第5話



「俺が上位の神々に【世界の夢】を見たら教えてくれと頼んだのは本当だ。かつて俺とお前は天女と人間の男だった。そう、今とは逆だったんだ」


朱天は寂しそうに瑠璃子の頬を撫でた。

瑠璃子は静かに唇を引き結び、古い話の続きを促す。


「当時は妖魔どもの襲撃が今より規模が大きく、頻繁だった。だから人間たちも一種の自警団を発足して神々の戦の手助けをしていた。お前は天を舞い、地上で戦う神々に癒しのしずくを振りまいていた……夢のように綺麗だった。俺はお前に少しでも追いつきたくて必死だったよ。ただの人間だったのにな」


「……覚えていません」


「わかっている。思い出さないのも。きっとそれでいいのだろうと思う。お前にとってはつらい記憶だろう」


朝はじりじりと明けてきて、差し込む陽の光はますます白く燃えるよう。瑠璃子は鮮明になっていく朱天の美しい顎の線、鍛え抜かれた鋼のような肉体と褐色の肌のなめらかさを見つめる。


「ある日、とりわけ大規模な襲撃があった。村の女子供が攫われ、お前は天を飛んでそれを追っていった。攫われた中にお前を一層慕っていた幼子がいたんだ。そしてお前は妖魔どもに羽衣を奪われた。羽衣、わかるか?」


「天女が空を飛ぶために必要な布だって、聞いています」


「ああ。そうだ。妖魔の群れの中に転落したお前を俺たちは命がけで取り戻したが、空を飛べなくなったお前は人間の女と大差ない存在になってしまっていた。癒しの力を失い、天を舞うこともない。――男どもがお前を穢してもいい存在だと認識するまで、そう時間はかからなかった」


恐怖が背筋を這い上り、瑠璃子はあやうく知らない記憶に支配されそうになった。いやな気分だった。死にそうに辛い。自然と目に涙が浮かび、激情の波がみぞおちから全身を駆け巡る。朱天に抱き寄せられ、彼の胸に寄りかかるまで波は収まらなかった。


「やめるか?」

「いいえ。教えてください。何もかもを」

朱天は頷く。彼の褐色の肌は朝日に照らされ黄金に輝いている。その目と同じに。赤い髪がざわざわ動いて、瑠璃子を包み込むようにあたりに広がった。


「結論から言うと俺はお前を背負って村を抜け出した。男どもは大恩あるお前を共有しかねなかったし、女どもはそんなお前を妬んで叩き殺しかねなかった。いつだってそうだった。お前がくれる癒しの力や奇跡に、村人どもが愛と感謝を返したところを俺は見たことがない。そうすべきだと言えば馬鹿にされるのがオチだった――俺は何も間違ったことは言っちゃいなかったのに!」


抑えた低い声で毒づく朱天は、何百年かを生きた神とは思えないほど若く見えた。

(そっか……。朱天様は、まだお若いのだ……)


瑠璃子の胸の中にふつふつと納得が湧いてきた。神様だから、戦いが強いから、配下の鬼が何人いるから。そんなことは関係なくて、ただ彼の弱い心を、瑠璃子は最優先に守らねばならなかったのだ。


朱天の弱点は瑠璃子だ。そのことは胸を張って認められる。彼の愛する唯一になれたことを、瑠璃子がどれほど誇りに思っているか。


だがそれに胡坐をかいて、我儘放題では、いけなかったのだ。神様ならば神様らしく、より一層守護する村人の尊敬を勝ち取れるよう、彼の尊厳を守らねばならなかった。瑠璃子は人を怖がり、彼をこの小さな屋敷に閉じ込めた。彼が喜んで閉じ込められたのは事実だ。だがそれが村人や鬼たちの目にどう映るか?――考えるべきだったのだ。もっとよく。愛されて溺れてしまう前に。


「俺たちは崑崙山に昇り、まだ山裾の時点で捕らえられた。俺は叩き殺され、磔にされ……お前は、お前は、」

「大丈夫です。もう何もおっしゃらないで」

「――お前を救いたかった!」


朱天の叫び声は、あの二人の小娘たちのそれとどうしてこうも違うのだろう? おそらくはそこに自己憐憫や自己欺瞞が入っていないから。彼の後悔だけを含む、純粋な慟哭だからだ。


「俺はお前の灰の前で蘇った。鬼となって。そこからは、覚えていられないほど殺した。妖魔も、目障りだった人間たちも。俺はみるみるうちに強くなり、やがてあまりに殺戮が過ぎるということで捕らえられたり、したなァ……」

