魔獣③

 仮眠室を宛がわれたアルゴは服も鞄もすべてを放り出す想像をしながら、鞄は簡素な机の上へ、外套は壁へ、想像とは裏腹に丁寧に下ろす。『黒犬ブラックドッグ』は引き渡しを完了し、彼は決して広くはない部屋に寂しさを覚える。

 鞄を開く。その小さな金属音さえ大仰に部屋に木霊し、壁に掛かった外套が音もなく揺れた。

 徐に取り出されたのは大きな瓶。縦長の円筒の中には棒状の茶褐色の何かが詰まっている。また外套が揺れた。今度は先程よりも明確に大きく。そして揺れは壁にも伝わる。まるで水面のように。まるでそれらは一つに繋がっているかのように。

 瓶から棒を取り出すと、揺らめいた壁からぬるりと、腕が伸びた。それはタコやイカの触手に似て、しかし壁と同様に無機的でもある。

「待て」

 棒の寸前にまで迫った腕が、その一声でぴたりと止まる。

 アルゴは更にもう一本棒を取り出した。腕の先だけが一連の彼の手を追っている。

「よくやった。パーカー――よし」

 柔らかな声音で労いの言葉が掛けられる。腕は棒の一本を絡め取ると壁へ運ぶ。

 壁に嘴が生えた。

 差し向けられた棒をそれはすっぱりと切り取った。短くなった棒の、つるりとした断面がアルゴの目にもよく見える。

 咀嚼しているのか、かちかちと嘴が小さく鳴って、やがて腕は残った棒を運ぶ。

 腕は空になるとアルゴの手からもう一本を奪い、また嘴の前で待機した。

「……」

 一連の食事の様子を、アルゴはじっと眺めている。パーカーにそれを気にする素振りは見られない。

 今となっては当たり前だが、ここまで慣れてくれるのにはかなりの時間を要した。

 寂寥感は一方的で勝手な感情だ。囚われていたところで、誰に何の利益を齎すわけでもない。

 アルゴは取り出したペンダントを額に翳し、数秒の間目を瞑る。その僅かな間であの黒犬にとっての幸福を願う。

 目を開けば、壁がまた波紋を広げていた。今度は外套へと戻っていく。アルゴは言葉を掛けない。

「はぁーーーーーー」

 代わりに盛大にため息を吐き、彼は自身の内に溜まっていたものを一緒に吐き出す。風船の空気が抜けるように彼は床にへたり込んだ。性分が、備え付けの寝台に身を預けることを拒んだ。

「……」

 机、壁、寝台に視界を囲まれて、背中の硬い感触にアルゴは棺の中を連想する。奇妙な安心感に包まれながら、彼は壁に掛かる外套、それと同化している『装咬ミミック』――パーカーへ視線を向ける。

『装咬』正確にはその変異体である彼女(便宜上)を発見出来たことが、アルゴにとって一つ目の幸運だった。

 二つ目の幸運は彼女を使役出来るようになったこと。それにより、他の装咬にない生態を持つと思われる個体を間近で観察出来るようになった。研究者という立場を安定させることが出来た。

 そして三つ目。実地調査で荒事に巻き込まれる機会が増えた中で、パーカーに『進化』が確認された。戦力の増大に加え、未だ謎の多い『洞咬フォールダウン』の生態調査も可能になった。

 凡才を自覚しているアルゴの顔は、しかし決して晴れやかとは言い難い。

 洞咬からさらに一段階、パーカーは進化を重ねている。しかし彼は今まで、一度たりともその封印を解いたことがない。その魔獣の名は彼にとって未知のもので、恩師をはじめとして他の研究者、調査官、頼れるだけの伝手を辿っても、詳細は掴めないままだった。

 研究者の顔をした好奇心と、冴えない凡人の顔をした理性とが、代わるがわる説得にやってくる中で、彼は頑なに凡人の意見を採用し続けてきた。

 パーカーが自身の手に余る怪物になること、それによって彼女の命が奪われることも、彼女が誰かの命を奪うことも嫌だった。しかしこうも考える。

 この意地をいつまで張り続けていられるだろう。

 もっと多くの魔獣を見てみたい。

 その為に何が必要か、研究者の彼は知っている。

「……」

 まるで試されているようだった。倫理観、或いは願いの強さを。

 これでは休息どころではない。アルゴは目を瞑る。そすることで無理矢理思考の袋小路から脱出した。

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