第8話 眼鏡

 次の日の朝、アリシアは食堂に向かう前に、ケイドンの様子を見に行った。


 顔を合わせたらまた泣かれるかと思ったが、幸いにもまだ目を覚ましていなかった。頬がこけているのは変わりなくとも、顔色は大分よくなっているし、呼吸も正常で、表情も穏やかだ。


 ほっと息をついたアリシアは、気合いを入れ直して食堂に向かった。


「おはよう」

「おはよう、アリシア」


 姿を現したアリシアに、さっそくデリミトとルーズベルトから声が掛かる。


「おはよう、お父様、お兄様」


 アリシアが席に着くと、デリミトは読んでいた新聞を畳んだ。


「あの子の様子はどうだい? 医者は快方に向かっていると言っていたが」

「うん。もう大丈夫だと思う。――それでね、お父様にお願いがあるの」

「なんだい?」


 デリミトが続きをうながした。ルーズベルトも、アリシアを見つめている。


「あの子を――」


 アリシアの声が裏返った。緊張で喉がカラカラだ。


 水を一口飲んで喉と唇を潤してから、アリシアは再び口を開いた


「あの子を、引き取りたいの。もちろん養子とかじゃなくて使用人としてよ。平民だだしまだ子どもだけど私がしっかりしつけるわ。回復しているとはいえまだまだ栄養不足だしここから出て行ったら食べる物もないと思うの。ちゃんと仕事も教えるし家の役に立つようにするし――」

「でも、彼には家族がいるだろう? 探しているんじゃないかい?」


 早口でまくし立てるアリシアの言葉を、デリミトが遮った。


「家族はいないわ」

「記憶をなくしているんだろう?」


 ぎくりとアリシアは内心焦った。


「男たちが! 言っていたの。私を誘拐しようとした男たちが。孤児だって。だから、家族はいないの。帰るところもないし、頼れるところもないんだわ。だから、うちで引き取りたいの」

「彼はそれを望むのかい?」


 望まないわけがない。


 あんな牢獄にいるより、ここにいる方がいいに決まっている。


「聞いてみるわ。だからもし、あの子がここにいたいって言ったら……。私のお小遣いを減らしてもいいから。お願い」

「ふむ」


 デリミトはあごに手を当てて考え込んだ。


「ルーズベルトはどう思う?」

「子ども一人引き取るのは容易たやすいですが、素性が知れないというのは……。アリシアの誘拐の現場から連れてきた子どもですし」


 帝国の皇子なのだから怪しくはない。


 いや、そんな素性が明るみになれば逆に大問題か。


 いっそ明らかにして帝国に引き取ってもらうのもありかもしれないと思ったが、それはそれでこの国の責任を問われそうだ。また、皇子が誘拐されたにも関わらず、対外的には幽閉中であることになっていた前世のことを思うと、帝国に知らせるのがケイドンのためになるのかもわからない。


「こんなに小さな子どもに何ができると言うの。それにあんなにガリガリなのよ。もしも刺客なら、もう少し丈夫な子にするはずだわ。死んでしまっては意味がないもの。私だったら、こんな病弱な子どもではなくて、大人の使用人を潜り込ませるわ」

「大人を潜り込ませられないから子どもにしたのかもしれないじゃないか」

「こんな貧乏な家を狙ってどうするというの? うちにはもう何もないわ」

「アリシア……一応、うちは建国から続く由緒正しい公爵家だし、以前より影響力は衰えたものの地位もあるし顔も利く。狙われない理由はないよ。金が目的かもしれない。現にアリシアが狙われたんだから」

