ヒトデナシ⑤
「よし一つ!」
この山で生まれ育ったスズカにとって、足場の悪さなど問題にもならない。取り戻した俵の一部を切り裂くだけに留め、彼女はまた走り出す。
取り戻すことが優先。加えて鬼の強靭な肉体。それもあるが置いて先へ進んでも大丈夫だという、ある種の安心感が彼女の中に生じていた。
「困りましたね」
司会者は独りごちる。百を超える数のオニを捕獲した筈が、今はもう片手の指の数ほどしか残っていない。船まではもうじきだろうが、それまでにあとどれだけ取り零すことになるか。
感情が希薄になった彼には、任務の進捗が思わしくないことに対しての焦燥も苛立ちも、制裁に対する恐れも殆ど無い。
ただ事実として、なるべく多く仕入れなければならない中で、片手の指の数にも満たないというだけ。
取り返すために動くことは現実的ではない。警戒を強めた鬼はもう先程のようには捕まえられないだろう。そして生きていなければ意味もない。
身体能力がヒトよりも遥かに高い。それを殺さずに捕まえるとなるといよいよ非現実的だ。
そこに投入できる駒も失った。先程の様子では立ち上がることはないだろう。
では彼は追い付いてくるだろうか。不意に熱、或いは疼きのような異物感と共にそんな思考が紛れ込んだ。
「……」
来て何が出来るというのか。薬は徐々にヒトの体を破壊していく。体に適合しない魔物由来の薬と、魔術の行使はそれを加速させる。激痛に苛まれる中でどれほどの働きが出来るだろうか。
脅威というなら先程から食い下がってくるこの鬼の方が余程そうだ。今思考を割くべきはそちらだ。
――では何故?
「……」
危うく鬼の手が顔を掠め通る。やはりこちらの方が脅威だ。司会者は思考から熱を捨てる。
「――」
まだ余っている組織に意識を巡らせる。司会者の頭には、多方向から捉えた鬼の少女の情報が流れ込んでくる。
身長、髪や瞳の色。骨格に筋肉の発達度合。そして悍怖影としての視力は外見のみならず、その内側までも捉える。
その者の最も恐れるものを暴きたてる。
「――――っ!」
瞳孔が拓く、心臓の脈動が不規則になる。四肢の筋肉が収縮する。これまで通りの動きを阻害する。
恐怖 恐れ《きょうふ》 怖れ《きょうふ》 畏れ《きょうふ》 こわい《きょうふ》
目に口、笑顔、それも満面の。そして手、それが大きく開かれた。
司会者は再びヒトの姿を取る。歪で、醜く、巨大なヒトに。
ただそれだけで、ただそれだけのことで、スズカは調子を崩す。司会者の大きな目がさらに弧を描く。笑みの形に細められる。
開かれた手がゆっくりと閉じていく。まるで萌芽を巻き戻すように。
捕まる。スズカの脳内に警鐘が鳴り響く。逃れようと動こうとする
「――」
「――」
「――おおお‼」
咆哮。影が砲弾さながらの勢いで飛来し、司会者の巨大な掌を蹴り穿った。
「――あ、アルゴ……!」
「止まらないで!追って!」
危うく着地を決めるスズカ。その表情に光が戻る。そんな彼女を振り返ることなくアルゴは激励し、再び地を蹴る。
「――」
自らを奮い立たせ、スズカも負けじと駆け出す。並走するアルゴの顔をちらりと視界に収めた彼女は、小さく息を呑んだ。
彼女の側から見た頬から首にかけて、火傷のように爛れている。
終わりが近いのだと彼女は悟る。敵の目的地までの道のり。自分達の体力。時間。そしてお互いが死守しようとしているもの。
何もかもがもう残り僅かだった。誰もがそれを分かっている。
だからスズカは止められなかった。
あんなにも、自分達のことで怒ってくれる人間に「休んでいて」などと、言える筈がなかった。
アルゴのためにスズカに出来ることは、一刻一秒でも早く残る全ての仲間を取り戻すこと。それを除いて他にない。
「スズカさん、どうか逸らないで」