彼の声に苦笑が混じる。瑠璃子は目元を和ませてその声に聞き入る。


「天狗の長にな。檻に入れられて、さんざんどつかれたよ。だがそのうち俺も大人しく、道理を弁えるようになった。同族の鬼を何人か倒し、やがて鬼の王の称号を賜った。上位の神々への謁見も叶うようになった。その頃には人間たちの間にも王が生まれ、都が生まれ、王の許可証を持たない者が崑崙山に入ってくることもなくなって、神と人との軋轢は生まれにくくなった。――そしてお前が生まれているのを教えられた」


「それが【世界の夢】だったのですか」

「ああ。そうだ。あの巫女!」

彼は吐き捨てた。


「巫女と呼ぶもおぞましい。昔からああいう人種はいた。神と波長が合い、その声が頭の中に直接届くのだ。だが奴らが拾う神の声は、人間でいうところのひとり言。湯に浸かったときに出る呻き声や紙で手を切ったときの舌打ち。それだけだ。あの小娘はお前が生まれた村の土地神の過去の記憶でも拾ったんだろう。それで自分がお前だと思い込むとは――ッ」


朱天の腕に筋肉が盛り上がり、ぎゅうっと握りしめた拳に血管が浮く。瑠璃子は彼の手の甲をさすったが、怒りに狂った鬼の目はほのかに赤く発光して、焦点が合わない。


「よくも俺の天女を冒瀆しやがって」

やがて朱天は静かに息を吐いたものの、彼の中に根付いた怒りが収まる兆候はなかった。

瑠璃子はこんなときどうすればいいのだろう? ああ、これこそが彼女の役目なのに。人間から神様のおそばに上がった女がすべきことなのに、わからないだなんて。


「瑠璃子、お前、どうしてほしい?」

かすかに微笑む金の目が瑠璃子の黒い目を覗き込む。そんな場合ではないのに、瑠璃子はどきどきした。


「お前の生まれた村は潰す。これは決定事項だ。お前の父親も、母親だと名乗っている継母も殺す。きょうだいどもも。家は取り潰され名前は残らないだろう。当然だ。俺に守られて存続していたのに、お前を産んだからその暴虐も許してやったというのに、恩を仇で返されたのだから!」


――調べはついているんだ、と彼は瑠璃子の背中を撫でた。だが彼はまた、村を潰すと言われた瑠璃がどう反応するかわからないようだった。怒るかもしれない、と自分の三分の一もない妻の顔をおずおず覗き込む姿はまるで猫のように愛らしい。


瑠璃子は彼の頬を撫で、沈黙した。自分の心がまだよくわからなかった。そもそも縮んでいた魂が再び息をし始めたのは一年前、崑崙山に昇ってからだったとさえ思う。


村にいた頃の瑠璃子は生きていなかった。身体は生きていても、それだけだった。母の顔色を伺った幼少期、継母と異母妹の機嫌を損ねないよう動いた少女期、そのすべてを知っていて知らんぷりした村人たち……。


人によっては瑠璃子をなんで傲慢で贅沢なんだと謗るだろう。瑠璃子だって頭の片隅ではそう思う。少なくとも食べるものがあり、妖魔の襲撃があれば物置小屋に隠れることが許され、朱天に選ばれてからはこんなにもいい暮らしをさせてもらっているのだから。


でも。魂を、心を、思い出を踏み躙られた恐怖は消えない。


またもう一度、綺羅子が雛を伴って襲撃してきたように、あの村人たちがここを訪れるのではないか。にやにや笑って、鍬や鎌を手に手に持って。


そんな馬鹿げた恐怖もまた、消えない。

「……村を壊さないでください。私の生まれた家も。父も、義母もです」

とうとう瑠璃子はかすれた声でそれだけを言った。当然のように朱天は激昂した。


「何故だ!? あれほどの目にあわされて、あんな女に殴られたのはつい昨日のことだぞ! お願いだ、瑠璃子、俺にお前の敵討ちをさせてくれ。どうして止める? お前には復讐心がないのか?」

瑠璃子は朱天の手をぎゅうっと握り、彼の胸に寄り添った。鬼の強靭な心臓は痛いほどに高鳴っていた。


怒りに任せて村を完全に破壊し、村人を皆殺しにしてくれと、頼むことはできるだろう。だがそれをしてしまっては、おそらく瑠璃子はもう二度と生まれ変わることはなく、天女はおろか人間になることさえできないだろう。


