少女がうまれる

筆入優

少女がうまれる

 僕は顔以外の肌で季節を感じたことがない。肌を晒すと危ないと教えられ、半袖を着たことがない。冬は熱中症になるのではと心配になるほどの枚数を両親に着せられ、不格好に見えるほど着ぶくれした。そんな姿になってまで学校へ行きたいとは思えず、去年の冬に相談したところ、あろうことか両親は嬉しそうに承諾した。


 当時は確か高校一年の冬だった。結局、サボり癖がついてしまった僕は高二の夏になっても引きこもり続けた。普通の両親なら、学校へ行きたくないと言う子供をどうにかして説得しようとするだろう。そうでなかったということは、僕の両親は恐らく異常なのだ。そのことについて両親から禁止されているインターネットを使って検索すると、『過保護』の記事が出てきた。彼らはそんな生易しいものではない。確かに衣食住は提供してくれるが、あまりに多すぎる愛は暴力だ。


 愛は弓矢だ。捉えきれなかった分は体を撃ち抜く。これが暴力でないなら、何だと言うのだろう。


 インターネットに接続するための機械は母親が全て床に投げ捨てた。蜘蛛の巣のようになった液晶画面が昨日の事のように思い出される。


 母親曰く、インターネットを見ると頭がおかしくなるそうだ。アニメは教育に悪影響で、小説を読むと暗い人間になってしまうという。漫画を読むと馬鹿になってしまうとも言っていた。彼女はそれらに触れないままおかしくなったのだから、人の言うことはあまり信じられない。


 父親が亡くなってからは更に狂った。外に出ただけで僕は怒られ、行場をなくした。部屋にトイレとウォーター・サーバーが取り付けられた。僕が外に出なくても良いような工夫が施された。


 高二の夏から一度も部屋の明かりを点けていない。薄い膜のような暗闇にも慣れてしまった。目が慣れるということは、とても怖いことだ。あんなに怖かった暗闇が何でもないように見えてきて、母親に対する嫌悪感は引き始めて、僕に与えられたあり得ない生活が普遍的なもののように感じられるようになる。世界を捉えていたはずの両眼は麻痺し、目の前しか見えなくなる。その奥にある世界は、こちらに干渉しない風景のように映る。世界がここだけのように思えてくる。それはとても、怖いことだ。


 友人や知り合いなどの生活を知らないまま育った子どもの多くは、自分の生活が普通だと思い込んでしまう。僕のような人間がそうならないために情報は存在する。インターネットは存在する。あの時パソコンで調べた知識がなければ、僕も哀れな子供と同じになっていたかもしれない。


 僕は変わるべきなのだ。一刻も早くこの生活から脱する必要がある。


 覚悟が決まった後は早かった。元々少ない荷物をリュックにまとめて、父親の趣味だったキャンプ用具をクローゼットから出すことにした。


 クローゼットの上段は天井に近いところにある。僕は脚立を慎重にクローゼットまで運ぶ。

 角を曲がったところで、硬質な衝撃音が響いた。脚立と角がぶつかったのだ。その音は密閉された廊下によく響き渡った。


 失敗する。そう直感した。案の定、リビングからこちらへ足音が向かってくる。夜中の二時にソファでうたた寝をしていた母親はどうかしている。僕も僕で、違う日に計画を決行すればよかった。気持ちが逸るあまり理性が働いていなかった。


 母親が目の前に現れる。玄関前に置かれた黒いリュックを見て、それから脚立を見る。僕を見る。彼女は全てを悟ったようだ。彼女の手が伸びるより前に僕はすぐさまリュックを引っ掴んで外へ飛び出した。


 サンダルの薄い靴底越しにアスファルトの感触が伝わってくる。硬質な、地球の肌触りが。


 母親は数メートル後ろで膝に手をついていた。逃げるなら今のうちだ。テントも持っていないけれど、とにかく遠くへ行きたい。


 約一年ぶりに吸った外の空気は美味しくなかった。けど、ホコリ臭い自室よりは遥かにマシだった。


 住宅地を抜けて、大通りに出る。息が上がり始めている。僕はTシャツの裾を捲って、また走り出した。さっきに比べれば緩やかな走行だが、母親一人を巻くには十分な速度だ。


 街を外れて山へ向かう。


 背中の重みが体力を奪っていく。山の入口についた時点で僕の足は棒になっていた。肩で息をしながら水筒を飲んだ。深呼吸して体を落ち着かせて、遅々とした足取りで山を登り始めた。