強く踏み込もうとしたスズカの耳に、掠れたアルゴの声が響いた。
「大丈夫です。きっと取り戻せますから」
「――っ!」
胸に熱が灯る。世界がまるで松明に照らされたように明るくなったように、彼女には感じられた。邪魔な何かが取り払われ、体が一瞬前よりも滑らかに動く。
届く。きっと。確信めいた予感をそのままに、スズカは強く地を蹴り跳躍する。
「――」
「——あと二つ!」
瞠目する司会者。スズカは高らかな宣言と共に、同時に二人の仲間を取り返した。
「——!」
そこでふと潮の匂いが強く香り、木々の向こう夕闇に染まりゆく世界の中に、ぽつりと幽かな灯が浮かんでいるのが三者の目に入った。
追跡劇の終着点が、もうすぐそこまで迫っている。
いち早く動いたのはスズカだった。再び鋭い跳躍。進行方向に司会者が縦一列に並んだその一瞬、ネコ科の猛獣のように跳び掛かる。咥えられた荷物まで手が届くその刹那
司会者が二つの内スズカに近い一つを、彼女に向けて投げ放った。
「——⁉」
目測よりも早くに届いた仲間に不意を突かれ、スズカは咄嗟にそれを受け留める。受け留めてしまった。
「っ!」
アルゴは次の瞬間には跳躍していた。成程、至極合理的だ。どちらも持って逃げることが叶わないと判断した司会者は、一つを確実に得るために、もう一つを囮にした。
しかしそれが確実に実を結ぶのは追手がスズカ一人であった場合。事実、彼の手はもう残る一つにまで届――
「——」
指先が俵の外装の感触をさえ錯覚する。しかしアルゴの視界を埋め尽くしていたのはヒト型を取り戻した司会者の姿だった。
荷物を咥えた頭とアルゴの間に現れたそれは空中で身を翻し、伸ばされたアルゴの手に足を置く。そしてまるで踏み台のように、つよく柔らかく蹴った。
「……っ!」
押し戻される感覚と共に司会者の姿が遠くなっていく。開けた視界。崖になっていたらしく下には遠く森林の続きと、白波を立てる水辺が。
嵌められたのはアルゴの方だった。放物線を描きながら落ちていく司会者。その先に先程の明かりの正体であろう、暗い水面に溶け残る船の輪郭を捉える。
「——」
言葉はなく、殊更に勝ち誇るでもなく、また嘲るでもなく、宙空で一つに纏まった司会者はただ慇懃に礼をした。
必死に伸ばされたアルゴの手は、ただ虚しく空を掻く。
パーカーはこの場には居ない。
また助けられない。約束を違えてしまう。傷付けてしまう。
浮遊感は忽ちの内に落下の重みへ変わる。同時にアルゴの胸中が喪失感に呑まれていく。
「アルゴ!」
スズカが辛くも彼の腕を掴んだ。流石というべきか彼女は一息にアルゴの体を引っ張り上げる。
「……っ!」
礼を言うよりも早く、身を起こしたアルゴは崖から身を乗り出し、司会者が落ちていった方へ目を凝らす。
幽かではあるものの、波打ち揺れ光る水面を、それをぐるりと囲う山肌を捉える。
「く、そ……っ!」
忌々し気に吐き捨てながら、アルゴは腰を探り鶏卵大の黒い球体を取り出す。
魔力に身を焼かれる激痛を無理矢理無視して、彼はそれを捉えた船へ向かって投擲した。
砲弾のように風切り音の尾を引きながら飛んでいった球は船影へ届くことなく、虚空で赤い光を放ち弾けた。歯噛みしながらアルゴは再び腰を漁る。
「くそ……!」
「ちょっと、何してるの⁉」
スズカにも彼の行動は無鉄砲や自棄を起こしているように見えた。返答はなく第二投が放たれる。しかしそれもまた空中で弾けて光を放つだけだった。彼は足元に視線を走らせる。
拾い上げた拳大の石をまた投げる。そこでようやくスズカにもアルゴの行動の意味が分かった。
「無理がある!それに、それにアンタ、傷が……」
火傷のような傷は先程よりも広がっていた。無謀ともいえる攻撃の手を止めないアルゴを、スズカは遂に取り押さえる。
