第3話
さて、世の中というのはそういうものだが、どのような物事にも終わりがあり、忘れたと思っていた不幸は未来で息を吹き返し牙を剝いてくる。勝つためには完璧に逃げ切るか、すべてを圧倒できる強さを手に入れる必要がある。
崑崙山と【下界】は結界によって隔たっているが、決して断絶しているわけではない。【下界】の神社でしかるべき手順を踏めば結界を踏み越えることができる。他ならぬ瑠璃子自身、そうやって崑崙山に昇ったのだから。
「――だからぁ! わっかんないかなあ!? なんでわかんないのっ? いいからとっととそこどきなさいよおおおぉぉ!!」
と、少女は叫ぶ。その隣で異母妹の綺羅子がニヤニヤ笑い、瑠璃子を見てふふんと勝ち誇った笑みを浮かべた。
少女は珍しい金髪で、それを豪華な二つの輪っかの形に結い上げていた。【下界】の故郷の村の神社で見かけた巫女の姿である。だが顔に見覚えはなく、一年のうちに増員されたかあるいは流れの歩き巫女だろう。秀麗な美貌を持つ人形のように美しい少女だったが、コマを突き飛ばさんばかりにきいきいわめく姿には巫女らしい博識さも優しさも見当たらない。
「ここは鬼の王の領域です。たとえ許可証を持っているとしても、王の許可のない限り立ち入ることはできません」
コマは小さなネズミの身体を精一杯ぶわりと膨らませ、落ち着いた声で言った。瑠璃子ときたらいくじなし、その背中に隠れてさらに小さくなり、息をひそめているのだった。
人形のような巫女の少女がギロリと瑠璃子を上から下まで睨んだ。ひ、と喉の奥に悲鳴が絡む。瑠璃子はその目を知っていた。十歳を越したあたりから感じていた村人たち、具体的にはまだ若い男たちの視線だ……この女は誰の相手くらいならできるだろうか? と値踏みする目つき。
まだ年若い少女の目から放たれた閃光のような視線が瑠璃子を貫き、隣の異母妹の馬鹿にしきった視線が瑠璃子をその場に縫い留める。
やがて少女は可憐な赤い唇から息をふっと吐きだした。
「何コレェ? これが【鬼の王の最愛花嫁】? ブスじゃん。てか、ババアじゃん」
十八歳の瑠璃子は十五歳ほどの少女を見つめて絶句する。コマがちいいい、とネズミの威嚇音を上げた。呼応して、屋根裏から床下から、無数のネズミたちがちいちい騒ぎ周り、跳ね回る音が続いた。
異母妹の綺羅子が眉をひそめて地団駄を踏み、姿は見えないものの存在感を示すネズミを探そうとあちこちに顔を向けた。そして瑠璃子を見つけ、今更のようにプッと吹き出す。
「バカ瑠璃子。瑠璃子とか気取った名前つけられちゃって、勘違いしてたもんね。あ、もしかしてまだ勘違いしてんのぉ?」
綺羅子と巫女の少女は一緒になって笑い転げた。
小さな家の小さな玄関、それでも大切な領域に彼女らがいることが、瑠璃子はどうしようもなく不快だった。だが舌は張り付き、声が出ない。身体が細かく震えている。コマの小さな背中を眺め、大丈夫ですよ、と時折くれる視線に縋るしかない自分が惨めだった。
(どうして私は動けないの)
脳裏を駆け巡る、村での記憶。冬場に庭を掃けと追い出されてガチガチ歯を震わせながら一晩じゅう箒で雪をかいていた。夏には着物をひん剥かれてほとんど半裸の状態で男衆に給仕させられた。寝床のあった物置小屋に誰とも知らない侵入者が現れて、半狂乱で逃げ出したのも一度や二度ではない。すべて義母の差し金だった。彼女は自分を差し置いて正妻の地位にいた瑠璃子の母を絶対に許さなかったし、瑠璃子のことは母親の分身とみなしていた。
――男女問わず吹き荒れる悪意の嵐の中で自我を殺して生き延びた瑠璃子は、何かが起こったときに立ち向かう強さを持たない。我慢することはできる。逃げることも。だがせいぜいそれだけだ。たったそれだけしかできないのだ。
異母妹は義母にそっくりな仕草で美少女の肩を引き寄せ、鼻高々に声を張り上げた。
「こちらの雛ちゃんはねえ、えっらぁーい巫女様のお弟子さんなんだよお? 都にいたんだよお? それでね、雛ちゃん夢を見たの。キャハハハッ、夢を見たんだよお」
雛と呼ばれた少女は巫女服の袖をばさばさ揺らし、申し訳なさそうな仕草をしながら上目遣いに瑠璃子を見上げた。
「あのね、あんたはひょっとしてなんか勘違いしてるのかもしれないけどぉ……鬼の王様のホントの前世の恋人はあたしなのっ」
足元が割れて、自分が吸い込まれていく心地がした。瑠璃子は凍り付き、その様子を見て少女たちは心から嬉しそうに笑い合った。