 懐中電灯の灯りに虫が寄ってくる。大きな蛾が飛びついてきた時は僕も飛び上がってしまった。それと同時に放り投げられた懐中電灯は山肌を転がり落ちていった。蛾も道連れだ。


 自室よりも黒い暗闇を延々と歩き続けた。まるで果てがないようだ。時折茂みが肌を刺した。ここに来て長袖が効果を発揮した。


 しばらく進むと小屋が見えてきた。目はすっかり慣れてしまい、周辺の草木や空模様をぼんやりと捉えられるようになっていた。


 どれだけ汚くても、住める場所であれば構わない。古ぼけた木製のドアを開く。建付けが悪かった。何度か動かした。突然、軋むような音と共に扉が外れた。どうせ使われていないのだろう。僕は扉を直そうともせず、そのまま地面に置いた。


 小屋の内部は意外と清潔に保たれている。蜘蛛の巣が散見されたが、中心に置かれた机も椅子も滑らかな肌触りだった。


 まるで秘密基地のような場所だ。


「誰?」


 女の声がした。不思議と、恐怖はなかった。甘ったるい声だった。


 僕の前にぼんやりと白い影が浮かぶ。それは構築中のホログラムのように、薄く浮かび上がり、だんだん色と形を強めていく。幽霊だとわかったけれど、逃げ出さなかった。怖くなかったからだ。心臓は驚くほど落ち着いていた。その落ち着きぶりに息を飲むぐらいには落ち着いていた。


 残像のような人型はその存在を露わにした。これ以上の変化は起こらなかった。


 それは少女だった。背中まで伸びた長い黒髪。幸薄そうな細い目。身長は僕の胸ほどの高さだ。白いワンピースは足元まで垂れている。


「……帰って」


 少女は囁くような声で言った。


「ごめん、帰る場所がない」


 僕は答えた。


 少女は顔を少し下げた。


「じゃあ、その大荷物はどこから?」


「家だよ」


「帰る場所、あるじゃん」


 少女は意味がわからないという風に首を振った。


「帰りたくないと言えば、わかってくれるかな」


 あの家は家であって、家ではない。『家』が温かい家族や安定した暮らしという意味も含んでいるのだとしたら、あそこは廃墟だ。


 少女は目の前から消えてしまった。


  *


 意識に重圧がかかるような感覚と共に目が覚めた。まだ頭が重い。ゆっくりと起き上がろうとする。


 まず、女の子の体が目に入った。壁に空いた穴と取り外されたドアが朝陽を通し、少女の白い肌を照らしている。霞む視界が見せた幻覚だと思った。朝陽を受けた彼女は眩しく、このまま朝陽に溶けて消えてしまいそうだった。起こさないよう慎重に立ち上がる。


 何度か目を擦って、景色にかかっていた靄を消す。もう一度少女のいた方を見た。僕という支えを失い、床に倒れ込むようにして眠っている少女がいた。どうやら僕の感じていた重みは本物だったらしい。よく見れば、昨日少し会話を交わした少女と同じ顔だ。特殊な現れ方をした彼女のことを初めは幻覚だと思っていた。疲労のせいでおかしなものが見えてしまっているのだと思っていた。しかし、朝になってもそれは消えなかった。いよいよ僕は、少女を幽霊、あるいは化物の類だと認めざるを得なくなった。


 正体不明の何かと喋った昨日の僕は、気でも狂っていた。両親よりも恐ろしい存在かもしれないということを、失念していた。


 僕は人間とすらあまり関わっていないのだ。未知の存在と関わるなんて、百年どころか一生早い。生まれ直してようやく未知と僕は釣り合うことになるだろう。


 リュックからパンと水を取り出す。長居するつもりはなかった。一週間ほど家出をして、母親に今までの行いの異常性を気づかせることが目下の目的だ。


 少女が転がった。寝返りを打ち、仰向けになる。胸が小さく上下している。それは目を凝らさないと静止しているようにすら見える。彼女の呼吸は、いつか死んでしまいそうな儚さを孕んでいる。


 丸太の椅子を持ち、座ったまま少女の傍に近寄る。よく見ると、腕が透けていた。中は骨がなく、薄茶色の床を透かしている。これを見て、人間だと思い込むほうが難しくなった。


