第4話 プール掃除の仁奈
「ヌメヌメ、ですね」
となりに立つ仁奈が言う。
「ヌメヌメだな」
ぼくも言う。
学校のプールの底はヌメヌメしていて、緑色の謎の粘膜が付着しまくっている。
放課後。
ぼくと仁奈は、担任からプール掃除を命じられていた。
正確には、授業をサボったぼくだけが命じられていたのだけど、例のごとく、仁奈が勝手に付いてきたのだ。
「それじゃ、お掃除しましょうか」
「まてまて」
ぼくは仁奈の持っていたブラシをつかむ。
「どうしたのです類くん。さすがのわたしもブラシフェチは引きますが」
「ぼくはそんな発想に至るおまえに引くよ……って、そうじゃなくて、仁奈は何でスク水着てんだよ」
ぼくは学校指定の運動着を着ていたし、当然仁奈もそうだと思っていた。
それなのに!
「それはもちろん、類くんが、よろこぶと思ってです」
「あのなぁ……」
「学校のプールでスクール水着を着ることに文句を言われても困ってしまいますね。競泳用のプールでは競泳水着を着ますし、サーフィンではサーフィンウエットスーツを、カッパドキアでは合羽を着ますよ、わたしは」
「最後のは違うだろ」
「わたし自身も着たかったんですよ。中学のときってラッシュガードでしたし。……どうです? どこら辺にトキメキましたか?」
「トキメいてる前提で聞くな」
「なるほど。まずトキメいたかどうかを聞いて、その後どこにトキメいたかを聞けばいいのですね?」
「そういうことじゃなくてだな」
「じゃあ、どういうことなのです? ふむふむ、後学のために聞きたいですね」
何を言っても罠に嵌められる気がして、ぼくは黙って肩をすくめた。
「…………」
シンプルに可愛いかどうかと聞かれたら、可愛いくらいは言ったかもしれない。
可愛いくないわけがない。
直視できないぐらい、彼女は眩しかった。
夏、水着、プール。
すべてが、眩しい。
自分は今〝青春〟の中にいるのだと、否が応にも理解させられる。
たとえば、大人になってからも、毎年夏が来る度に思い出すような、そんな青春の夏。
でも、だからこそ。
「どうしたんですか類くん、はやくはやく」
振り向きながら、ぼくに呼びかける仁奈。
夕暮れ。光陰。入道雲。仁奈。
絵画のように完成された図。
だからこそ。自分が、完成された世界に混入した異物のように思えてならない。
――蜷川仁奈に、何もするなよ?
プールの鍵を借りる際に、職員室で担任に言われた言葉を思い出す。
ぼくが、仁奈に何かするような男に見えたらしい。
その担任の前で、ぼくは、何かやらかしただろうか。そんな疑いを持たれるような何かを。
いや、していない。
それなのに。どうしてそんなことを言われなくちゃならないのか。
そう思ってにらんだら、向こうもにらみ返してきたっけ。
……こんなことばかりだな。
いつからか、ぼくは、世界になじめなくなっていた。
周囲との軋轢。なぜか、ぼくは、みんなから避けられる。周囲の人間が、ぼくを避けるから、ぼくも周囲の人間を避ける。
いや、逆なのか? ぼくが避けるから――?
どちらにせよ、ぼくは、ぼくなんかは、ここにふさわしくない。
仁奈に、ふさわしくない。
そう思わざるをえない。
だから。
仁奈が、ぼくのせいで、何か不利益を被る前に、仁奈が、ぼくのことを嫌いになる前に。
だから、ぼくは――
「えいっ」
「うおおおっっっ!?」
ぼくは悲鳴を上げた。思いっきりホースの水をぶっかけられたから。
「あはっ。やりすぎちゃいましたか?」
「……おまえなぁ」
呆れながらも、濡れた前髪を直す。
きっと、変になってる。
「髪、ペッタリ張りついて、変になってますよ類くん」
ほら。
「変になっても、カッコいいです」
「っ!」
「類くん、何を驚いてるんです?」
仁奈は目を細めて笑っていた。
「類くん、類くん、ねえ、類くん」
やさしい声で、何度もぼくの名を呼ぶ仁奈。
どこか、泣きわめく赤ちゃんをあやすような声にも聞こえた。
「大丈夫ですよ。どんな風になっても、類くんはカッコいいです」
いつもなら、そんなことを言われても憎まれ口を返していた。
でも、今のぼくは何も言えない。
だって、それは、ぼくがいちばん望んでいた言葉だったから。
「類くんはたぶん、自分に自信がないのですよね?」
「そ、それは――」
「でも、大丈夫」
ゆっくりゆっくり、ぼくに近づく仁奈。
「わたしは、いつもの、ありのままの類くんが好きなのです。だから、何かに引け目を感じる必要なんてないのです」
そう言って、仁奈はぼくをじっと見つめた。
「どうでもいいじゃないですか。他人の意見なんて。類くんは、わたしの意見とその他大勢の意見、どっちが大切なんですか?」
そんなの、考えるまでもない。
「……ぼくは…………」
「はい、なんですか?」
仁奈は、まっすぐぼくの目を見ている。
やさしく、何かを期待するように。
あるいは、ぼくを応援するかのような。
「ぼくは、君が、好きだ」
その、まっすぐな視線を受けていたら、いつの間にか口走っていた。
「好きだ、ぼくは仁奈が、好きなんだ。ずっと前から」
こんなこと、言うつもりなかったのに。
我慢ができなかった。
でも、きっと、仁奈なら――
「わたしもです」
ほら、仁奈なら、ぼくを、受け止めてくれるから――
「大好きですよ、類くん」
自然と、体を寄せ合うぼくら。
……やがて。
……こうして。
……なんやかんやで。
ぼくと仁奈は恋人同士になった。
「――ましたかね」
仁奈が耳元で、何かをささやいた。
「仁奈……?」
「いいえ、なんでも」
見えなくても、仁奈が微笑んだのがわかった。
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