「あたし、前世の夢見たもん。あたしがホントのお嫁さんでェ……王様に愛されてた夢ッ。きゃはは。あんたホントに愛された覚えとかないでしょ。王様よりもっと上位の神様たちが【世界の夢】を見たから、そんで王様は逆らえなくてあんたなんかをお嫁に取らなきゃいけなかったんだもんねっ。かーあいそぉ!」
聞いたことのない、言葉だった。【世界の夢】? それについては知っている。過去や未来を覗き見する、夢の王や因果の王と呼ばれる神々が見る予知、あるいは予言だ。彼らは崑崙山のもっと上の方に住んでいて、実態を持たないとも言われる……。
いいや、今はそんなことはどうでもいい。瑠璃子は必死に舌を動かそうとする。
「たとえ、たとえそれが本当だとしても、今すべきはではありません……、正しい手順を守って王に謁見を願い出てください」
少女たちは小鳥の群れのようにピイピイとわめき出した。罵倒が八割、自慢が二割といったところか。
「あんたなんかじゃ話にならないから家に上げろつってんのよ! わかるぅ!?」
「あたしたちに追い出されるのが怖いんだろ、使用人以下のくせによォ!」
恫喝の前にコマはますます進み出た。
「奥方様、聞かなくてよろしいですよ、こんな小娘どもの世迷言。王様はあなた様を一目見て前世からの因縁を察知され、妻としてお迎えになるとお決めになったのです。心動かされなさいますな」
不愉快そうに身体をゆすりながらも、凛とした姿だった。いったい瑠璃子は何をしているのだろう? コマを、この優しくて愛らしい侍女を前に立たせて自分は後ろでまごついているだけ? そんなこと、できるわけがない。してはならない。その一心で。
瑠璃子はよろよろと前へ出た。いかにも弱弱しい、殴られれば引くだろうというのが丸わかりの姿勢だった。そして雛と綺羅子は大人の目に隠れて自分より弱い女の子を踏みつけることによって人生を有利に進めてきた、賢い女の子たちだった。
チチッ! とコマが鳴き、瑠璃子を後ろに追いやろうとした。瑠璃子は侍女の小さな手を握って首を横に振る。
「……この侍女の言う通り、この家の権利はすべて夫である朱天王にあります。私はあなた方を家に上げることはできません。夫とお約束されていないからです。【下界】からの通行許可証も、この家に上がる権利を保障するものではありません、ゆえに、」
「雛ちゃんがホンモノな、の! お前ニセモノ! 言ってる意味わかるぅ?」
綺羅子が義母に似た顔をがっと瑠璃子に近づけて凄んだ。生臭い息が口に直撃し、ひぃ、と瑠璃子は息を止める。
幼い頃、綺羅子は何度も何度も堀に瑠璃子を突き落とした。女の子たちを指示して大勢で瑠璃子を押し倒し、その上に乗っかった。やめて、やめて。息ができないの、骨が折れちゃうから……そう言って泣けば泣くほど綺羅子は大喜びし、それを見た義母も綺羅子を褒め称えた。
――たとえ天地がひっくり返っても。彼女ら母子のようにはならないと瑠璃子は心に決めていた。恨みに飲まれて死んだ実の母親のようにもならない。どれほど貧しくてもいいから、夫となる人と子供たちと、恨みつらみのない穏やかな日々を過ごすのだと夢見ていた。
チチッ! とコマが鳴き、瑠璃子を後ろに追いやろうとした。瑠璃子は侍女を手で制し、あくまで自分が前に出ようとする。
「今は、帰ってください。あなた方にここに来る権利はありませ……」
「あァーッ!」
綺羅子は絶叫した。真正面から唾の飛沫を浴びて瑠璃子は過去に埋もれる。どぶに落とされて唾や蹴りを浴びていた幼少期の思い出が襲い掛かる。
「ニ、セ、モ、ノうるせ――ッ!!」
ばちんと頬を殴られた。雛は美しい顔を歪ませきゃあきゃあ笑って両手を叩き、地面を踏みしめて踊った。
「お前なんか生贄だろうが。何、このいい着物? お前みたいなのが絹の着物着ていいわけねえだろうがァ! 脱げよ! 脱げクソアマ!!」
綺羅子は狼のように吠えた。コマが彼女に飛び掛かるものの小さな身体はすぐに跳ね飛ばされてしまう。
「――コマ!」
瑠璃子はネズミの身体の侍女に駆け寄ろうと必死になったが、綺羅子は凄まじい力で異母姉の腕を抑え、本当に着物を剥ぎにかかる。瑠璃子は抵抗した。村で育つうちにやり方を忘れたと思っていた、本気の抵抗だった。口から悲鳴じみた喘ぎ声が漏れ、よだれも垂れる。外見になんて構っていられないほど混乱して、頭の中は真っ白だった。
雛は見下した目で揉み合う姉妹を眺めると、鼻歌でも歌いそうな足取りでコマに近寄った。
――どん!