 少女のまぶたがシャッターのようにのろのろと上がる。目を擦り、瞬きすると体を起こした。


「まだいたの?」


 少女は目を擦った。


「帰る場所がない」


「そういえば、そうだったね……」


 寝ぼけた意識のまま、椅子に座る。僕も彼女の隣に戻った。


「今の君がどんな立場にあるか、わかってる?」


 少女は問いただすように訊いてきた。昨日は問い詰められなかったので油断していた僕は、曖昧な言葉しか返せなかった。


「死体に群がる蟻」


 少女はひどく冷たい声で言い放った。


「……ごめん、どういう意味?」


 むしろ家で過ごしてきた僕のほうが死体になりかけていたというのに。死ななくとも、心の半分は腐っている。僕が蟻側である世界なんて、あってはならない。これはきっと、何かの間違いだ。


「流石に可哀想だったから昨日は許してあげたけど、そろそろ帰ってもらわないと困る」


 少女の言葉には敵意が滲んでいた。


「せめて理由を教えてほしい」


 拒否されるかと思いきや、少女は語り始めた。


「理由を説明するにはまず、私のことから話すべきかな。私は幽霊なの。この小屋のね」


 ということは、地縛霊か。


「地縛霊に限りなく近い。実際、私はここを離れられない。けど、私は人の魂じゃなくてこの小屋の魂だから、地縛霊というよりもここから動けないただの幽霊だね。

 本来地縛霊は、その場所に何かしらの思いがあって留まるわけ。私にはそれがない。建物と同じように、固定されてるから動けないの。建物の中に限っては、例外だけどね」


 少女は饒舌に語る。僕の理解は数秒遅れて追いつき始めた。


 要は、この少女は小屋そのものなのだ。


「けどそうなってくると、小屋にも命があることにならない?」


「命は何にでも宿るよ。星は灰になったら死ぬ。物は壊れたら死ぬ。建物も同じことだよ。本来、建物が自ら動くことはない。人の手によって動かされて、初めて生きたことになる」


「つまりこの小屋の所有者はもう」


 少女は頷いた。


「そういうことだから。今日までは泊まっても構わないけど、明日には絶対帰ってよね」


 少女はどこか寂しそうに言った。


「小屋の外は?」


 僕は提案した。今、母親は勤務中のはずだ。今のうちにテントを取りに帰れば問題ない。


 少女は思案した後、「いいよ」と言った。その瞳が微かに揺れたように見えたのは、気のせいだろうか。


 少女の縄張りに土足で踏み入るような行為は避けたかった。いくら幽霊でも、心がある。それを壊すということは、殺人を犯すのと大差ない。だから一度は渋々帰ろうとしたが、すぐさまやめにした。僕に「帰れ」と命令する少女の顔に憂いを感じたのだ。少女の顔に影を落とす憂いを取り除けば、何かが変わる気がした。


  *


 小屋に戻ってきたのは正午を過ぎた頃だった。小屋にエアコンはなく、テントと共に持参した団扇と、普通の人間は持ち歩かないような数の保冷剤で暑さを凌いでいた。


 クーラーボックスから、何本目かもわからないお茶を取り出して飲む。これらを持ってくる最中、道行く人々に怪訝な眼差しを向けられた。僕の顔はまだ世間に知られていないのか、警察に声をかけられることはなかった。


 テントから出て、小屋に向かう。少女にお茶をあげることにした。幽霊が飲めるのか、というのは愚問だ。幽霊は未知の存在だからこそ、『可能性』を秘めている。物を掴む幽霊がいたって不思議ではない。


