第7話
この世界は箱庭だ。【箱庭】、あるいは、【神々の玉手箱】。人は神の宝物。けれど、宝物をなくしても生き続けるのは神の方。瑠璃子は朱天の唯一の宝物だが、たとえ寿命が同じになったって平凡な努力を忘れれば夫婦なんてものはすぐに崩壊してしまう。
ごく普通の人間の夫婦にさえ訪れる破局が訪れないよう、瑠璃子は朱天と何でも話すと決めた。彼の顔色を伺うのではなく、彼に与えられる愛や物を唯々諾々と喜ぶのではなく、彼の影にあたる位置から彼の心に寄り添うのだ。
それは生半可な道ではないだろう。それでも瑠璃子は朱天と生きたい。だから、努力すると決めたのだった。
一騒動が去って、怪我から復帰したコマは瑠璃子が見違えるようにしっかりしたと喜んだ。
「盾にしてしまって、ごめんね」
「いいえ。ああ、ようございました。娘の顔じゃなくなりましたね」
と笑うネズミのひゅんひゅん揺れるしっぽ、ふさふさした毛並みに瑠璃子はああ――なんだ、と納得する。結局のところ人も神も変わらない、相手のことを推し量り、互いに一番心地いい距離を探して生きているのだ。
移り住んだ朱天の本当の屋敷は、驚いたことにまったく手入れがされていなかった。朱天はそもそもあまりここに立ち寄っておらず、瑠璃子のための新しい家を建てるとそっちに住み着いてしまったのでほとんど打ち捨てられたようなありさまだったのだという。
瑠璃子はまず、雨漏りの修繕から仕事を始めた。夫の配下の鬼たちに号令を下すのは恐ろしい仕事だった。なにしろ彼ら一人一人が瑠璃子の何倍も大きく、角が生えていて、つまり喧嘩になったら間違いなく勝てないとわかる相手だったからである。
もちろん腐っても朱天の妻の肩書を持つ瑠璃子に表立って反抗する者はいなかったが、聞こえよがしな軽口に見せかけた悪口、とくに女の鬼からは小さな嫌がらせもいくつかあった。
瑠璃子はこうした扱いが怖かったはずだ。これがいやで、朱天に泣きついて責務を放棄していたはずだ。だが今の彼女にとって、彼らはそれほど怖い存在ではなくなっていた。
ひとつには、鬼たちは村人と違って陰湿なところはなくどんな嫌がらせもカラリと分かりやすかったこと。もうひとつには、いやだいやだと逃げ続けた先にあるのは不幸に回り込まれることであり、忘れたと思っていた恐怖に突然襲われることであり、その尻拭いを夫に放り投げることであると、思い知ったからだった。
「もう少し休んでもいいんだぞ」
が最近、朱天の口癖である。瑠璃子があまりに働きすぎだと彼は言う。
「夜はきちんと寝ていますもの。朱天様こそ、あまりに働きすぎませんように……」
「うへえ、藪蛇藪蛇」
と彼は肩をすくめる。開いた胸元に古い治りかけの傷があり、それを見るたび瑠璃子が眉をひそめるから、近頃はその開き具合もやや大人し目である。
これについては彼の長年の付き合いだという年嵩の鬼に長々と頭を下げられてしまった。瑠璃子が屋敷に入ってから、朱天の素行は目に見えて改善したのだという。気に入らない神に喧嘩をふっかけることも減り、妖魔の襲撃に素早く対処する率が上がったと。やはりあのこぢんまりした家で二人だけの世界に閉じこもっているのはよくなかったのだろう。この上もなく幸せではあったけれど……。あれは、健全ではなかった。
帰ってきた朱天を使用人のネズミたち総出で出迎え、きちんと頭を下げて外套を受け取り、正しい手順で入浴や食事をすませてもらう。たまの休日には、瑠璃子が手ずから朱天の世話をすることもある。寂しくないと言えば嘘になるが、普段は少しの距離がある分、休日が待ち遠しくて仕事も頑張れるというものだ。
「妖魔の勢力が増しているというのは本当ですか?」
食事を終えて一服のお茶を飲む時間。瑠璃子は生姜の入った香りのいい果物の皮のお茶を手に持ちながら、慎重に訪ねた。前までの朱天ならお前に関係ないと突き放す言い方をしたところだ。だが今の彼は、かすかに顔をこわばらせながらも答えてくれる。
「ああ。まるで数百年前に戻っていくみたいだ。このままでは小さな人間の村など捻り潰されてしまう。人間たちは人間たちで、神は神で結束し、力を合わせなければならない時代がやってくるだろう――」
瑠璃子は頷いた。自然、椀を持つ手にも力が入った。
「そのときのために食糧を備蓄しておきます。鍛錬場も詰所も使いやすく、何かあったときすぐ出ていきやすいように。【下界】との神社を介した連絡網も強化しておきますわ」
「そうだな。人間も何世代かかければ状況に慣れてくれるだろう」
と物思いにふける彼の、金色の目にかかる赤い睫毛の濃い影。瑠璃子は胸が潰れそうになる。こんなにも美しい人がこの先、闘争の渦に巻き込まれていくだなんて? 死ぬかもしれないなんて? 瑠璃子のところに帰ってこられなくなるかもしれないだなんて?
