第5話 サハリア王宮 sideラヒム

「なんということだ!! すぐに宰相を呼べ!」


 サハリア王宮の国王の執務室で、国王マーリクの怒号が響いた。

 彼の手に握られていたのは、エスパルド帝国に潜ませていた間諜からの密書だ。


 使い魔を急かせるために与えたのか、密書の端には間諜の血がこびりついていた。


『三月末、兵五万、ベリアヘ進軍ス』


 エスパルド帝国がサハリア王国に向けて侵略戦争を仕掛ける、という知らせだった。



***



 ラヒムは国王に呼ばれ、彼の執務室に向かった。


 コンコンコンッと執務室の扉を叩くと、「入れ」と中から声が掛けられた。


「失礼します」


 ラヒムが執務室内に入ると、国王と宰相が険しい表情で待っていた。


 ラヒムが席に着くと、宰相から一枚の手紙を手渡された——間諜から届いた密書だ。


「…………私に出陣せよ、とのことですね?」


 ラヒムは努めて冷静に尋ねた。

 敵兵五万ともなれば、半分は死にに行くようなものだ。


「それもそうだが、もう一つ、お前には用がある」

「……何でしょうか?」

「お前が以前懇意にしていた女性についてだ」


 国王の言葉に、ラヒムはぴくりと片眉を上げた。


「おそらくあれは、人ではないのであろう? 可能なら、エスパルド兵の討伐に連れて行け」

「はぁ?」


 ラヒムから低く不機嫌な声が漏れた。鋭く国王を睨みつける。


「陛下は彼女が何者かご存知ですか?」

「知らん。だが、人ではないのであろう? であれば、そこら辺のただの一兵卒よりは使えるだろう?」


 国王は、たとえ何者であろうと、今はどんなものにでも縋りたい思いだった。


「彼女が何者かも分からないのに、戦争に巻き込むことはできません。私たちよりも強いとも限りませんでしょう」

「人型をとっているのだろう? 相応に強いはずだ」

「たとえそうであったとしても、そもそも彼女は我々の戦争には関係はない」

「ラヒムよ。冷静になって考えろ。エスパル兵は五万だという。サハリアですぐに出せるのは一万ちょっとがせいぜいだ。これがどういうことだか、お前になら分かるだろう?」


 国王は、重く深い溜め息を吐いた。


「ワシも、みすみす王太子であるお前を死なせたくはないのだ。……ラヒムはしばらく頭を冷やした方が良さそうだな」


 国王が目線を壁際に控えていた近衛兵たちに向けた。


 近衛兵二人がラヒムのそばに近寄った。恭しく、申し出る。


「……殿下。お部屋までご案内させていただきます」


 ラヒムは近衛兵に従って席を立った。

 執務室を出る前に、国王の方を振り返って、真っ直ぐに見つめた。


「陛下。私が彼女をエスパルド戦に参戦させることはありません。何より、もう彼女との縁は切れております」


 ラヒムはキッパリと言い切った。

 ガザルを守るための宣言だ。


「……ならば、探し出すまでだ。使える兵士は一人でも多く必要なんだ。活躍によっては、お前の愛妾に認めてやってもいい」


 国王は難しい表情で、淡々と言った。


 ラヒムの中で、何かが盛大にブチッと切れた音がした。


「ふざっけるなぁああ!!!」


 国王に掴み掛かろうとするラヒムを、近衛兵が簡単に取り押さえた。

 取り押さえられても、ラヒムは暴れて喚き続けた。


 国王が下がるように小さく手を振ると、近衛兵たちはラヒムを引き摺って執務室を退出した。


 ラヒムの怒号が、だんだんと小さくなって遠ざかっていった。



「今はどんな者の手でも借りたいんだ。国の存亡の危機なんだぞ? ……あやつを王太子に据えたのは間違いだったのか……?」


 国王は片手で額を抑え、酷く項垂れた。



***



 コンコンコンッと、ラヒムの部屋の扉がノックされた。


「兄さん、入るよ」


 扉越しに、弟のハキムの声が聞こえてきた。


 部屋に入って来たハキムの顔色は、今日は良いようだった。ただ、困ったような心配そうな表情を浮かべていた。


「陛下に言われて来たのか?」

「うん。兄さんを説得するように言われて来た」

「随分正直に言うな」

「本当のことだからね。それに、兄さんを説得するとでも言わなければ、ここには来れなかったよ」


 ハキムは、さっさとラヒムの向かいの席に座った。


 応接テーブルの上には、ローズ色の小鳥と、折り畳まれた手紙があった。


「兄さん、この子は?」

「使い魔だよ」

「でも、王宮では許可のある使い魔しか出入りできないはずだよね?」

「ガザルの使い魔は特別だよ。ちょっとした結界だったら突き抜けて飛んで行くから」

「……少し前に、国家魔術師たちが王宮の結界に穴がたくさん空いてるって騒いでた原因は、この子だったんだね……」