 つけなおした扉の前で少女を呼ぼうと口を開いて、そのまま固まった。僕は少女の名前を知らなかった。仕方がないので扉を三回ノックすると、少女が出てきた。


「何?」


 上目遣いで尋ねてくる。


「お茶、いる?」


 ペットボトルを差し出すと、少女は「いいの?」と首を傾げた。


「たくさんあるし。まあ、幽霊には必要ないかもしれないけど」


「必要だよ」


 彼女らしくない、優しい声色だった。僕を見つめたまま、言葉を続ける。「水分を摂ると、思い出すの。所有者だった人が雨宿りしに来た時の匂いとか、彼の雰囲気とか」


 言ってすぐに顔を赤らめた。


「変な話しちゃった。君がこんなもの渡してきたせいだよ」


 少女は足早に中へ引っ込もうとする。


「ちょっと待って」


 慌てて呼び止める。


「名前、聞いてない」


 僕が尋ねると、少女は恥ずかしそうに呟いた。「休息所」


 一瞬驚いたけれど、彼女の返事は至ってまともだった。彼女は元々、建物だったのだ。人間的な名前であるはずがない。


 しかし、僕は小屋ではなく小屋の中から飛び出してきた幽霊と話している。人間的な名前で呼べないのは苦痛以外の何物でもなかった。


「君はそれでいいの?」


「え?」


「いや、『休息所』って呼ぶのは、違う気がして。君は人型の幽霊だろ」


「じゃあrestでいいよ」


 いきなり英単語を出されて戸惑った。しばらくその意味を考えた。


 『休憩』。


『休憩所』と同じような単語でも、英語にするだけで印象は大きく変わる。


「レスト」


 僕は誰に言うでもなく呟く。


「君の名前は?」


「サリ」


「わかった」


 レストはそれだけ言い、扉を閉めた。彼女に字の概念が理解できるのが不思議に思えた。以前の所有者がここで書き物などをしていたのだろう。僕は勝手に推測した後、テントに戻った。


 一人になった途端に現実が押し寄せてくる。

 ここで一週間も耐えきれるだろうか。半ばを過ぎた辺りから追手が来そうな、そんな予感がして、背中が震える。


 本音を言えば、あの家には二度と戻りたくなかった。僕の全てを壊した家、本人のキャパシティも知らずに投げられた愛、あの場所に漂う全てが不愉快だ。


 家出したからと言って、母親が自分自身の異常性を認識するかも定かではない。認識したところで、受け入れないと言われてしまえばそれまでだ。否定された人は、何かと理由をつけて自分を肯定したがる。過去に僕をいじめてきた人間も皆そうだった。教師に叱られても、僕のせいにした。僕が悪で自分が善なのだと言い張った。それでも教師が折れなかった時は、僕の母親のせいにした。僕も母親のせいにしたかったが、寸前で踏みとどまった。僕まであっち側と同じになるのはごめんだった。


 テントのチャックを僅かに開いて、外を覗く。気持ちが暗くなるのは大抵夜だったから、外が明るくて驚いてしまった。心に染み付いた不安が昼と夜の境界を曖昧にする。


 とにかく寝なければいけない。夜眠れなくなるとか、そんなことは問題の埒外だった。不安に耐え続けるほうが、眠れないまま夜を越すことよりも苦しい。


  *


 目が覚めたのは夜中の十二時だった。目を開く。何も目に入ってこなかった。光はどこにもなく、果てしない闇だけが目の前を覆っている。まるでブラックホールの中だ。


 僕は手探りで鞄からランタンを取り出す。手のひらで形をなぞり、それがランタンであることを確認した。また手探りで浅いスイッチを押し、明かりを灯す。弱い暖色の光がテントの闇を押し出すように照らした。


 その声は、よく響いた。蝉は寝静まっており、誰かの音を遮るものは何もなかった。けど、聞こえてきた声がレストのものだということに気づくまで三十秒ほどかかった。


「サリ、サリ」


 闇の中で、いや、闇の中に佇む小屋の中から聞こえてくる。僕はスニーカーに足をいれる。歩きながら、かかとを直した。


 小屋はすぐ目の前、テントから十メートルも離れていない。だから、自分が焦っていることに違和感を覚えた。何がそんなに心配なのだろう。


 それに、僕はレストと親しくなかった。深夜に名前を呼ぶ、あるいは呼ばれるような関係ではないはずだ。


 小屋の前に立つと同時、レストが扉を開いて出てこようとした。彼女は見えない壁に阻まれたように、部屋の中へ弾き返される。


 小屋の地縛霊は外に出ることができなかった。


「大丈夫?」


 幽霊相手に訊くことではない。


「よかった、まだ、いた……」


 レストは泣きそうな顔でそう呟いた。


「一旦落ち着こう。ランタン、机に置いとくよ」


 僕は丸太の椅子に腰を下ろした。レストは隣に座った。


 暖かい光が茶色の部屋で揺らめいている。


 レストはしばらくその光を見つめたかと思うと、急に大声で泣き始めた。それは天使の慟哭のようだった。


 涙が机にシミを作る。机は涙を受け入れ、小屋はレストの嗚咽を受け入れてくれる。この小屋は、世界は、優しさで成り立っている。麻痺していた両眼が視力を取り戻し始めた。


 レストは泣いている理由を語ろうとしなかった。教えてくれと頼むわけにもいかず、自分なりにその答えを考えてみる。


 僕は昼間に感じた不安感を思い出す。人の一番の敵は不安だ。不安を抱えているだけで、どこまでも人は弱くなる。


 抱えるという表現は一種の皮肉だ。持つ、よりも抱える、のほうが大切そうに持っているというニュアンスを含んでいる(ように僕は思う)が、不安感は持ちたくて持っているわけではない。


