第6話
いつの間にか日は高く昇り、竹林からチイチイとネズミたちの鳴き声が聞こえてきた。玄関先からは鬼たちの軽快な話し声。全部の声が筒抜けになってしまうほど、この屋敷は小さく慎ましやかだ。
だが村にあったどの家よりも立派だ。村一番の金持ちと言われた瑠璃子の父だって、これほどの屋敷は建てられまい。【下界】と崑崙山は隔絶しているが、いつだってどこかからか情報は洩れて伝わる。
瑠璃子が贅沢に暮らしていることを、朱天が可能な限りこの家に帰って来て瑠璃子と暮らすことを、村人は知ったのだろう。彼らは瑠璃子が生贄の義務を果たさず、ズルをして楽な生活を手に入れたと思ったに違いない。そして続けてこう思っただろう――生贄が義務を果たさなかったことで鬼の王が怒ったら、そのとばっちりは村に降りかかるはずだ、と。
これがあんな年若い少女二人が二人きりで崑崙山に昇ってきたことの顛末だろうと、瑠璃子は想像している。そう当てずっぽうでもないだろう。【下界】から崑崙山に登るための登山口には関所があり、許可証もそこから発行される。誰か大人の協力がなければ、いくら神の声が届く少女といえど雛とただの村娘の綺羅子が山に上がれるはずがない。
二人の少女はまんまと乗せられて、崑崙山に昇ってきた。彼女たちなら瑠璃子を始末するか、あるいは神に始末され、それが実質的な生贄になると村人たちは考えたのだ。瑠璃子はその思考回路が手に取るようにわかる。何か大きな不安に襲われると、一番目障りなものを排除しようと動くのだ。そして責任は誰かに被せる。それが瑠璃子の育った村の、彼らのやり方だった。
義母は知らなかっただろう。彼女は綺羅子を溺愛していた。瑠璃子を殺したかっただろうが、代わりに娘が死んでいいと思うはずがない。
そしてこの結末だ。おそらく少女二人は自らすすんで生贄になった尊い少女として祀られるだろう。
そして――人々は朱天を恐れるだろう。これまでとは違った意味で。妖魔の襲撃を撃退してくれるありがたい神様としてではなく、恐ろしくおぞましい荒ぶる神として記憶される。こんなにも優しくしてくれる朱天がそう誤解されることは、瑠璃子には耐えがたい。
「俺はお前を不幸にしたんだろうか?」
朱天は瑠璃子を抱きしめ、つむじに向かって囁いた。
「お前を幸福にしたかったのに。間違ってしまったんだろうか?」
「いいえ。あなたは何も間違っていない。物事が間違った方向に進むのは……私たちが汚いからです」
「お前は汚くない」
むっとした様子で朱天は瑠璃子の頬を両手で挟んだ。彼の膝の上に引き上げられて、瑠璃子は布団より落ち着くその体温に縋りつく。
「お前はこの世の何より綺麗で、美しいのに。どうしてそんなことを言う?」
瑠璃子は淡く微笑んだ。この鬼の王が、愛しい夫である朱天が、永遠に瑠璃子の言いたいことを理解できないことはわかっていた。瑠璃子は彼の首筋に額を擦りつけ、眩しさに耐える。
あまりにも眩しくて怖いくらいだった。どうしてこの人は瑠璃子をこれほど愛してくれるのだろう?――前世の恋人だったからだという、その記憶は瑠璃子にないのに?
瑠璃子は顔を上げた。
「あなたが愛してくれることに、報いたい」
と呟いて、彼の頬を両手で挟んだ。
「なら、お前を傷つけた者を殺させてくれ」
されるがままになりながら、朱天はまだ不満そうな顔である。彼は彼女がいやがるなら決して行動しない。村を滅ぼさないでくれと瑠璃子が願うなら、彼は妻を傷つけ蔑み続けるその場所の存続を許さねばならない。
それは神にとって死に等しい侮辱だった。神々は人間を守るために存在しているが、人間がなければ存在できないわけではないし、ましてや人間に従属しているわけでもない。
「あなたが荒ぶる神として語り継がれるのは我慢なりません。だったら私が逃げたせいで二人の乙女が死んだのだと、思わせればよろしい」
「いやだ。お前が人間なんかに悪者にされる? あんな奴らが犠牲者として語られる? クソ食らえ。語り継ぐための口を持った全員、殺した方が早い」
瑠璃子は頑なに首を横に振り続ける。朱天のまなざしに苛立ちが混じり、ああ、綺麗だと瑠璃子は思う。夫は怒り狂っても泣きわめいても綺麗だ。
瑠璃子が望むのは、朱天がこのまま鬼の王として君臨し続けること。永遠に。崑崙山で彼の妻として生きることだけだ。
「本来の屋敷へ住処を移しましょう」
と瑠璃子がにっこりすると、朱天は突然のことに戸惑った。眼を瞬かせながら、それでも嬉しそうに、
「どういう風の吹き回しだ? 小さな家の方がいいと言っていたのに」
「ええ。気づいたんです。たくさんの鬼の方々と一緒に住んでいれば、今回のことにはすぐ対応できたでしょう?」
「それは、そうだが。――いいのか、妻よ?」
みるみるうちに朱天は機嫌がよくなり、瑠璃子の生まれた村を憎む気持ちなどどこかへ飛んでいったようだった。
「どんどん俺の領域に引き寄せられて、そのうち人間じゃなくなっちまうぞ?」
「大丈夫です。受け止められます」
瑠璃子は頷いた。本当はずっと怖かった。神の妻となればそのうち人のことわりから外れ、生きるも死ぬも夫の神の思うがままになるのだという。人間でも神でもない、夫が死ねば死ぬ、どこにも属さない存在に。恐怖しない人間がいるだろうか? 恐ろしいに決まっている。瑠璃子はずっと村に虐げられながらも、故郷としてそこを愛していた。愛していたのだ。いつか自分を受け入れてほしいと、そうなることは決してないと知りながらも愛していた……だってあの村は、瑠璃子の生まれた場所だから。
恨みに飲まれた母親のことだって愛していた。彼女が瑠璃子を愛してくれなくても。ひょっとして父親も義母も綺羅子のことだってある意味愛していたのかもしれない。身を削って慕い続ければ、いつか応えてくれるかもだなんて――自己犠牲の上に自己欺瞞を張り巡らせて、そこまでして誰かの可愛い娘になりたかったのかも、しれない!
だが瑠璃子は今、鬼の王の妻だった。コマだって常々言っていたではないか。瑠璃子は王妃なのだ。
その立場にふさわしい責任を果たさねばならなかった。ずっとずっと逃げ続けてきたこと。けれど逃げるのもこれで、もう終わり。
朱天は瑠璃子を抱きしめ、機嫌よく鬼の咆哮を一声叫んだ。姿の見えない鬼たちがおう、おうと呼応し、ネズミたちは突然の大声にびっくりしてチイチイわめき散らして走り回る。庭や天井裏や軒下や床下。
夫を抱きしめながら瑠璃子はふふっと笑う。気持ちが定まると心の嵐は消えていった。もう過去は振り返らない、振り返る意味なんてないから。彼女が見ないようにしていたたくさんの影に、いろんな人たちの思惑があったのだろう。もっとずっと前から。これからはそれらすべてに向き合って、わかり合おうとするべきだった。鬼の王のために。その妻の責務として。
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