第9話 名づけ
「え、ちょっと、大丈夫? 度がきつすぎたかしら。弱いものを持ってきてもらったのだけれど」
アリシアは慌ててケイドンの顔を
眼鏡を外そうとツルに触れるが、それをケイドンが制止する。そして、絶対に外させないとばかりに、ぎゅーっと眼鏡を両の手の平で顔に押し付けた。
「だめよ、レンズを手で触っちゃ。
拭いてあげるから、とハンカチを取り出すが、ケイドンは顔面を押さえたまま、首を横に振った。
「わかったわ。なら、後で自分で拭きなさい。優しくそっとよ。傷がつかないように」
アリシアはケイドンの胸元にぽんとハンカチを置いた。
「眼鏡の度は調整が必要だから、あなたが落ち着いたら眼鏡屋を呼ぶわ。そうしたらもっと見やすくなるはずよ。それまではまだ見えにくいかもしれないけれど、それで我慢して」
ケイドンは眼前から手をよけて、ちらっとアリシアを見ると、きゅっと目をつぶった。そのまま、こくこくと頭を縦に細かく振る。
これで少しは心を開いてくれたらいいのだけれど。
アリシアは、サイドテーブルに置かれた手つかずのスープを見た。
「これ、飲まないなら片づけるわね」
「あ――」
トレイを持ち上げると、ケイドンが勢いよく起き上がった。
アリシアと目が合うと、また、かぁっと顔が赤くなる。
「飲むの?」
こくこくと首が縦に振られる。
「そう」
さっそく眼鏡の効果が表れたのだろうか。
アリシアがケイドンの膝の上にトレイを置くと、ケイドンはスプーンを握り、
どんどん飲み進み、見る間に皿が
マナーもへったくれもあったものではないが、それはこれから教えていけばいいだろう。まずは栄養を
ケイドンがスプーンを置いたのを見て、アリシアはその頭に手を伸ばし、優しく頭を撫でた。
「よくできました」
細くさらさらの黒髪は触り心地がとてもよく、ついたくさん撫でてしまう。
はっと気づいた時には、ケイドンは
「ごめんなさい。触りすぎてしまったわね。あなたの髪、すごく触り心地がよくて」
頭を撫でられるなど、屈辱だったかもしれない。ちょうど難しい年ごろだ。
「あ……」
アリシアが手を離すと、ケイドンは顔を上げた。
そしてまたすぐに俯いてしまう。
「だい、じょうぶ……です」
「そう? ならいいけれど」
言葉とは裏腹の態度に、アリシアはもう触らないようにしようと思った。本来の地位であれば、当然むやみに触れてはいけない人物なのだし。
「何か、思い出せたことはある?」
トレイをサイドテーブルに移動させながら、アリシアは何気なさを装って聞いた。
だが、ケイドンは黙って首を横に振るばかりだ。
「名前も?」
こくり、とうなずく。
「呼び名がないのも不便よね。ずっとあなたって呼ぶわけにもいかないし」
使用人として働かせるならなおのこと、呼び名がないと不便だ。
かといって、ケイドンと呼ぶのも
名前をきっかけに帝国に知られてしまうのは困る。今のケイドンを帝国に引き渡してもよいものか判断がつかないし、下手を打てば
未来の皇帝を呼び捨てにするのもどうなのか、という思考も働いた。
「呼ばれたい名前はある?」
ケイドンが首を横に振る。
「そう。じゃあ……」
アリシアが思考を巡らせて目線を上へと移動させると、豪華な天井画が目に入った。
悪いドラゴンを討伐した勇者が、天使たちの祝福の元、神へと謁見を
「ヴィクトル。これからあなたのことを、ヴィクトルと呼ぶわ」
そう言うと、ケイドンは目をぱちぱちと瞬かせた。
「嫌?」
ケイドンが首を横に振る。
「なら決まりね。あなたは今日からヴィクトルよ。これからよろしくね、ヴィクトル」
こくりとヴィクトルが頷く。
ヴィクトル、と噛み締めるように呟く声が聞こえた。
「スープを飲んだということは、治療を受ける気はあるのよね?」
ヴィクトルが頷く。
「使用人になる決心もついた?」
アリシアが首をかしげながら聞くと、ヴィクトルはじっとアリシアを見た。
眼鏡のレンズ越しの瞳は、睨みつけられていないのもあってか、若干赤色が和らいで見えた。
数秒見つめ合った後、ヴィクトルは、こくりと頷いた。
「そう。ならあなたはこれからうちの使用人ね」
淡々と告げながら、アリシアは内心ほっと息をついていた。提案を拒否してケイドン――ヴィクトルが出て行ってしまえば計画が狂ってしまう。出ていった先で何か悪いことが起こり、前世の皇帝と同じ道を歩まれないとも限らないのだ。
これでアリシアがヴィクトルを
あとは大切にして、真っ当な人間に育て上げればいい。少なくとも、王国を滅ぼさない程度の人物に。
「じゃあまず――」
アリシアは指を一本立てる。
「ちゃんと言葉で返事をすることから始めましょうか。公女の問いかけに首を振って答えるなんて、許されることじゃないわよ」
* * * * *
使用人になることを決めたヴィクトルは、その日の夜に訪れた公爵にたどたどしくも挨拶をして、雇ってもらえることへのお礼もきちんと述べた。
そうして正式にルーエン公爵家の使用人となった。
出された食べ物や薬を拒むことはなくなり、医者の診察も嫌がらず、手厚い看護によってすぐに回復すると、アリシアの侍従見習いとして正式に働き始めた。
言葉遣いやマナーも少しずつ覚え、痩せこけていた頬がふっくらとし始める頃になると、侍従見習いとしてなら人前に出せる程の成長ぶりを見せた。
「美味しい」
ヴィクトルが