 言い換えるなら、そう、持たされている。自分に。


 脳みそには焼却炉がない。不安を、悲しみを体の何処かに捨てたとして、それが回収される日は来ない。捨てられた負の感情はやがて腐敗し、匂いが人を殺すようになる。僕らは体内に感情を置いている以上、逃げ場はどこにもない。


 バンプの『天体観測』を思い出す。


『悲しみの置き場』なんて、この世にはない。


 レストはひとしきり泣いた後、僕にこう問いかけてきた。「サリは不安になることはないの?」


「ある。いつも、不安だ」


「不安になるのは夜が多いと思うけど、サリはそうじゃないの?」


「不安の到達に時間は関係ないよ。今日……というか昨日は昼に突然来た。だから昼寝して、不安を有耶無耶にした。気分はマシになるけど、夜眠れなくなる」


 僕は苦笑した。


「サリはどうして不安になるの?」


「一番は家のこと。帰りたくない、本当に」


 切実な願いだった。


「帰りたくない家は家じゃないよ」


 レストが言う。その通りだと思った。


「私はこの小屋が好き。私以外に人がいなくなっても、思い出が私の心を救ってくれる」


「それは良いね。羨ましい」


 レストの言動が僕への当てつけのように思えてならなかった。


 だが、そんな勘違いはレストの続けた言葉で吹き飛んでしまった。


「これは多分の話ね。

 サリは思い出もあまりない。救ってくれるものが何もないから、帰りたくないんだ。だったらさ、家族なんて殺してしまおうよ」


「……なんて?」


 僕は聞き返す。


 レストは構わず続ける。


「お父さんかお母さんか、サリの家族構成は知らない。けどさ、サリを不幸にする人はみんな殺してしまったほうが幸せだよ、絶対」


 絶対。

 絶対。

 絶対。


 レストは言い切った。


「思い出が無い家は空っぽだから、負の不安で泣くことしかできない。私がさっき泣いてた理由、知りたい?」


 彼女の言動を理解するよりも先に、僕は頷いた。


「私は正の不安で泣いていたんだ。前の所有者との思い出がとても素敵で、忘れがたくて、この先彼がいない世界で生きていけるのかがわからなくて。過去に縋るような不安」


 一方、僕の不安は負の不安。家族が嫌で、素敵な思い出なんかなくて、今すぐにでも忘れたい記憶は体に染み付いて離れてくれず、この先母親がいる世界で生きていけるのかがわからなくて。


 そうだ。僕は母親のいる世界で生きていけるかわからないのだ。家出をきっかけにして母親が態度を改めたとして、それがいつ悪い方に豹変してしまうのかが予測できない。何かの拍子に元の状態に戻ってしまうのはよくあることだ。前科持ちが再び罪を犯すのはつまり更生しきれなかったわけで、母親がそれと同じにならないという保証はない。


 だから、現実で苦しまないように生きていくには。


 大元を断つしかない。


 暖色の中に両親の顔を思い浮かべながら、僕は決意した。


  *


 不安を吐露しあった僕とレストの距離は出会った当初からは考えられないぐらい接近していた。前の所有者が残していったという毛布を床に敷き、僕らは小指を繋いだまま朝を待った。


 レストが人殺しを許容した(それどころか、自ら提案した)ことには驚かされたが、人間とは違う倫理観を持っていると考えれば当然のことだった。


 彼女は建物だ。レストという名前も最初からあったわけではない。


 僕は建物の提案に乗った。そうしてしまった時点で、僕は人間としての尊厳を失ったかもしれない。けど、別に良かった。そうすることで幸せになれるのなら構わない。


 レストはまだ眠っている。腕時計は午前五時半を示している。蝉がポツポツと鳴き出す頃だ。まだ日の弱い朝がもたらす冷涼感の中を、僕は家へ向かって歩き始めた。


 計画は以下の通りだ。


 母親に、家出の謝罪をする。重すぎて持ち帰れなかった道具を車で取りに行くよう頼み、僕と共に山へ戻る。小屋の中に入ったところで、殺害する。万が一暴れた時は、レストにホールドしてもらう。殺害後はバラバラにした死体を埋める。