「あなたが――戦いやすいように」
瑠璃子は朱天に向けて呟く、彼は応えて顔を上げる。
「あなたが生きて帰ってこられるように。私も出来る限りのことをします」
はにかむような笑顔が朱天の顔を彩り、彼は実際の年齢よりはるかに若く見えた。ネズミのうち一人が膳をお下げしますよと呼びに来るまで、二人はずっと互いを見つめていた。
朱天に守られれば、瑠璃子は嬉しい。ずっと彼の最愛の愛玩物でありたいとさえ思う。けれどそれでは、永遠にそれだけだ。考えたくないことだが彼の心が離れれば、母親のようになってしまうかもしれない。
瑠璃子はそうなりたくない。あの村に置いてきたいかなる負の感情も、二度と胸に抱きたくない。瑠璃子は変わりたい。守られるばかりではなく、朱天の心を守りたい。自分を守ることが夫を安心させることに繋がる。だからそれができるだけの人との繋がりを、信頼を得て、名実ともに鬼の王の妻になりたいのだ。
簡単な道ではないだろう。瑠璃子には妖力もなければ巫女のように予知夢を見るわけでもない。ただの人間にすぎない瑠璃子をあからさまに軽んじ、あるいは取り入ってこようとする者はいくらでもいる。それでも立ちすくんだままではいられないのだった。
***
崑崙山の天気はいつも晴れ、気候は春である。山頂付近には常にうっすらと雲がかかり見上げてもその先を見通すことができない。だが稀に、風によってその雲が取り払われ上が見えるときがある。
今日がその日だった。朱天はお休みで、領地の見回りも配下の揉め事の仲裁も、ましてや妖魔の襲撃もなく、二人は平穏無事に朝寝を楽しんでいた。
「あっ」
と気づいたのは瑠璃子が先だった、と思っているのは彼女だけで、朱天の方はとうに気づいていて、別に取り立てて言うこともないので放置していたのかもしれない。とにかく、山頂が見えた。
それは鋭く、天に刺さるかのようにそびえ立っていた。その、てっぺんに向けて色とりどりの風が集まっている。少なくとも瑠璃子にはそのように見えた。
「神々が集まっています」
「――うん?」
朱天がのそのそと起き上がり、かすかに目を細めて空を見る。大きな屋敷には二階があり、張り出した露台に二人は出た。彼の身体にすり寄って風を避けながら、瑠璃子はその空を見上げる。虹が意思を持って山の上に昇っていくような、幻想的な光景だった。
「……上位の神々の集会だ、な。また突発的にやってくれやがったな」
淡々と朱天は説明口調で言い、やがてその精悍な美貌に獣じみた笑みを浮かべた。
「こりゃあ、何かあるぞ、瑠璃子」
「何か、ですか」
「ああ。何か。とてつもないことが。――前世のお前が死んでしまった大襲撃の前も、ああして奴らは集まっていた。奴らだけで何かを話し合い、俺たちにああしろこうしろと指示を出してくるんだよ、困ったもんだな、まったく」
笑ながらも目は笑っていない。見上げる瑠璃子からは彼の顎の線しか見えない。彼女は背伸びをして、夫の喉仏に口づけた。朱天は我に返った。
「……困った女だ。俺が真剣に行く先を考えているってのに、誘惑するんだから」
「誘惑したつもりなんてありません。ただ、あなたが苦しそうに見えたんです」
「ふん。俺は苦しくなんてないさ、武者震いしてるんだ。長年の因縁に決着をつけられるかもしれない」
大きな手が伸びてきて、瑠璃子は腰を捉まれ朱天の胸元に引き込まれた。彼は腕を伸ばして角袖の外套を手に取り、瑠璃子を宝物のようにくるむ。赤ん坊を真似て身体の力を抜き、瑠璃子はされるがままにした。朱天はやっぱり苦しんでいた。悲しんでいた。あるいは彼の言う通りこれが武者震いだったとして――この先に待っているのはいいことではないのだろう、そのくらいのことは瑠璃子にもわかるようになっていた。
朝の風は尽きることなく山のてっぺんへと吹き荒れる。実体を持たないとされる上位の神々はいったい何を話すのだろう? 世界の終わりについて? それとも、朱天たち中位程度の神々をどううまく死なせるか?
瑠璃子の両手は短く、抱え込んで守れる範囲は限界がある。それでも彼女はまず一番に夫を抱きしめて、それから夫が守ろうとするものを抱きしめるだろう。彼の手が届く範囲のすべての者に愛されること。それが彼女の願いだから。
妖魔の襲撃が頻繁になることで鬼たちの中には朱天の采配を疑う者が出始める。【下界】にはこの風が原因となって冷夏が訪れ、ひどい凶作が崑崙山にまで影響することになる。――だが、それらはまだ片鱗さえ見えない未来の話である。
瑠璃子は朱天を抱きしめる。彼を抱きしめ、愛することができるという事実に安堵する。今はただ……。
「幸せですね、私たち」
「ああ。幸せだ。ずっと続けばいい」
「はい」
瑠璃子は微笑んで朱天を見上げ、二人は口づけあった。今はまだ、この幸せに浸りきっていたい。それが許される限り。
「ずっとこのままでいたいですね」
朱天のぬくもりに酔い痴れながら、瑠璃子は茫漠と呟いた。
のちの世に人魔大戦と呼ばれる戦乱の時代が、もうすぐそこまで迫っていた。
【完】
鬼の王は最愛の生贄妻だけを愛す 重田いの @omitani
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