「まだ、まだ間に合う!そこに居て助けられるんです!私がしなければ!」
「だとしてもそれじゃ無理がある!それに自分の体がどうなってるか分かってるでしょ⁉」
「どうにかできるなら、この身一つどうなろうと知ったことか!何か……何か手が……!」
焦燥で声が荒げられる。燃え揺れる双眸は状況を打開しうる何かを探し続けている。
「……取り敢えず、先ずは崖を降りよう。あたしがアンタを背負うから」
抑えられた声。スズカの提案をアルゴは静かに受け入れた。
二人が崖を降りるまでの時間は文字通りのあという間だった。しかし殆ど沈んでしまっている陽の中では、司会者の乗った船はもう輪郭さえ判然としない。見えるのは水辺をぐるりと城壁のように囲う山肌と、その中に一筋だけ切り抜いたように開かれた水路。そこからほんの僅かに見える夕日と水平線。
岸に他に船はなく、あるのはその残骸と思しき木片だけ。追跡はもう不可能なように思われた。
「……」
絶望的な状況。膝から崩れ落ちたのはアルゴだった。精神がいよいよ以て傷だらけの体を支えていられなくなった。
「ごめんなさい」
蹲ったままアルゴは悲痛に喉を震わせる。進科は彼を見ない。
「……、——」
悲嘆と憤りに彼女の顔もまた歪んでいる。しかし水平線人何かを捉え不意に、眉根に依っていた皺が浅くなった。
「ねぇ。――ねぇって!」
蹲ったままのアルゴにスズカは声だけを向ける。その目は水辺へ向けられたまま。
「山の向こう、船が二隻見える。お面が乗ったのとは別にもう一隻。……戦ってるみたい」
アルゴはそこでようやく顔を上げる。彼の目にはぼんやりとさえ見えないが、スズカには違って見えているようだった。
「……スズカさん、何か特徴は分かりますか?船や乗組員に」
もしやと、一つの可能性がアルゴの中に浮かぶ。あまり強く期待を持ってはいなかった、一つの可能性が。
「そこまでは分からない。でも――」
そこまで言い掛けたところで、アルゴの目にもちかちかと光が明滅しているのが確認出来た。そして僅かに遅れて炸裂音が
状況から考えて 片方は司会者達の組織と考えて間違いないだろう。それと戦っているとなれば、考えられるものは二つ。
一つは司会者達と敵対する別の犯罪組織が縄張りを荒らされたと攻撃している。もう一つは幕府。商船や軍艦とは異なる船を確認したために攻撃。そこにカイシュウ達解氷塾の関係者やミゲル達アヴァロンの調査官が同乗しているか否か。
「——」
考察するアルゴの前で水面が大きく波打ち、水位が一瞬大きく下がった。それは災害か、それに相当する生物の活動の際にこそ、よく生じる。
――――
そしてそれは的中する。大きく寄せ返す波。夜闇の中でもはっきり感じ取れる大きな気配が、轟くばかりの水音と共に、水面がうねり蠢いた。
「『
苦々しく呻くアルゴ。声音だけでその魔獣の危険性の高さは容易に窺い知れた。
「何か手はあるんでしょ!パーカーみたいな魔獣がこっちにも」
スズカの声は無理矢理明るくされたように上擦っていた。
「水蛟の体には銛も大砲もあまり効き目が無いんです。体の表面を滑ってしまうから。それに私の知る限り、私の仲間はまだ魔獣を使役していません」
パーカーでもあの相手は厳しいでしょう。魔獣調査官であるアルゴには分かってしまう。対抗策を何も用意していなければ、良くても命が助かるだけ。残る鬼の奪還までは望めない。
「でも、あの蛇船を攻撃してない。むしろ、何か嫌がってる……?」
「……?」
アルゴはその言葉に首さえ傾げた。水蛟へ有効とされているのは強い熱と光。火を焚くならば相当に大きなものである必要がる。であればそれは彼の目にも見えただろう。しかしそんなものは確認出来ない。或いは八洲には別の方法が伝わっているのだろうか。
「何かが居るみたい。ちいさな……」