 山を下り、街を進み、かつて僕の住んでいた建物に帰ってきた。呼び鈴を鳴らすとほぼ同時に母親が出てきた。


「今までどこ行って……?!」


「ちょっと山の方まで……」


「中に入りなさい。話があるわ」


 僕はダイニングに通された。向かい合って座る。久しぶりに座った椅子は、柔らかかった。


「私はあんなに手を尽くしてきた。それなのにサリ、どうして家出なんてしたの、お母さんが悪いの? 今まであんなに頑張ってきたのに、お父さんがいなくても一所懸命働いてきたのに!」


 母親は机上の裁縫道具を僕に投げつけてきた。顔面に直撃した。熱を伴う痛みが、患部をじわじわと侵食していく。


「ごめん」


「わかればそれでいい」


 殺伐としており、頼みごとができるような状況ではなかった。僕は数日ぶりに自室に戻り、思索した。暗い部屋でベッドにうずくまり、ひたすら考え事をする。


 こんなことをしている間も、レストは僕を待っている。けど、何の成果もあげないで帰りたくはない。


 いつまでもうずくまってはいられない。僕は扉を開ける。


 廊下の光に目を細めつつ、リビングにいる母親の元へ。


「……母さん」


 彼女はヘビのように鋭い目つきで振り向いた。さっきは気付けなかったが、机の上に化粧品が置いてある。そういえば、以前『この日が同窓会なのよ』と高ぶっていた。今の表情から察するに、彼女は同窓会へいけなくなったのだろう。他の誰でもない、僕のせいで。


 けど、それは何の問題にもならない。どうせ殺す。彼女はどうせ死ぬ。死ねば、同窓会へ行けなかった苦しみからは解き放たれる。苦しむどころか、何も考えなくて良い。呼吸をすることさえ、意識しないで済む。


「キャンプ用具を出先に置いたままなんだ。一人で持って帰るには、少なくとも二往復必要。だから、その……車に乗せていってほしい」


「自分で取りに行きなさい」


 断られた時のことも、考えていた。


 使うのは躊躇われるが、思案している場合ではない。


「父さんの遺品なんだ。やっぱり家にないと、辛くない? 僕は辛い」


 禁じ手を使った。声が震えていたかもしれない。けど、それは別に父親を悼む気持ちからではなく、感情に訴えかける手段を使ったことに罪悪感を覚えたからだ。


 それでも、言葉はちゃんと伝わったようだ。母親は無言で立ち上がり、焼き物の皿の上からキーを取る。


 計画の第一段階は完了した。


 母親には先に車で待ってもらった。


 僕は台所からナイフを盗み取り、手提げ袋に入れた後、乗車した。


 母親は山の前に車を停めた。


 山の茂みの中を二人で歩く。運動に慣れていない母親は中腹に到達する前から息を切らしていた。それでも必死に歩き、小屋の前にたどり着いた。


 小屋を初めて見た彼女は、目を見開いてその景色を見渡したが、すぐに我に返り、荷物を取りに行こうとした。彼女はテントに向かったが、何もなかった。僕が事前に小屋の中に移動させておいたのだ。


 小屋の内部へ誘導した。


 母親にはレストは見えていないようだった。しかし、レストが母親に触ることは可能で、彼女は母親を微かな力で二度つついてみせた。


 母親の背中に回り、手提げ袋からナイフを取り出す。人を殺すのは初めての経験だ。いくら母親が僕に気づいていないとはいえ、手も震える。僕は両手でナイフの柄をしっかりと握り、刃先を母親の背中にほぼ垂直に向けた。


 後は勢いに任せて体を動かした。手で刺した、というよりも、体全体でぶつかったというほうがその時の状況には似合っている。全身で母親にぶつかったらナイフも同時に刺さった。


 母親は短く喘ぎ、その場にうつ伏せに倒れた。僕はナイフを引き抜いては何度も刺す。レストの助けは必要なかった。


 仰向けに転がしてみれば、母親は顔を苦悶の表情に歪めていた。叫ぶこともなく、嘔吐寸前のような苦しげな顔で天井を見ていた。焦点の定まっていない目は僕を捉えることなく、閉じられた。遺言の一つもなかった。