打撲音が、骨の奥まで衝撃が走った音が、瑠璃子の耳に聞こえた。一瞬、心臓が動きを止めた。
「ギュイ!」
とコマは叫び、くったりと動かなくなった。
「いやあああああ! 誰か、誰かぁ! コマああああああ!!」
瑠璃子はちっぽけなけだものが窮鼠猫を嚙むようにやみくもに叫んだ。だが、誰が声を聞きつけるだろう? ここは【神域】。鬼の王の領域だ。他の神々には聞こえない。瑠璃子がそれを望んだのだ、誰にも見つからない静かな場所で、愛する人だけを見て暮らしたいと。
大柄な綺羅子がとうとう瑠璃子を押さえつけ、バシンバシンと力づくで顔を平手打ちした。頬を横から叩くのではなく、手のひらを上から鼻と言わず目と言わず打ち付ける、本気の殴り方だ。母親がよくやっていたやり方だ。
「あははははは」
異母姉妹を眺めて雛は気のない嘲笑を上げると、舌なめずりしながらコマをさらに蹴った。
「ネズミ、このネズミめっ、ホンモノの神の嫁のあたしに歯向かいやがって。あァ? わかってんのか? あたしは神々と人間を繋ぐ選ばれた巫女なんだよッ!」
「ギャッ、ギャアッ」
コマはだんだん変化が解けて、人間のようだった手も爪の生えたネズミの前脚に戻る。瑠璃子はもがきにもがいた。昔から、栄養状態のいい綺羅子と正反対の瑠璃子は喧嘩しても勝ち目などなかった。だが。
「コマを、離してッ!」
思いっきり蹴り上げた足が綺羅子の太腿に当たり、異母妹はウグッと呻いた。その勝気な吊り目に凄まじい怒りと憎しみが宿り、綺羅子は両手で瑠璃子の喉を掴むとぐいぐい締め上げる。殺される――本能的な恐怖がこみ上げ、瑠璃子はやみくもに綺羅子の手の甲をひっかいた。
綺羅子の手はよく手入れされて白くなめらかだった。だがそのか細さからは信じられないほど力強かった。
「死ね、死ね、死ね!」
怒声が瑠璃子の全身を打つ。雛が笑いながらコマを嬲る音が聞こえる。恐怖と混乱で瑠璃子は泣いた。
突然、喉にかかる圧力が抜けて解放された。途端に香る、血のにおい、絶叫、恐怖の冷や汗がどっと溢れて瑠璃子は喉を抑え、ごろりと横に転がって咳き込んだ。
「もう大丈夫だ。すまなかった。遅れて」
優しい温かい手が降りてくる。瑠璃子は朱天の胸に抱えられ、間近に見える心配そうな痛みをこらえた夫の顔を見つめる。
泣き声は声にならなかった。ほとんど吠え声だった。夫の胸に縋り、瑠璃子はむせび泣いた。
「すまない。すまなかった。本当に。俺はいつだって間に合わないばかりだ。ああ、瑠璃子……」
血を吐くような慟哭がつむじから染みわたる中、瑠璃子は首を激しく振っていいえ、と叫んだ。喉が潰れかけているからぜいぜいとかすれた声だったが、振られた金の鈴の音のように朱天の耳に届く。
「いいえ。来てくださいました、来て、くれました。あなたは。朱天様……」
「瑠璃子、瑠璃子」
朱天は瑠璃子の頬に口づけ、幼子をあやすように何度も彼女を揺すりあげた。
知らない声が複数、聞こえた。内容からして朱天の配下の鬼のようだった。まだ神に昇格していない人外たちは神の元で働き、いつか崑崙山に住居を構える神となることを目指して日々修行する。本来なら彼らはもっと大きな屋敷に常に待機して、朱天の近くに仕えるはずだった。瑠璃子が小さな家屋敷を望んだから……彼らは近くにおらず、こうして朱天の助けも遅れた。
自分が情けなくて、悔しくてならなかった。瑠璃子が傷つけば朱天は悲しむだろうとわかっていたのに、どうして彼女はもっと真剣に身を守ろうとしなかったのだろう?
