしまいたい程だ。対して彼女の髪は幾日経てど、繻子しゅす、若しくは西陣織の生地の様に清潔で不思議だ。

 一方、石井君の頬は弛んで、何と無く不機嫌そうに見えた。そんな石井君には見向きもせずに、謙一は矢張り、美咲を見つめて居るのが好く分かった。

 二人は小さな画面から未知のものを覗き込むように、私を見ている。この会話は屹度きっと聞こえていないのだろう。もし聞こえていたとしたら、謙一は穴にも入りたい気持ちに成るだろう、其れはいささか可哀想だ。


「君はやっぱり美咲さんを好いているんだ、此れが噂の一目惚れというやつか」


 私は何だかゴキゲンになってしまって、流行りの唄の歌詞を即興で取り替えて熱心に謳いあげた。


「逢いに行くサ 鏡をりても 僕の呼ぶ声届かぬか」


 すると、今までに聞いたことの無い、謙一の低い声が私を刺した。


「黙れ」


 恐怖を感じながら謙一の顔を見上げると、彼は何事もなかったかのような笑みを浮かべ、悠然と出口へと歩き去った。其の光景は、実に不気味であった。

 夜分の今、我ながら謙一に意地悪なことをしてしまったと後悔の念が湧いている。明日からは、神経質になっている謙一を揶揄するような行為は慎むべきだと、私は心に誓った。

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