 全てが終わり、全身の毛穴から汗が吹き出た。


 モノが喉元までせり上がってくる。さっきの母親に似た表情で必死に耐えたが、五秒後にはその場に嘔吐してしまった。何が僕の気分を悪くさせたのかはわからない。きっと一つではないだろう。今までの記憶とか、生きていた頃の母親と今の母親の対比図が浮かんだこととか、飛び散った血とか、色々な要素が合わさった結果が僕の吐瀉物だ。


 レストが駆け寄ってくる。彼女は何度も僕の背中を擦った。


「サリはよく頑張った。なのに、私は何もできなかった。本当にごめん」


「いいんだ……腐っても彼女は僕の母親だ。僕が殺さなきゃ無意味に終わっていた」


 僕はなだめるように言う。


 レストは今この瞬間、役に立っている。彼女が背中を擦ってくれたおかげで、吐き気はみるみるうちに引いていった。外に出て、持ってきていた飲水で口元を洗った。


 死体を二人で外に出し、まずは小屋の清掃に取り掛かった。裏手に倉庫がある、とレストが言うので着いていく。


 倉庫の前まで来た時、異変が起きているのを悟った。


「レスト、なんで小屋の外に出られるんだ?」


 レストはハッとしたように目を見開いた。顎に指を当てて考える素振りを見せたが、答えは出なかった。


「まあ、出られるに越したことはないよ」


 レストは深く考えずに言った。倉庫を開いた。


 倉庫の中には、もう湿気てしまった花火や箒、雑巾、バケツなどが所狭しと収められていた。


 水道もあると教えられた。ずいぶん長いこと使われておらず、蛇口は硬かった。僕が精一杯の力で捻ると、夏の生ぬるい水が流れ出した。


 使えるものは全て使って掃除を済ませた。


「さあ、最後は」


 最後は大掃除になるね、と言ってレストは笑った。彼女が笑ったのは、この時が初めてだった。死体を前にして僕らは笑い合う。こんな歪んだ関係でいいのだろうか、と思いはしたが、後の祭りだった。仮にレストとちゃんとした友達になったところで、僕の罪は消えてくれない。


 さっきと同じナイフで母親の四肢を切断する。切れ味が悪く、たった一本の切断に何十分も要した。


 はるか昔に存在していた処刑の一部に、あえて切れ味の悪いナイフを用いて苦しめながらじわじわ死なせていくものがあった。僕にはできる気がしない。


 料理をするときとは違い、人間の肉の感触が刃を通して手に伝わってくる。切っている間、言い表せられない感覚がずっと続く。僕はまた吐きそうになった。


「変わろうか?」


 レストの声が聞こえてきて、僕は顔を上げた。丁度両足を切断し終えたところだった。切っている間に日はだいぶ落ちてしまっていた。空はモノクロームの藍色に染め上げられている。薄い月が僕らをじっと見つめている。


「両腕を頼むよ。そしたら交代しよう。首も切らなきゃだし」


 僕らは交代で肉体の切断をし続けた。


 全てが終わった頃には、藍色の欠片も見当たらないほど真っ暗になってしまった。僕はテントの中からランタンと、ボストンバッグにも似たテントの袋を持って戻ってきた。


 バラバラにした部位は頭部、四肢、胴体(横に切った)だ。これらをテントの袋の中に詰めていく。


 詰めるほどに、目をそらしたくなる現実の存在感が強まっていく。きっと、レストも同じことを考えているのだろう。彼女の顔からは以前のような毒は抜けていたが、言いようのない寂寞を纏っていた。


 これで、僕がここにいる意味はなくなるのだ。


「久しぶりに人が来て楽しかった」


 死体は、できるだけ遠いところに埋めることにした。鈴虫が鳴く夜の山道をひたすら歩く。


「最初は警戒してたけどさ。それでも、寂しさが和らいだのは紛れもない事実だよ。だからサリに感謝したし、どうにかしてその恩を返したかった」


「それが、僕を家に帰すための計画、か」


「やっぱり帰っちゃうんだね」


 レストは乾いた笑いを漏らした。


 小屋から十分ほど歩いて、少し開けた場所に着く。倉庫から持ってきたスコップで一心不乱に穴を掘る。まるで、レストの心の穴を掘っているような錯覚に陥った。掘り終わって死体を埋めたら、レストはどうなってしまうのだろう。