「ははは。その通りだ。我が家には狙われる理由は十分にある」

「でも……」


 誘拐はアリシアとラルクのでっち上げでしかなく、ケイドンはただ競売に掛けられようとしていただけなのだから、陰謀などあるはずもない。


「わたしも、ルーズベルトは考えすぎだと思う。だが、よい着眼点だ。他に心配なところはあるかい?」

「アリシアが最後まで面倒を見られるかどうか、でしょうか。人とペットは違いますから」

「ちゃんと見るわ!」


 ペットを飼ったことはないけれど、きちんと面倒を見られる自信はある。人間だったらなおさらだ。


「そうだね。そこは約束をしなければならないね。他にも懸念点はあるが……まあいいだろう。やってみなさい」

「いいの!?」


 あと数日は説得しなければならないかと思っていたのに、意外にもあっさりと許可が出た。


「彼は恩人だから、それには報いねばならないだろう」

「お父様、ありがとう!!」

「彼がうちで働くことを承諾したら、だよ。そしてきちんと面倒をみること。少なくとも彼が独り立ちできるまでは」

「うん!」


 ルーズベルトは、やれやれと頭を振った。


「父上はアリシアに甘すぎます」

「だってアリシアからの珍しいおねだりだ。聞かない訳にいかないだろう」

「その気持ちはわかりますが」


 なんだかんだで、ルーズベルトもアリシアには甘かった。


「さて、そろそろ行ってくる」

「お父様、本当にありがとう! いってらっしゃい」


 デリミトが立ち上がったので、アリシアも席を立ち、抱きついた。


「そのうちわたしにも会わせておくれ」

「もちろん! お父様にご挨拶させるわ」


 ケイドンが屋敷にいられるのはデリミトの許しがあってこそなのだから、今夜にもさせなければ。


 アリシアはデリミトとルーズベルトを見送った後、ケイドンの元へと向かった。




 ケイドンはベッドの上で膝を抱えて座っていた。


「おはよう」


 アリシアが声を掛けると、ケイドンはぱっと顔を上げた。ぎっと強くアリシアをにらんでいる。


「体の具合はどう?」


 額に手を当てると、だいぶ熱は下がっていた。だがまだ少しある。


 サイドテーブルの上にはスープがトレイごとおいてあるが、手をつけていないようだ。


「食べないと良くならないわ。その後はお薬も飲まないとね」


 トレイをケイドンの膝の上に乗せるが、ケイドンはスプーンを手にしようとはせず、アリシアをじっと見ている。


 こんなにせ細ってしまったのは、案外、あの牢獄の環境のせいだけではないのかもしれない。ずっとこうして食べることを拒否していたのだとしたら。


「まずはあなたの立場をはっきりさせなければならないわね」


 アリシアは溜め息をついた。


「お父様に、あなたをここに住まわせる許可を頂いたわ」


 赤い瞳が揺れた。


「ただし、使用人としてよ。つまりあなたはうちに雇われるの。ああ、ここはルーエン公爵家よ。私はアリシア・ルーエン。公爵であるデリミト・ルーエンの第二子で長女。つまり公女ってわけ。あなたがここで働くのであれば、私は雇い主の一人ということになるわ」


 ここが公爵家であることを告げたら少しは動揺するかと思ったが、ケイドンの表情は変わらなかった。


「もちろん、あなたの意思を尊重する。そうしなさいとお父様にも言われているの。ここで働く気がないのなら、出て行ってもいい。でも、行き場はないわよね。それなら、一人で生きられるようになるまではここにいた方がいいと思うわ。ここにいれば衣食住は保証されるし、危険はないもの。この部屋はお客様用だから、さすがに使用人の部屋に移動してもらうけど」

「……」


 ケイドンは迷っているようだった。


「今すぐ決めろとは言わないわ。治るまでは面倒をみる。でも、治す努力はしてもらうわよ。具体的には食事とお薬と安静ね。それを拒否するのなら、追い出すしかないわ。お父様にはあなたは私の恩人だと伝えているけれど、実際はあなたが私に助けられたんだもの」


 記憶がないから、ピンとは来ないのかもしれない。けど、これが事実だ。今後、恩に着せるような態度を取られてはかなわない。


「あなたは、私が食べて見せるまで食事に手をつけないつもりなのかもしれないけど、それは逆。あなたが私の毒見をするべき立場なのよ。ここではあなたの命よりも、私の命の方が大事なの。わかるわね? それに、ここで毒を盛るような人はいないから、安心して食べなさい。その後の薬もね。さっきも言ったように、治療を放棄するなら出て行ってもらうわ」

 

 アリシアは、スープ皿をトレイごとケイドンの膝に乗せた。


「食べて」

「……」

「食べなさい」


 ケイドンはアリシアの言葉に従わなかった。


「そう。ならいいわ」


 アリシアはケイドンからトレイを取り上げた。


 ケイドンの目がスープ皿を追いかける。


 しかし、アリシアは容赦がなかった。


「朝ごはんは抜きね。昼にまた同じものを用意させるわ。夜もね。それも食べないのなら、明日の朝にはお別れよ」

「ま、待て……!」


 ケイドンが呼び止めたが、アリシアは無視した。


「ま――」


 さらに追いかけようとしたケイドンが、バランスを崩してベッドから転がり落ちる。


 アリシアはべりゃりと床に這いつくばっているケイドンをちらりと見て、心が痛んだ。


 厳しい言い方をしすぎたかもしれない。


 だがこれはしつけなのだ。


 良識を持った、きちんとした人間に育てるためには必要なこと。


 アリシアは心を鬼にして、そのまま部屋を出て行った。




 昼食の後、来客があった。


 アリシアが呼ぶように言いつけていた人物だ。


 その男から頼んでいたものを受け取って、簡単な説明を聞いてから、アリシアはケイドンの部屋へと向かった。


 昼食のスープは、手をつけられていないまま、サイドテーブルの上に置いてあった。


 アリシアは、はぁ、とため息をつくも、そのことには触れずにケイドンに近づく。


 ケイドンはものすごい形相ぎょうそうでアリシアをにらみつけてきた。


 赤い瞳は迫力があるが、殺された時の眼力に比べれば、子猫が毛を逆立てている程度の威嚇いかくにしかならない。


 アリシアは意に介さずに、ケイドンの枕元に立った。

 

「あなたにプレゼントを持ってきたわ」


 はい、と手にしていたものを差し出す。


「眼鏡よ。全然見えていないんでしょう?」


 ケイドンは警戒するように、眼鏡をじっと見た。


「こうやってかけるのよ」


 アリシアが眼鏡をかけて見せる。


 入っているレンズの度がきつすぎて、くらくらした。


 すぐに外してケイドンに渡す。


 受け取ったケイドンは、警戒しながらもゆっくりと眼鏡をかけた。


 そして、目を見開くと、何度も眼鏡をつけたり外したりしながら、視界を確かめる。


 最後にアリシアの顔を見て、そのままじーっと見続けた。


 かと思えば、みるみるうちに顔が赤くなっていく。


 リンゴのように真っ赤になったかと思うと、バタンとそのまま後ろに倒れた。

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滅亡は嫌なので隣国の皇帝を善良に育てる……つもりが間違えました 藤浪保 @fujinami-tamotsu

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