第4話



こぢんまりした家の前は少しの空間がとられていて、木々に囲まれた小さな広場のようになっている。瑠璃子はそこに天狗の神が舞い降りてくるのを数回、見たことがある。あとは夫の配下の鬼たちが数人、指示を待つため待機していた。瑠璃子はこの一年というもの、朱天とコマ以外の人と話したことがなかった。そんなことにさえ気づかないほど、この隔絶された空間に馴染み、愛していた。


――だがその結果がこれだというのなら、彼女は変わらなければならないだろう。


血の海、だった。


呻き声は木の根元に横たわる綺羅子からだった。ずたずたに切り裂かれている。逃げないように鬼たちが彼女を見張っている。皆、背丈が大きく肩幅もありいかにも頑丈そうな見た目をしていた。


瑠璃子は夫を探し、見つけた。朱天は足元に転がる赤い袋を蹴っているところだった……それには珍しい金髪がくっついていた。輪っかの形に結われたのがひとつ、たも網のようにずりずり地面を撫でている。


瑠璃子はそのかたまりが人であることに気づいた。彼女は静かに足元に嘔吐した。


「奥方様ァ……戻りましょ、ね?」

アケがへにょりとひげを垂れ下げて瑠璃子の腕に小さな手を駆ける。彼女は首を横に振る。


朱天が振り返ったのは、まったくどうしてそんなことができたのだろう? 彼は文字通りに怒髪冠を衝いていて、こっくりした金色がほとんど真っ赤になるほど怒り狂っていた。他者の声が届く範囲にいないことは瑠璃子にさえわかったのに、どうしてか、彼女がここにいることを彼は知ったのだった。


「どうして妻をここに連れてきた! 待ってろと言っただろう!」


彼は叫び声を上げ、周囲の森からばっと小鳥が飛び立った。すでに頭上にはカラスの群れが徘徊し、ぎゃあぎゃあと姦しい。きっとあれはどこかの神のお使いで、そのうち噂が立つだろう。――鬼の王、朱天が人間を虐殺した、と。


何もかも瑠璃子のせいだった。瑠璃子の責任。

「いいえ、いいえ」


彼女は首を振り、よろよろと夫に両手を伸ばした。彼は風のように素早く瑠璃子の肩を掴み、引き寄せようとして、自分のあちこちが黒い血にまみれていることにようやく気付いた。


髪と同じ色に赤かった目が、古びた神像の金色に戻った。彼は怒りを抑えて震える声で言う。


「戻れ、瑠璃子。顔が真っ青だぞ」

「いいえ。私の――私のせいで彼女らは死ぬのです」


そんな言葉が自分から出てくるとは思いもよらなかった。瑠璃子は必死に目を開き、すでに虫の息の雛と元気よく断末魔を騒いでいる綺羅子を見つめた。


「私は見届けなくてはなりません。私のせい、なのですから」

彼女の罪がそこにあった。


彼女は知っておくべきだった。いいや、知ってはいた。理解できていなかったのだ。神の嫁として迎えられ、常人が要求したなら殺されても文句を言えない要求を微笑んで聞き入れられ、そうして暮らしていることの意味。鬼の王の特別であることの義務を。


通常、神は伴侶などいなくても生きていける。だが神の言葉を伝える巫女がこの世に必要なように、神の心に寄り添う伴侶が必要になるときもまた、ある。

瑠璃子は特別だった。特別な存在であるならば、特別な義務を果たさねばならなかった。


人に軽んじられず、堂々と大きな屋敷に住んで、鬼の王の寵愛にふさわしい妻であることを内外に示さなければならなかったのだ。

朱天は瑠璃子の顔を見て、か細い手首を握る手の力を緩めた。

「なら、見ていろ。だが気を失ったら二度と何も見せない。何も教えない。二度とどこへも行かせず、ずっとここにいてもらう」


「――はい」

瑠璃子は青ざめた顔で、固まった鼻血が残った顔で、それでも真摯に頷いた。

それからアケに支えられながら、異母妹と初対面の少女が肉塊に変わり、殺されるのを見届けた。


朱天の最後の一打によって、金髪がついた赤いかたまりが弾けた。弾けた、と形容するしかない。最後の呻き声はどうして、と聞こえた。瑠璃子は目を伏せなかった。俯かなかった。


綺羅子は肘から先の腕を切られていた。その状態で生きているのは苦痛だっただろう。だくだくと血は流れ続け、骨の白い丸がぐちゃぐちゃな切断面から見え隠れする。朱天は剣を使わなかったのだ。腕力だけで小娘の腕を引きちぎった。その手が瑠璃子の喉を締め上げていたから。