 独りになってしまうだろう。


 土が穴の横に積み上がっていく。じっとりとした夜の闇が纏わりついて、汗がこぼれ落ちる。


 八月は明日も巡ってくるのに、母親を埋めたら夏が終わってしまいそうな、悲しい夜だった。

 僕は死体の入った袋を穴の上で逆さまにする。土のクッションに母親が落ちていく。ボトッ、ボトボトッ、落下音が聞こえると、何故か肉体を切る感触が蘇ってくる。命の音が命を奪った時の記憶とリンクする。


「後は任せて」


 レストは置いていたスコップを拾い、死体の上に土をかけ始めた。


「ねえ、呪われたりしないかな」


 レストは半笑いで言った。


「僕らは人を殺して、埋めた。罪悪感が呪いだと言うなら、既に手遅れだ」


「でも二人なら怖くないね」


「建物は怖がらない」


「今の私は幽霊。感情もあるよ。倫理観は……彼がそういう話をしなかったから、わからない。私の語彙と知識の正体、知ってる? 彼が奥さんと交わした言葉の記録だよ」


 彼、というのは以前の所有者のことだろう。


「彼とはどれくらい仲が良かったんだ?」


 言ってすぐに、答えようのない質問だと気づいた。


「わからない。けど、少なくとも私は彼のことが好きだった」


 死体に土を被せながら語った。


 そして、付け足すようにこう言った。「サリのことも好きだよ」


「僕たちが過ごしたのはたったの二日間だ。一目惚れじゃあるまいし」


「サリのお母さんは私のことが見えていなかった。きっと見ようとしてくれてなかったんだ」


「レストは姿を見てもらえたら好きになるのか? 運命を信じ過ぎだ」


「ここにサリ以外の人間が来ることはないかもしれない。運命を信じなきゃ損だよ」


「損得で決めるものじゃないと思うけどな。恋愛って」


「彼はそれも大人の恋愛だって言ってたよ」


 レストの言葉で彼とその妻の関係性が垣間見えたが、深くは追求しなかった。


「運命に免じて、最後に一つお願いしてもいい?」


 レストは被せ終わった土を踏んづけたり均したりしながら、言った。普段よりも少しだけ、柔らかい声だった。


 レストが僕に近寄ってくる。彼女のつま先と僕のつま先が触れる。


 彼女が背伸びをして、僕の肩に腕を伸ばす。少し屈むと、目線が合った。彼女の腕が弛緩した。レストの張っていた腕の感触が首筋から消える。


 ──運命に免じて。

 ──運命に免じて。


 唇が軽く触れた。彼女の汗や甘い花のような匂いが伝わってくる。密着した体はひどく華奢で、一歩間違えれば埋められる側だったのでは、とどうでもいいことを考えた。


  *


 最後の夜、レストは僕から離れなかった。ずっと手を繋いで夜を明かした。


 日の出を称えるように蝉が鳴き出す。あまりにうるさすぎる鳴き声と同時に僕も立ち上がった。すると、さっきまで眠っていたはずのレストも立ち上がった。


「起きてたのか」


 レストは眠そうな声で答える。上手く聞き取れなかったが、恐らく、「よくわからない……多分起きてた」と言っていた。


 怪訝に思いながらテントに戻り、キャンプ用具を仕舞う。その時もレストは僕と一緒だった。離れないというより、離れられないように見えた。思えば、昨日からずっといっしょにいた。


 荷物を持って母親の車の前まで来た時、その違和感は膨張した。彼女は車の至近距離まで来たのだ。


 昨日、レストは小屋の外に出られた。彼女は一度、見えない壁に弾かれて小屋に戻されている。山一帯が行動範囲であるというわけではないのは明白だ。しかし、今の彼女は倉庫の前どころか死体を埋めた場所まで向かうことができた。あの時、僕はレストの行動範囲が広がったのかもしれないという根拠のない仮説を信じた。それ以外になかったのだ。


 しかし、車の近くまで来られるのは、いくらなんでも広すぎる。


「レスト」


 本人に聞いてみるのが一番早い。


「どうして僕に着いてくるんだ?」


 僕がそう尋ねると、レストは「簡単なことだよ」と言って、笑った。


「地縛霊はその場所への執着心から生まれるの。意識がそこに集中している。私は、サリと離れたくないと思ったんだ」


 そこから先は、聞く必要もなかった。彼女の言葉で、僕は全てを一瞬にして理解した。


 レストは僕の地縛霊として生まれ変わったのだ。


 僕は堪えきれず、大笑いをした。

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少女がうまれる 筆入優 @i_sunnyman

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