大正九年 十一月三日 晴天


 鏡から違う時代が見えた。

 これを読んだ諸君は、荒唐無稽であると馬鹿にするやも知れないが、私の頭が妙竹林な事に成ってしまった訳では無いと云う事を、初めに書いておく。


 私は今朝、我が友、佐伯謙一が起床する頃合いを見計らい、私は彼の家に向った。雀が、干された稲茎に残る米がないかついばんで必死に探していた。朝日で道が明るく照らされて行く。私はいつも通りに彼の家に歩を進めた。


 佐伯家は私の家から歩いて数分の処に在り、由緒正しき家柄にて、さながら門構えも立派な物で、私も思わず肩を竦めてしまう。謙一はそんな大掛かりな門から似つかわしい威風堂々とした姿で現れた。


「お早う」


 我々は横に並んで、登校の途についた。路道に、忙しなく人々が行き交う。

 謙一は今日の勉学の予定について語り始めた。私は彼の勉学談義に耳を傾けながら暫く歩く。

 佐伯家の門には及ばないが、此れ又、江戸の寺子屋の残香のする、厳かな装飾のされた校門を潜って、昇降口で靴を脱ぎ替えると、我々は延々と続きそうな廊下を進んで角の教室へ向った。


 教室に入ると、先生が慌ただしく書類を整理されていた。先生は我々を見るなり、声を掛けて来た。


「おや、君達、朝早くからまじめで善いねぇ、助かるよ。一寸ちょっと手伝いを頼まれてくれないか」


 私が面倒だなと思って居ると、謙一が元気よく返事をし肩に掛けていた鞄を机に置いた。先生は嬉々として、続けて申された。


「今、理科準備室の整理をしているんだ。古い実験器具を倉庫に移動させたいのだけれど、手伝ってくれるかい」


 私は愚図なので直ぐに返事が出来ずに居た。私は普段からそうなのだ。

 そうして居る間に、謙一が意気盛んにハイ、と同意を示すと、先生は謙一の背中を強く叩いて、そうか、やってくれるかと鼓膜が破れそうになる位の笑い声を張り上げた。


 謙一は、先生や学友にとても好かれる性質を持っていた。彼は樹液の様に人間を惹きつけた。私は彼のそんな性質に惹かれたひとつの虫だったのだろう。

 まじめで正直で配慮の行き届いた、私から見れば希臘ギリシャの彫刻の如く完璧な人間だ。

 故に、聞くからに面倒な仕事も引き受けてしまうのだ。


 朝から働かされるのは億劫だった。きっと先生自身が煩わしく思った仕事を、我々に押し付けたのだ。

 謙一は先生の目論見に気付いて居ない様子でお気楽に背筋をピンと正している。我々は早く仕事を終らせよう、と足早に準備室へと向った。


 準備室は、ただでさえ埃っぽく、壁がせり立って窮屈な中に、幹色の朽ちた古めかしい木箱が幾重にも並べ立てられ、一度押せば雪崩の様に倒れてしまいそうである。

 中身を割ってしまっては大変だと思いつつ、我々は手頃そうな物から順々に運び出した。


 暫くして、木箱の群の中に私はへんな材質の箱を見つけた。

 茶色いのには変わり無いのだが、厚紙の様な段々に折られた、仕切が挟み込まれて居る。中身を開けると、中から此れ又、不思議な物が現れた。



 それは手鏡であった。額には、何やら繊細な模様が彫られて居て、鏡面が埃で煤けて、霧の様に染め上げて居る。

 私の学校は、教師も生徒も男しか居ないのに、女が持つ様な、こんな美麗な装飾がされた手鏡を見るのは奇妙だった。


「謙一、見てくれ」


 私が小さな声で呼びかけると、謙一が近付いて、手鏡を覗き込んだ。彼は、側に置いておいた手鏡の入っていた箱を一瞥して、見かけは大きな箱であるのに中身は小っぽけな物だと笑った。


「勿体無い、磨こう」


 彼がそう言い、自分の服の裾で鏡面を拭う。其の時であった。

 私は立ち眩みを起こしたかの様になり、くらくらと目を回した。私もいまだに、其の時の光景の衝撃を忘れられぬ。

 ――鏡面に、我々では無い、見知らぬ光景、見知らぬ人間が映ったのだ。

 全くもって、我々の姿では、無かった。

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