綺羅子はかすかに首を持ち上げ、自分に近づいてくる朱天を見上げた。鬼たちがぱっとその場から離れた、まるで朱天自体がとても熱く熱された鉄であり、近づけば肉が爛れるのをわかっているかのように。


綺羅子は最期に瑠璃子を凄まじい目つきで睨みつけた。もはや口をきける身体ではなかったが、異母妹が何を言いたいのか瑠璃子にはよくわかった――恩知らず。お前なんて使用人以下なのに、人間以下なのに、生贄くらいしか使い道がないのに、なんで神様の妻なんて地位についているんだ?


瑠璃子は異母妹の頭が夫に踏み潰され、ザクロのように弾け、手足が末期の痙攣を踊るのを見た。


すべてを見届けて、地面に膝をついた。冷や汗がだらだら流れて全身が冷たかった。朱天があつらえてくれたせっかくの着物を血でだめにしてしまったのが悲しかった。そう、二人の少女の死について、瑠璃子は何も思わなかった。


(私、人間の心がない、のかもしれない)


と思いながら近づいてくる、手を差し出し心配そうに引き上げて抱き上げてくれる朱天を見つめた。彼の金色の目は穏やかに凪いで、周囲の惨劇などないかのようだった。いつもの優しい夫がそこにいる。


瑠璃子は朱天の首の抱き着いて囁いた。

「ありがとうございました……」

と、ただ一言、と息で。そして昏倒した。




***




目覚めたときには真新しい畳の匂いに包まれて寝室に寝かされていた。見慣れた天井、床の間には陶磁器の花瓶に百合が飾られ、掛軸では子猫が遊ぶ。襖に描かれた絵の金粉がきらきら光り、開け放たれた障子から庭の風が入ってくる。そして枕元には朱天が小さくなって座っていた。


「瑠璃子」


彼女は微笑み、夫に向かって手を伸ばした。彼はほっとした様子でその手を取る。爪はもう通常通り、人間らしいといっていい真四角の形に戻っていた。額の角も鹿のような大人しいものに縮んでいる。その堂々とした体躯も。彼のことを小さいと感じる日がくるなんて、思わなかった。


瑠璃子は小さく咳をした。朱天は枕元の盆から吸い飲みを取って瑠璃子に咥えさせた。これほど甘くかぐわしい水を味わったことはない。冷たさが全身に染みわたり、それは冷や汗のいやな寒気とはまったく違う爽やかな温度だった。


「ごめんな。怖かったろう?」

おどおどと朱天は瑠璃子の目にかかる前髪を払う。彼女は微笑んで、首を横に振る。

「いいえ。私――」

それから先の言葉が続かない。瑠璃子は両手で顔を覆った。


時刻は分からないが、朝焼けの様子から見て早朝だろう。瑠璃子は崑崙山に昇ってすぐの頃を思い出した。今すぐ食べられないにしても自分なんて使用人扱いだろうと思い込んで、早朝に起き出し、家事に取り掛かろうとしてコマに出会った日を。


「そうだ、コマは、コマは平気ですか? ひどく蹴られていました」

「ああ。今はネズミどもの巣に籠って療養しているだろうよ。見舞い金も出しておいた。心配するな」

朱天はぐったりと目元を親指で揉んだ。どこか恨みがましい目線で妻を見つめ、


「お前は自分より他人を優先する。それはよくない癖だ」

とぶつぶつこぼす。

「だがそんなところが愛しい。俺にも困ったものだ」


「――【世界の夢】」

と瑠璃子は呟く。朱天は切れ長の金の目を見開いた。


「あなたが私を妻にしてくださったのは、上位の神様が夢を見たからなのですか?」

「くだらん話を吹き込まれおって」


忌々し気に吐き捨てる夫の姿は確かに怖い。だが瑠璃子は恐れなかった。苦労しながらふかふかの布団から身を起こすと、ぐらぐら視界が揺れた。

「答えてください。あなたは私じゃない私を見ているわ。守ってくれて嬉しかった。でも、あの人たちは私のせいで死んだの。理由を知りたいの」


朱天は置いていかれる子供のような、切ない表情を浮かべる。巨体がわななき、瑠璃子は彼の鹿の角が再び鬼のそれと化すのかと思った。だがそうならなかった。


大きな手が伸びてきて、上掛け布団の上の瑠璃子の小さな手を握る。彼女は褐色の手の上にもう一方の自分の手を重ねた。


「――長い話になる」

「はい」


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