 ハキムは呆れた目で、使い魔の小鳥を見た。


 ローズ色の小鳥は愛らしく小首を傾げ、「ピチュチュ」と小さく鳴いた。——とてもじゃないが、王宮の結界を穴だらけにした犯人には見えなかった。


「これでよし」


 ラヒムは慣れた手つきで小鳥の足に手紙を括り付けた。


 窓を開けると、小鳥はパッと空へと飛び立った。


「……ガザル様に連絡をとってどうするつもりなの?」


 ハキムがラヒムを見上げて尋ねた。


「ガザルには、この国から逃げてもらう」


 ラヒムは席に座り直すと、ハキムと向き合って答えた。


「ガザル様にエスパルド戦を手伝ってもらわないの?」

「そもそも私はガザルが何者かも知らないし、どのくらい強いかも知らない。ただ、ガザルは優しくて、戦いを好まないということは知っている。そんな彼女を戦場には連れて行けないよ」


 ラヒムが柔らかく微笑んだ。

 久々に見た兄の笑みに、ハキムは目を丸くした。


「ハキムには守りたいものがあるか?」

「う〜ん……この国かな?」


 ハキムがなんとなく答えた。


「私はガザルを守りたい。それは、彼女が強いとか弱いとかは関係ない。私には自由がない。この国に縛られて、彼女の手を握り返すこともできなかった。だけど、せめて、戦いたくないという彼女の心ぐらいは守らせて欲しい」


 ラヒムの真剣な藍色の相貌に見つめられ、ハキムは「はぁ……」と溜め息を吐いた。


「僕は兄さんと父上の伝書鳩じゃないんだよ。でも、父上を説得してみるね。その間に、兄さんはガザル様を国外に逃してね」


 ハキムはそっと席を立った。


「あぁっ! ……脱出方法は取り上げられてしまったんだ……」


 ラヒムが大切なことを思い出して、情けない声をあげた。

 さっきまでのキリリとした表情とは打って変わって、しょんぼりと眉を下げている。


「兄さんは、本当に仕方ない人だね。分かったよ。後で人を寄越すね」


 ハキムはくすりと微笑んで、ラヒムの部屋を出た。

 


***



「ラヒム殿下、アイシャです」

「どうぞ」


 夕方ごろ、婚約者のアイシャがラヒムの部屋を訪れた。


 歓迎会の日以降は、ラヒムが認めたため、アイシャは女性らしい長髪のカツラを被らずに、耳下ぐらいの短いボブヘアを晒していた。


 最初は王宮内で奇異の目で見られていたが、ラヒムが変わらずに丁寧に接していることと、アイシャ自身も騎士のような独特な凛とした雰囲気があるため、今では好意的に見られている。


 アイシャはラヒムの部屋に入ると、侍女を下がらせた。


「かなり暴れたと伺いましたよ」


 アイシャは少し揶揄うように微笑んだ。


「ええ。父の暴言が酷くて……ガザルに対する敬意を欠く言葉に、どうしても耐えられなかったんです」


 ラヒムは眉間に深々と皺を寄せて、顔を顰めた。今思い出すだけでも怒りが沸々と込み上げてくるようだ。


「……高位の魔物は、恐ろしいですからね。私の元婚約者の領地も、魔物を侮って取引をしたばかりに、ほぼ壊滅状態になりました」


 アイシャが静かに語り始めた。


「噂にはお聞きしたことが……」


 ラヒムはじっと彼女を見つめた。


「彼らも嘘の約束をして、魔物をいいように使おうとしました。結果として、一夜で領都が跡形もなく消え去りました」


 アイシャは懐からポーチを取り出した。

 ポーチの中から、窓から脱出するためのロープや、目立たないような幻影魔術が付与されたローブを取り出す。どうやらポーチには空間魔術が付与されているようだ。


「ラヒム殿下、行ってください。ここは私が誤魔化します。私も高位の魔物の手を借りるのは反対です」


 アイシャは脱出道具を手渡すと、真っ直ぐにラヒムを見つめて言った。


「……ありがとう。恩に着ます」


 ラヒムはバサリとローブを羽織ると、ロープを伝って窓から脱出した。



 アイシャは、こそこそと身を隠しつつ王宮を出て行くラヒムの背中を、目で追った。


 元恋人の所へ向かうラヒムに対して、あまりいい気持ちはしなかった。


 だがそれ以上に、安易に高位の魔物の力を借りるのは反対だった。


 話を聞く限り、国王の人外に対する考え方や態度にも問題がありそうだった。いつどんなものが、彼らの怒りの導火線に触れるのか分からないのだ。

 国王は魔物を甘く見過ぎだ。


 たとえエスパルド兵を退けられたとしても、魔物に国を滅ぼされる可能性もある。


「ご武運を……」


 アイシャは、この場所からただただ祈ることしかできなかった。



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