第二章:触手少女①
「……っ」
肺が熱い。体を中と外、両方から苛む熱にアルゴは呼吸さえ儘ならず遠退いていく意識を何とか繋ぎ留めていた。
外套は脱いで丸めて、腕の中にある。『
顔を上げると、大きな影はすぐそこまで迫って来ていた。
威容に反した不気味なまでに静かな動き。それを可能にするのは三対の肢。
『
雑食で食欲旺盛。口に入るものならば鉱物でもヒトでも摂食するこの魔獣は、しかし本来は穏やかな気性の筈だった。
それがこうも荒ぶり自分達を執拗に攻撃してくる。アルゴは岩融の生態報告調査の頁を頭の中で捲る。
目撃例そのものは少ない岩融であるが、その巨躯と気性故に調査観察もし易い。彼らの数少ない、ヒトを積極的に攻撃した事例にある共通点を思い起こす。
そうなる以前、数日以内にヒトが岩融を襲っていた。
『
周辺に暮らす人々の話を聞く限りに於いて、その様子を見る限りに於いて、彼らは岩融との付き合い方をよく分かっているようだった。不用意に手を出せば集落が丸ごと壊滅することもあると。
そして数名の口から出た見慣れない調査官の存在。
「……っ」
興奮状態の岩融の鎮め方を、アルゴは落ち着くまで距離を取る以外に知らない。巨躯故に薬は効果を発揮せず。頑健故に力で対抗出来る魔獣は限られる。『
振り上げた鋏状の爪が突き立てられる。危うく地面を転がれば、その名が示す通り爪は深々と岩肌に喰い込んでいた。
肺の痛みにアルゴは悶える。熱だけではきっとない。或いは折れた肋骨が刺さっているかもしれない。
装咬は食べるのかな。
そんな考えが迫り来る岩融の姿に過ぎった。同時、異なる痛みが胸に生じる。
それは嫌だ。
自分が魔獣に殺されるのは、良くはないが仕方がないと割り切れる。しかしパーカーが自分の巻き添えを食うのは形で死ぬのは。
自然の摂理の反する。特にここは装咬の生息圏外なのだ。
ならば。パーカーを生かすためにはどうすればいいか。一つだけ、アルゴの頭に浮かぶ。
「パーカー。生き延びろ」
それは命令というにはあまりに漠然とした、寧ろ願いに近かった。外套を抱く手が燐光を零す。
「『進化』――『非・
『洞咬』より更に一段階上の進化。禁じ手。全てはパーカーに然るべき死を迎えさせるため。アルゴは龍種にも相当する危険な魔獣と同じ名を口に出し、その封を解いた。噎せ返り吐き出した血は、まるでその判断を糾弾するかのよう。外套に刻まれた紅い斑模様は、ならば彼の罪そのものか。
しかし覚悟は決め終えていた。
岩融が不意に肢を止める。それは今までに何度となく目にした動き。得体の知れない何かを警戒している際に見せる行動。
外套がざわざわと震え、どろりと零れ落ちる。腕の中に感触は残ったまま、アルゴはふと軽くなったことだけを感じた。
洞咬へ進化させる際の慣れ親しんだ感覚に加えて、全身が総毛立つ寒気に襲われる。
彼の人生に於いて殆ど経験のないそれは、極めて強大な力を持つ魔獣と相対した際に感じるもの。
そしてアルゴは死を悟った。
岩融が両の爪を振り上げ威嚇の構えを取る。アルゴと岩融その両者の間で、地面が盛り上がった。
まるで被っていた布団を脱ぎ去るようにのっそりと、ヒト型の華奢な背中がアルゴの前に立った。
「……?」
拍子抜けのした彼を、ぶり返した胸の激痛が諫めた。
もっと巨大だと勝手に想像を膨らませていた。しかし現れた魔獣の体長はアルゴの背丈よりうんと小さく、一四〇センチほど。なだらかな曲線はヒトの雌によく似ていた。毛髪を真似るように触手または
後ろ姿はまるっきり少女だった。
その少女を前に岩融は威嚇を止めない。ばかりか少しずつ、少しずつ後退っている。
その姿にアルゴは気を張り直す。生きて帰れる確証もない中で、研究者の性が少女の姿の魔獣の行動を、一挙手一投足見逃すまいと、目を離さなくなる。
『非・海后』は腕を広げる。爪のない指の形は、アルゴには攻撃を意図しているように見えた。岩融もまた警戒を強める。
その両腕の表皮が柔らかく波打った。
「――!」
突如としてその波は大きくなる。蕾が大輪の花を咲かせるように。或いは無慈悲な水害のように。
波はうねり、絡み合い、巨大な腕を成した。つるりとした体表には大きな斑模様。伸縮する色細胞は、爛々と鈍く輝く眼を象り、岩融を睨み付ける。
数多の視線に晒され、岩融は爪を打ち鳴らす。しかし後退する肢の動きはより早くなって、そして遂には戦意を喪失してしまった。ゆっくりと爪を下ろし、後退を続けながら体の向きを変え、そしてアルゴ達に背を向けると静かに走り去っていった。
「――」
アルゴは胸の痛みさえ忘れてその様に見入っていた。呼吸さえ忘れていたかもしれない。
そんな彼の前で巨腕は排水溝に吸い込まれる水のように、解けて縮んで元の少女の細腕に戻った。
非・海后が彼を振り返る。
アルゴは息を詰まらせる。忘れていた分を上乗せしたような激痛が胸に走った。
その面貌にアルゴは、この非・海后がパーカーが進化を遂げた個体であることの確信を抱く。
幼さを残した、しかし人形のように完成された顔。ヒトのものとは異なる瞳。
見惚れたわけではない。
忘れようもない。その姿は発見した当時のパーカー。少女の遺体と同化していたときの彼女そのものだったのだ。
まさに人形のような無表情を貼り付けて、パーカーはゆらゆらと体を左右に揺らし近付いてくる。表情も相まって、その様は糸に吊られているようだった。
アルゴは動けずにいた。知的好奇心もある。が、困惑が彼をその場に縫い止めていた。
遂にパーカーは彼の元まで辿り着く。肉迫した彼女は、ずっと小さく華奢だった。
薄い唇がゆっくり隙間を作り広げていく。何事かを発しようとしているようだった。
「……」
しかしパーカーは小さく口を動かすばかり。声の出し方が分からないのかとアルゴは推察する。兎も角敵意は感じられなかった。
「……よくやった。パーカー」
痛みと緊張で声が掠れる。そんな中でアルゴは、これまで通りに彼女に接してみることにした。
「……」
パーカーはじっと彼を見詰めた後、彼が抱いたまま丸められた外套に徐に手を伸ばす。外套の端を掴んで、そのまま彼女はじっと動かなくなった。様子を窺って観察しているようにも見えた。
『よくやった』は一時待機の合図。常ならば外套と同化するパーカーは、しかしヒト型のままで。
同化、擬態が出来なくなっている?アルゴにとって非・海后の生態は完全な未知だった。そしてパーカーも明確な答えを示さない。
「一旦帰るか。パーカー」
いずれにせよここに居る意味はない。パーカーは顔を上げアルゴをじっと見詰める。
「ついておいで」
胸の痛みを堪え、彼はパーカーの手を取り踵を返す。
初めこそぎくしゃくとして覚束なかった足取りも、山も麓まで下った頃には随分と綺麗になっていた。
自分の歩く姿を真似て学習したのだろう、そうアルゴは考えた。胸を抑え左足をやや引き摺っていたから。
これからどうすべきか。そこで彼は、パーカーがこのままでは街に入れられない姿をしていることに思い至り外套を羽織らせた。
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