朱天は中庭の竹林の傍に瑠璃子をそっと置いた。地面の上に惜しげもなく広げられた彼の外套に包まれ、彼の香と汗のにおいを感じて瑠璃子は淡い溜息をつく。
瑠璃子より朱天の方がひどい顔をしていた。夕焼けのような長い髪は乱れ、悲しそうに瑠璃子の身体を検分しては傷を見つけて嘆きの声を上げる。
「あああ……守れなかった、また。まただ……また、傷つけるのを許してしまった」
「朱天様。――旦那様?」
瑠璃子は異変に気付く。
ざわざわと朱天の髪の毛が変色した。夕焼けの赤色がより黒く、色濃くなり血だまりの色に。長く伸び、量も増えたようだった。彼の腕に力が入り、瑠璃子が知っているのより太く逞しくなった。そして角が――前髪をかき分けて空へ伸びるみごとな鹿の角が、変形した。ひとつずつの尖りはそのままに、より太く大きくなり長さも伸びた。バギッと大きな音を立てながら角はゴツゴツとした表皮を纏い、いっそう大きくなって彼の頭上にそびえる。
瑠璃子はそれが彼だとは信じられなかった。確かに身体の大きな、がっしりした人だった。だが今こうして立ち会がった朱天の背丈は六尺(一.八メートル)を越え、角の先は竹と背比べしてもいいほどより高い。瑠璃子はやっと理解した――これまで朱天は瑠璃子のために、自分の身体を縮めてくれていたのだ。
表の方から変な声が聞こえた。ギャアアアヒイイィイ……。女の声だが女のものとは思われないほどに低く、ひび割れている。
「アケ、妻を見ていろ」
「あい」
竹林から小さなネズミが飛び出してきた。コマよりさらに小さい、栗色の男の子のネズミだった。二足歩行をして、一人前に着物を上だけ着ている。
瑠璃子の知っているそれより二倍は大きくなった手が優しく彼女を竹にもたれさせ、外套の皿に上にたっぷりとした布地の打掛がかけられる。紅葉柄のそれは夕焼けの色をしていた。
「朱天様……朱天様!」
「すぐに終わらせるから、待っていてくれ」
この上なく優しい瞳で朱天は瑠璃子を見つめ、そして風がひとつ、ふわりと巻き起こる。思わず目をつぶった瑠璃子がはっと気づくともう彼はいなかった。ああ。
「奥方様、今はここでじいっとしてらしてください。おれがお守りいたします。ネズミでは役者不足とお思いでしょうがこらえてつかあさい」
アケと呼ばれたネズミは丁寧な一礼をした。瑠璃子は震える手で自分の黒髪をがしがしかき回し、腰が抜けているのを無理して立とうとする。頭の奥が焼ける感じがして、つうっと鼻血が滴った。
「あああ。さ、手ぬぐいですよ。ぬぐってください。おいたわしや……」
身体のわりに太いしっぽがピュンピュン揺れて、アケは甲斐甲斐しく瑠璃子の背中をさすり、手ぬぐいを差し出す。ありがたくいただきながらも瑠璃子の心はここにない。
「こ、コマはどこ。あのひとは無事なの」
「あい、あい。コマ姐さんは仲間が面倒みてますよって。ご安心ください」
瑠璃子はばくばく走る心臓を抑え、震えた。だが――立ち上がらなければならなかった。
陰惨な悲鳴と血のにおいがする方へ、向かわなくてはならなかった。
「奥方様ぁ。無理せんとって……」
とアケはしっぽもひげもピンと張っておろおろする。だが瑠璃子は立った。立つことができた。
「怖いならお前はここにおいで」
思った以上に、震えない普通の声を出すことができた。
瑠璃子は義務を果たすため動くことができた。
アケはピイと鳴いたが、やがて覚悟を決めたように頷いて、歩き出す瑠璃子の後ろに従った。
「旦那様がおれに奥方様を見てろって、見てろって、言ったんだ」
とひとり言を言う。瑠璃子はふっと笑った。そのくらいアケは小さくて愛らしかった。血がめぐり始め、歩く一歩ごとに身体に熱が戻る。瑠璃子は顔を前に向け、悲鳴の元へ向かう。
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