瑠璃子は信仰として輪廻の存在を信じている。そして朱天のことも同じくらい信頼している。


自分なんかが天女だったなんて信じられないが、彼が言うならそうなんだろう。ならばたとえこの生が悲劇に終わっても、きっと次の人生で朱天に会えるはずだ。今となってはそれが彼女の矜持の源泉だった。


――いつか朱天が他のもっと優れた女に目を移すのではないかという恐怖は消えないだろう。それでも。


瑠璃子は夫の目を覗き込んだ。金色の眼球の周りがほのかに血の赤色に染まっていて、綺麗だと思った。


「どれほど辛く悲しい思いをしても、あなたが元気でいてくれればそれでいいのです、私。あなたが立派な鬼の王様としてみんなに慕われて、恐れられ、敬われ。払った努力と犠牲に見合った分の扱いを受けていると知れば、私の払った分などどうでもいいのです」


朱天は絶句した。

「だが、それではお前は……お前の尊厳は、どこへ行けばいい」

「村人たちを説得して私を敬うようにさせることなど不可能です。あの人たちは自分たちの身近なものしか目に入らないし、耳に聞こえないのですから。それに、異母妹たちがここへ踏み込んでこられたのには私にも責任があります」


「何が? お前になんの咎があるという!」

「……私の話が【下界】で芝居になり、人の目に触れているのだと聞いて、私は嬉しかったのです」


瑠璃子は寂しく微笑んだ。自分がどれほど馬鹿だったかを直視するのは辛いことだった。だが彼女はやらねばならなかった。

「あなたも聞いたことがあったでしょう? 悲恋物語なのだそうですよ。私とあなたの」


朱天は何も言わなかったが、瑠璃子が知っていて彼が知らないことなどあるわけがなかった。瑠璃子のすべて、ネズミの侍女も家屋敷も庭も口に入るすべてのものも、彼が手に入れてきてくれたのだから。


「私は――私がどれほど頑張ったかを多くの人が知ってくれたと考えたのです。どれだけ虐げられたか。どれだけ耐えたかを」


母が亡くなったのはまだ七つにもならない頃だった。だがその時点ですでに大人の顔色を伺うすべを手に入れるほど、瑠璃子は卑屈だった。母は自分の悲しみにふけって娘の存在を忘れていた。夫に裏切られたのが、その愛人の方がいい暮らしをしているのが、妬ましくて羨ましくてたまらなかったのだ。


「でもその結果、綺羅子たちを呼び寄せてしまいました。彼女たちも芝居のことを知ったのでしょう。実際に見に行ったのかもしれません。そしてその内容が事実に反すると考えたのです。――わかります。わかりますとも。私もいつだって心の中で叫んでいましたから。あんたたちが知ってるお母様と本当のお母様は違うのよって」


朱天の手が瑠璃子の肩を抱き寄せる。彼はひだまりのように温かく、瑠璃子は心から安心する。


女たちが一人の男を巡って起こした憎悪の応酬劇に巻き込まれたのは瑠璃子も綺羅子も一緒。よりよく立ち回ろうとしたのもどちらも一緒。どちらも被害者だった。


だが瑠璃子は一足早く渦巻く憎悪から抜け出し、その上生贄だったはずが神様の寵愛を受けて暮らし始めた。


「あの村から崑崙山はいつだって見えるんです。村の人たちは……まるで私から常に見下されているように感じたに違いありません」

「馬鹿げたことを。神の嫁をいったいなんだと思っているのだ……」


いいえ、と瑠璃子は首を振る。この感覚を朱天に理解してもらうのは難しいだろう。人間だった頃から常に努力を続けてきた彼には、努力することさえできず運命に押し潰される側の気持ちはわからない。一人だけそこから抜け出した者、それも使用人以下と見下していた者が自分たちより上に行ったと思ったとき、人がどう思うかなど。


「あなたが与えられた本当の家屋敷は、ここではないのでしょう? そこはきっと、崑崙山の奥深く。たとえ許可証があったって人間には辿り着けない場所にある。違いますか?」

今度は朱天が首を振る番だった。


「本当なら私はそこに住まなきゃいけなかった。そこに住んで、あなたの帰りを待ち、たまに【下界】からやってくる使者を正しい手順でもてなさなくてはならなかったのです。そこには憎悪をはじめ人間の感情が入り込む隙間はなかったことでしょう。最初から正しいところに住んでいたら、きっと今回のことは起こらなかった」


「……だがお前はいやだったのだろう?」

朱天はがっくりと肩を落とした。

「俺はお前が望む、お前が好きな暮らしをさせてやりたかったんだ」

「わかっています。優しくしてくれて、ありがとう……」

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