仮説弐

 扉の上に乗って息むの難しいということであれば、困難を分割したのだろうと考えられる。


 つまり、人糞は扉の上以外でひり出され、後から扉の上に乗せられたということになる。こちらもまた扉の上で息んだ説とは別の意味で、正気を失っているのではないのかと神経を疑ってしまいそうになるが、愉快犯であるとするならばその限りではない。面白そうだから乗せた。非合理ではあるが単純明快な理由だ。


 こちらならば、扉の上の細い花道をはみ出る人糞をいかに乗せるかという困難はあれど、不可能ではないだろう。


 再び人々のために想像してみよう。深夜の駅。人がまばらになった時間帯に、下手人は現れる。前の想像が中年男性だったので、こちらでは中年女性とでもしておこうか(書くまでもないことであるが、前述の中年男性と同じくあくまでも仮定である)。動機は仕事と家事の両立に擦り切れてしまっただとか、既婚男との不倫の末に身ごもった子供ごと捨てられたとか、あるいはただ単に、なんか思いついてしまった、というのが実情に近いかもしれない。とにかく、彼女は公衆便所の周囲に人がいないのを確認して中に入りこむ。清掃の時間も調べ上げてもいたかもしれない。性別誤認を狙って敢えて男性用便所に入り込んだ。万が一、姿を見られた時のために顔を隠すことも忘れない。とにもかくにも、彼女は細心の注意を払い、目当てである一番奥の個室の前まで歩き、高所へと視線を向ける。便所の上にある花道には、まだ何も乗っておらず、ただただ天井との隙間を示すのみだった。しめしめといった具合に微笑んだ中年女性は、あらかじめ手にしていた冷房箱くーらーぼっくすをおもむろに開く。この世に生を受けてからさほど時を経ていないこんもりとした人糞の強烈な臭気が開放されるのと同時に、眉を顰め、鼻を塞ぐ。しかし、このままでは目的は達成されないだろうと腹を括ったあと、鼻を洗濯挟みで塞いでから作業を開始する。冷房箱と同じようにあらかじめ用意していたと思しき長物――手を触れずに運べるという点からして工事用の円匙すこっぷ辺りだろうか――を手に、おもむろに人糞を掬い上げた。その際、円匙によってやや乾いた糞の下部が削れたが、かまわず掲げ持ち上げていく。角度がついたことによって、中年女性は自らの顔面へ人糞が落ちてくるのではないのか、という恐怖をおぼえつつも、どうにか扉の真上の高さまで持って行くことに成功する。とはいえ、難しいのはここからである。何度も書いているように、綺麗な蜷局を巻いているそれの横幅は扉よりも分厚く、考えなしに乗せようものならば、高確率で個室内か中年女性の顔面に落ちることになるため、細心の注意を払い調整を施していく。緊張の一瞬が永遠であるかのように続いたあと、ゆっくりと円匙を引き抜けば、奇跡的な均衡を保って人糞が室内灯に照らされて光沢を放つ姿が映し出される。自らの一仕事に満足感をおぼえた中年女性は、ふと光沢の中にあるどす黒い一筋の血液に気が付く。病院に行こう、と密かな決意を固めつつ、彼女はその場を後にした。


 この推測にも穴は多いが、最も致命的な問題として、扉の上に人糞を乗せる困難自体は克服されていないこと。高さの問題に関しては梯子やら脚立に乗ればいいという話で、下手人はいかにも業者であるような顔を装い何食わぬ顔で公衆便所内に侵入したのかもしれない。それでも均衡をとりにくいという事態は取り残されているが、扉の上で脱糞したという説よりは多少は現実味があるのではないだろうか。

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