6

 私は小さな悲鳴のような声を上げてしまった。


「見て!」


 達筆に初めまして、と書かれている文字がはっきり、見えた。私たちはその五文字を、息を殺して見つめる。


 私は急いで、鞄から筆箱を取り出してペンを手に取った。震える手で、少し汚くなってしまったが、それでもなんとか書き上げる。生徒会で、皆の前で演説をするときよりも手が震えて、手汗が止まらない。


「初めまして。私は紫藤美咲です」


 試しに自分の名前を書き、それを掲げてみた。鏡の中に映る二人の顔が、たちまち輝きを帯びる。


「初めまして、佐伯謙一です」


 二人のうち、すっと通った鼻筋の青年が、紙をこちらに向け、柔らかく微笑みかけてきた。

 その背後には、ずっしりとした木製の机と椅子が整然と並び、教室全体に重厚な静寂が漂っている。その中でひときわ目を引いたのは、手前の机に置かれた青く鮮やかな装丁の一冊の本だった。


「その本は何ですか?」


 私は思わず尋ねる。


「谷崎潤一郎の『愛なき人々』です。今僕も丁度読んでいるところで、文壇でも評判の話題作です」


 佐伯さんは、得意げに本を持ち上げ、表紙を見せてきた。そこには、確かに谷崎潤一郎と書かれている。しかし、その文字は右から左へと綴られている。

 ……話題の新作……?


 何か違和感がつっかえている。

 私は意を決して、彼に問いかけた。


「謙一さん、今は何年ですか」


「大正十三年ですが、どうして」

 *


「どういうこと……?」


 私は、その言葉に世界がひっくり返ったような感覚に襲われた。信じられないというよりも、どこか悪い夢の中に迷い込んだような感覚。

 石井もぽかんとして驚いていたが、暫くして手探りでポケットからスマートフォンを出してきて、大きなタップ音をさせながら、素早く調べた。


「大正十四年って、1924年かよ」


 私も放心しつつペンを手に取った。


「私たちは令和六年 2024年に生きています 本当に大正時代なんですか?」


 鏡の中の青年たちは、私が書いた文字を見て、また目を白黒とさせた。時代が違っても感じていることは一緒なのだ。

 しばらく私たちが熱心に鏡を見つめていると、今度は佐伯さんの隣にいた眼鏡の青年が、紙に何かを書き始めた。


「俺は石井疾太です よろしく」


「石井君、宜しく。

 私は宮本和之です。貴方がたが居られるのが、百年後とは」


 私は息を呑んだ。百年の時を超えて、リアルタイムに鏡の向こうの青年たちと言葉を交わしている。


「本当に、大正時代の人と話してるんだ……」


 *


 聞き慣れたチャイムが鳴り響く。その瞬間、鏡の表面がまるで揺れる水面のように波立ち始めて、数秒も経たないうちに二人の姿が徐々に霧に包まれたように曇って、遂には見えなくなった。


「まさか、違う時代の人と喋れるなんて」


 私は残念でならなかった。これから彼らにもっと詳しい話が聞けたかもしれなかったのに。


「でも、一世紀前の人と喋れるなんて、すげえじゃん」


 鏡にはもうさっきの二人の姿は無い。ごく普通の鏡に見える。触れてみても、ただツルツルして、ひんやりとした感触だけが指先に伝わってくる。

 鏡にはどんよりした私の顔と、それとは対照的に、白い歯を見せて笑う石井の顔が眩しく反射していた。

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