香り高く、ルーエン産の特徴であるまろやかな甘みが際立っている。温度もアリシアの好みの通りだった。
「そうでしょうそうでしょう。私が教えましたからね」
横で見ていたエミリーが腕を組んで得意げに言った。エミリーが淹れたと言ってもわからないほどの出来だ。エミリーの太鼓判を得て、こうしてアリシアに出すことが叶ったのだろう。
当の本人は胸に片手を当て、視線を落とした。
「アリシア様にそう言っていただけて嬉しいです」
その控えめな仕草に、アリシアは満足する。
ヴィクトルは穏やかで大人しい性格だった。帝国史によれば現在のケイドンの年齢は八歳のはずだが、それよりもやや幼く見えるのは、個人差か、もしくは栄養状態がよくなかったせいかもしれない。にも関わらず、年齢以上に落ち着いた雰囲気を見せている。
剣を握るよりも、こうしてアリシアの世話をする方が似合っていた。勉強の飲み込みも早く、騎士か文官かで言えば、確実に文官となる方を選ぶだろう。かけている眼鏡のイメージも相まって、なおさらそう感じる。
それが王国を滅ぼす程の
このまま穏やかな性格のままでいて欲しい、とアリシアは思う。そしてそれは、こうしてルーエン公爵家にいれば叶うはずだ。
一息ついたところで、ヴィクトルがアリシアに封書を差し出した。
「アリシア様にお手紙が届いていました」
「あら、パトリックからね」
ぴくっとヴィクトルの眉が動く。
アリシアは差し出されたペーパーナイフで封を開け、
読み進めるうちに、アリシアの顔が曇っていく。
「何かありました?」
エミリーが心配して声をかけてきた。
はあ、とため息をついて、アリシアは便箋をそのままエミリーに渡す。
ヴィクトルも背伸びをしてエミリーの手元を覗き込んだ。まだ字は読めないのだが、気になるのだろう。
「まあ、お茶会ですか」
さっと視線を走らせたエミリーが驚きの声を上げる。
手紙の内容は、フーリエ家で開くお茶会への招待状だった。パトリックと一対一ならばまだしも、同世代の友人を招く、と書いてある。
「行きたくないわ」
「でもパトリック様からですし」
「そうよね」
アリシアはもう一度ため息をついた。
忘れていたが、そういえばそんなこともあったような気がする。
お茶会で何があったのかは覚えていない。記憶にあるのは、とにかく嫌だったことだけだ。
前世は、行きたくないと駄々をこねたが、デリミトが許してくれなかった。同世代の友人は必要だろう、という意見で。
どうせ婚約はパトリックとするのだし、領地に追いやられて死ぬまで、友人がいなくて困ったことはなかった。エミリーを始めとした屋敷の使用人との交流は十分ではないか。
しかも、このお茶会を経たところで友人などできやしないことを、アリシアは知っている。
だが、相手がフーリエ侯爵家であるというのも理由の一つだった。家門同士の交流のある家だ。家格こそルーエン家の方が上でも、正式に招待状が贈られてきてしまえば、安易に断るわけにもいかない。
ルーズベルトが同席してくれればまだ救いもあった。パトリックとは学友なのだから、妹の招待についてきた過保護な兄、という見方はされないはずだ。
しかし、確か前世は予定があるとかで断られたような記憶がある。
「行きたくないわ」
アリシアはもう一度言った。
「旦那様にご相談するしかありませんね。無理だと思いますけど」
エミリーが肩を
「そうよね……」
アリシアが三度目のため息をつく。
「どうせ避けられないのなら、逆に思いっきりやりましょう! ということで、お買い物に行きますよ!」
「なんでそうなるの!?」
「他のお嬢様方にアリシア様が見劣りしてはいけませんからね。程ほどに着飾って、にこにこ笑っているのが一番無難にやり過ごせますよ」
「私が着飾ったって何にもならないわよ。こんな見た目だし」
「何をおっしゃいますか! アリシア様はきちんと整えれば十分可愛らしいです。ヴィクトルもそう思うでしょう?」
「はい。アリシア様は世界一可愛らしいです」
ヴィクトルが真剣な顔で頷いた。
「そんなのただの身びいきじゃない! やめてよ、恥ずかしい!」
親馬鹿のようなものだ。
「いいえ、違います。アリシア様は可愛らしいです。ただし、きちんと整えれば、です! だからお買い物に行きましょう! ヴィクトル、執事長にアリシア様がお出かけすると報告してきて!」
「わかりました」
「ちょ、ヴィクトル! 私出かけるなんて言っていないわ!」
「往生際が悪いですよ、アリシア様。さて、出かけるための身支度を整えましょう」
ヴィクトルはアリシアの言葉を無視して部屋を出ていき、エミリーにつかまったアリシアは、外出着へと着替えさせられたのだった。
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男主人公の名前はジョシュアにするつもりだったのですが、別作品の主人公で使っていたのに気づき、ヴィクトルに変更しました。
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滅亡は嫌なので隣国の皇帝を善良に育てる……つもりが間違えました 藤浪保 @fujinami-tamotsu
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