それが何なのか、判別するには流石に離れ過ぎていた。しかし次第に水蛟の纏う気配が変わっていくのはアルゴにも感じられた。
強大な生物が纏う迫力のようなものが薄れていく。スズカの言葉を聞く限りに於いては、手懐けたというわけではなさそうだが
そして程なく水蛟が放っていた気配が、アルゴには感じ取れなくなった。
「――逃げた?……うん、死んだようには見えなかった」
「――?」
そこで何が起こっていたのか、終ぞアルゴには分からないまま。小さな光の明滅がまた始まり、そして一際大きな光が高い位置で炸裂し二隻の船の輪郭を映し出す。それは破壊の光ではなく、信号用の照明玉のものだった。内一隻の帆は見慣れた紋が描かれているのをアルゴは見留める。
カイシュウが所有する氷解塾の船だった。であれば照明玉はきっと――
「こっちに手を振ってる。誰かまでは分からないけど」
「ええ、そのようです」
それはアルゴにもかろうじて見えた。二人が訝る前で、氷解塾の船から小舟が一艘下ろされる。乗り込んだ何者かが岸へ近付いてきた。
「ミゲルさん?」
内一人はミゲルだった。舟には他に漕ぎ手が一人と、そして米俵が一つ。
「――アルゴさん。……その傷、すぐに治療を!」
アルゴの容態に気付いたミゲルは接岸を待たず彼の元へ飛び出す。小さな影がその足元にくっついてきた。
「それより今は状況を。何があったんです。……それにその子は?」
緊張の糸が緩んだためか、痛みがアルゴの総身を苛み始めた。しかしそれを薄れさせる疑問と興味が彼の内に湧く。
「セキエン殿が仰るには『
はにかみながら説明するミゲル。別れてからの時間で何があったのだろうか。彼は肩へ登ってきたガンギコゾウを、子どもをあやすように撫でる。
その容貌はサルにもまた両生類にも似ていた。抱きかかえられる程度の大きさの体、ヒトやサルに近い五指を備えた四肢。ハゼやオコゼの仲間に似た口の中が一瞬見える。中にはサメものに似た鋭い歯が輪型に並んでいた。顎の骨格から見るに噛む力は相当なものだろう。
アルゴはその口に赤い肉片が付いているのを見留めた。
「まさかさっき、水蛟を撃退したのは――」
「はい。この子が」
撫でられていたガンギコゾウが、どこか誇らし気に小さく喉を鳴らした。曰く、強靭な顎で凄まじい音を立てながら魚を食べるヨウカイなのだという。
「そうでしたか。よくやってくれました――ありがとう」
「いえ、アルゴさんが出してくれた信号のお陰です。あれがなければ船は発見出来ませんでした」
自棄を起こして投げた信号玉が、思わぬ功を奏した。アルゴは苦笑する。
「あ、あの……!」
仲間を受け取り解放したスズカは、無事を確かめた後立ち上がった。
「郷の皆のこと、本当に感謝してる。アンタ達が来てくれなかったら……本当にありがとう」
泣き出しそうな赤い顔で、素直な感謝の言葉を口にし、スズカは改めて膝を着いて頭を下げた。
「顔を上げて下さい。我々はただあなた方の暮らしを守りたかっただけですので」
慌てる二人に対してスズカは言葉を重ねる。
「それが嬉しいの。それがありがたいの。本当に、ほんとうにありがとう」
そのように笑顔を向けられてしまっては、二人は返す言葉に窮してしまう。面映ゆい静寂は暫し続き
「――まだ全てが終わったわけではありません。皆さんの所へ向かいましょう」
パーカーは言葉を発せない。目覚めればきっと混乱も起きるだろう。そこにこそスズカの助力が必要不可欠だった。
「うん!」
立ち上がるスズカ。舟の漕ぎ手とのやり取りを経て、アルゴ達は来た道を辿る。
その一歩を踏み出して、アルゴの意識は全身の脱力感と共に闇に沈んでいった。
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