灯火

六番

灯火

 お久しぶりです。あなたが先日結婚したというのを、ある元同僚から聞きました。

 おめでとうございます。本来ならば直接に祝福をしたかったのですが、私にその資格があるとは思えなかったので、メールにて失礼します。

 私にとってのあなたは、同性としても、上司としても、恋人としても、本当に完璧な存在でした。あなたと結ばれた人が心底羨ましいです。

 私が異様なほど嫉妬深い女なのはあなたもよく知っていると思います。正直に言うと、今でもあなたのことは好きで好きで仕方ないです。けれど、あなたにどうこうしようなどと考えてはいません。今の私はあなたに感謝を伝えたいのです。


 一年前、最後に送ったメールの通り、私は電話番号もメールアドレスも変え、あなたに関わるすべてのものを処分しました。以来、あなたの近況などの情報も遮断していました。だから、あなたが結婚するまでの経緯を全く知りません。知っているのは、私が一方的に別れを告げたあの日までです。


「あなたを好きになり過ぎてしまったから、いっそ私を拒絶してほしい」という願いを、あなたは頑なに聞き入れませんでした。その真意がどうであれ、結果としてその対処は正しかったです。私の望み通りにしていたら、私はいつまでもあなたのことを未練がましく追っていたかもしれない。例え形式上でも、私が自分からあなたを拒絶したというプロセスがあったからこそ、今こうしてどうにか立ち直ることができているのだと思います。


 当初は本当に苦悶の日々でした。あなたとの思い出の品々を処分し終えると、気を紛らわそうにも私の周りにはちりあくたしか残っておらず、少しでも思いに沈もうものなら頭はあなたのことですぐにいっぱいになり、様々な感情がとめどなく氾濫してしまう有様でした。それでも、あなたにまた近づこうとは全く思いませんでした。私を拒絶しなかったことを一切恨まなかったと言うと嘘になりますが、私は自分自身の虚ろさに対する忸怩じくじたる思いに苛まれていたのです。


 あなたの気持ちを顧みようともせずに私の勝手で関係を終わらせてしまったこと、申し訳なく思っています。私があなたみたいに聡くて思慮深ければ、もっと良い方向へ進んでいたかもしれないのに。本当にごめんなさい。

 できることなら、あなたにいつまでも愛されたかった。けれど、自分がそれに相応しい人間ではないと弁えていました。その自己矛盾を抱えながら平気な顔をしてあなたと付き合い続けることなど、意気地無しで怯弱な私には到底不可能でした。

 不快な思いをさせたり迷惑をかけたくはなかった。そう言うと聞こえはいいですが、ただ怖かっただけなのです。あなたから与えられる愛とそれに対する感情の乖離は、日々を重ねるごとに悪化していきました。


 あなたと別れてからは、会社をすぐにやめて実家へ帰り、毎日引きこもりながらあなたと過ごした時間を何度も追憶しました。

 いつまでも浸っていたい心地良さと抗い難い渇望が交互に押し寄せる中、この飢えを満たせるのは結局のところ、愛しかないのだと確信しました。

 そうして私は立ち上がる決意をしたのです。とにかく行動を起こさねばと。人から愛されるに相応しい人間にならねばと。いつかまた、あなたのような人と出会えた時のために。

 あんなにも恋い焦がれる経験はもう二度と無いのかもしれません。それでも、愛を求めて歩み続ければ、人生を彩る何かを再び得られるときがきっとくると信じています。

 闇に満ちた失意の底から進むには導べとなる灯りが必要です。その灯火となり、私に希望を与えてくれてありがとうございます。あなたを好きになって、本当に良かった。


 このメールを送るべきか否か、とても迷いました。あなたからしてみれば、散々好きだと言っていたくせに、突然一方的に離れて音信不通になった意味のわからない女だろうから。

 しかし、過去を振り返ってみると、今になって感謝やお詫びを伝えたい人というのがあなたに限らず思いの外いることに気付きました。連絡先が分からない人、きっかけやタイミングを失ってしまった人、もう二度と会うことが叶わぬ人。だから、伝えられるチャンスがあるのならば無碍にせず向き合うべきだと思ったのです。いつかくるそのときを、あなたも見逃さないでください。


 夜半過ぎから書き始めたのに、間もなく夜明けです。この時間帯はあなたのことを特に色濃く思い出します。

 冷気の淀む仄暗い部屋の中、浅い眠りから目を覚まし、裸で抱き合ったまま微笑み合う二人。起き抜けで喉が開ききっていないあなたの少し掠れた声。大好物の蜂蜜入りコーヒーの香り。夜露に濡れた窓から寂寞の中の街を眺めながら、今日はどんな休日にしようかとぼんやり考える私。そこへ不意にキスをするあなた。

 あなたと過ごしたかつての日々を想起すると、どこか郷愁的で、あまりにも刹那的で、まるで断続的な夢をみているような錯覚をしてしまいます。

 いつか私が永遠に眠るとき、寒空の下、あなたとの思い出を胸に灯したい。私の魂を温めてくれる、かけがえのない原風景として。

 あなたの幸せを心から祈っています。お体には気を付けて。さようなら。

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