仮説壱
冷静に、否、冷静に考えなくてもおかしい。まずもってこんな場所に人糞が乗っているということ自体が奇怪である。
現実的な線を一つずつ洗っていく。
仕切りと天井の間は六~
公衆便所で正気ではない人間という想定上、真っ先に容疑者として上がるのは酔っ払いだろう。
人々のために想像してみよう。退社後の中年男性が千鳥足で歩いている。彼はほろ酔い気分で満足しているが、突如として強烈な便意がやってくる。男性は、慌てて便所を探して回るが、なかなかみつからない。そうこうしているうちにも腹の中の時限爆弾が暴発寸前で、下着に濃い茶色の染みを作りぐちゃぐちゃぬちゃぬちゃさせるのも秒読みといった気配を漂わせる。万事休すかと思われた直後、駅の端の公衆便所をみつける。なんてことはない。灯台下暗し。危機感は駅に用足し所があるという当たり前の事実すら刈り取っていたのだろう。この分だと、途中にあったかもしれない諸々の店や公園すら見つけ損なっている可能性すら考えられるが、さしあたっては便所をみつけられたのは間違いないので置いておく。ようやく目的地にたどり着いた男性は、助かった、と万感の思いを抱きながら入口から漏れる薄明りに羽虫のごとく吸い寄せられていく。そして、ひとたび大便器の扉に手をかけて引いてみるが、うんともすんとも言わない。一抹の危機感をおぼえつつ、押戸なのではないかと試してみるがやはり反応なし。慌てて隣も試してみるものの、やはり扉はびくともしない。最後の希望を込めるべく一番奥にある三つ目の扉に対しても押し引きを試みるも、やはりどうにもならない。その間も爆発の刻限は迫っている。薄らと汚れた白い陶製の床の上で野糞するか、いっそ小便器の上で息むか考えること数瞬、彼の脳裏に天啓が振った。扉を飛び越えてしまえばいい、と。冷静に考えれば、爆発寸前の腹を抱えた上での登攀は困難を伴うのは容易に想像できるはずであるが、大の大人がするべき場所ではないところで脱糞をするという恥の前では、多少の無茶は肯定されうる、というよりもそう信じなければやってられないというところはあったのだろう。昭和という名の古代以前には頻繁に行われていたと言われる立小便ですら煙たがられる現代社会、ましてや野糞ともなれば、露見すればその恥の大きさは想像を絶する――もっとも、人間の宿命として年を経るにしたがって括約筋が弛んでいくものであるし、密かに便所へ飛びこむのが間に合わず漏らしたのを誤魔化すという体験を少なくない人間がしているであろうことを考えれば、実際のところ、糞漏らしなどたいしたことではないのかもしれないが――閑話休題。とにもかくにも、彼は聳え立つ扉を登攀しようと決意を固めた。とは言え、扉の表面はつるつるしていて足がかり手がかりはそれこそ、開閉しようと圧し引きを試みていた取っ手くらいのものであるが、男性は生来の身長の高さや筋力で強引に乗り切ろうとする。しかしながら、当然のごとく登攀の際に
この推測にはいくつもの穴がある。まず、中年男性という推測は、人糞表面の黒い血液から見て取れる不健康さゆえの偏見から来ているが、実のところ健康状態が悪ければ、若年男性でも成立しうるし、もっと年嵩の可能性もある。更に男性用便所であるところから勝手に性別を限定していたが、危機的状況であるのならば慌てて走りこんだ女性という線も消しきれない(そして、扉の登攀に必要な筋力という点に目を瞑るのであるのならば、平均身長や柔軟性の高さといった点から、扉と天井の間に体を差しこみやすくもあるといえる)。そもそも前提条件からして、細い扉の上で息むことは困難を極める。それこそ、中国雑技団でも連れてこなければ難しいのではないのかという点において、この妄想は幻想なのではないのか、という方に舵を切らざるを得ないのではないのだろうか。
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