大正九年 十一月四日 晴天


 昨夜は一睡もせず。


 謙一も同じく、朝から落ち着かぬ様子だった。めづらしく、目の下に隈が浮かんで居た。

 授業中も我々の心は終始、鏡の事に囚われていた。先生の講義すら、欠伸を数回、伸びを数回、窓の外を見遣る事数十回。

 そんな我々の腑抜けた態度を見て、先生の眉間に深い皺が刻まれるのを、私は見た。然し、我々は最早、彼を気にかける余裕も無かった。


 私と謙一は、今まで一度たりとも、講義を無碍むげにした事は無かった。其れが急に態度を変えたので、先生も奇特に思ったのだろう。

 今晩、振り返れば、一所懸命に教鞭を執る先生の話を聞き流したのには、無礼にも程が有った。先生には悪い事をした。


 ◇


 昼餉を摂ろうと中庭に繰り出すと、謙一が突如、真剣な面持ちにて語り出した。


「宮本、あの鏡を通じて、彼女と交流できるのではないかと思うんだが」


 私は謙一の言葉に、一瞬息を呑む。そもそも、昨日の出来事が、本当に我々の眼前で起こった事なのか、半信半疑で居たのだ。もしや我々の脳に異常をきたしたのか、集団幻覚なのでは無いか、疲労が我々を狂わせて居るのか、私の頭は昨日の現象を信じる事を拒絶していた。


「でも、如何どうするのだ」

「筆談はどうだろう。紙に書いて見せれば好い。今の時間は人が居るから、鏡は持出せないが、授業が終ったら見に行こう」


 彼は何か面白い事を成そうとする前の少年が如く笑った。私は恐れている表情を謙一に今更、晒したくは無かったので、仕方無く彼に付き合う事にした。


 授業が終わった後、誰よりも早く教室を飛び出し、理科準備室へと急いだ。壇の下に隠しておいた箱を、外から弱く叩いたり振ったりして見たが、何も起こらない。

 諦めて箱を開封した。何の変哲も無い鏡だ。


「ほら見ろ矢張りただの鏡ではないか」


 否や、その面が揺らめいた。私は鼠の死体を見た時の様に飛び退いてしまった。

 其処には昨日と同じく、例の教室が映し出され、昨日の女子、そして、知らない坊主頭の青年が横に居た。提灯のあかりの様に柔らかく窓から西日が差し込んで居る。


 謙一は見るからに気持の浮き立った様子だった。彼は事前に卓上に用意していた紙を手に取り、万年筆で初めまして、と達筆に書き付いた。

 紙を鏡に近づけるや否や、彼らが驚きの表情を浮かべたのは明らかだった。彼女もまた、紙に何かを書き始めた。


「初めまして。私は紫藤美咲です」


 謙一の眼が、死人が蘇った様に、一瞬にして照り輝いたのを私は忘れない。

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